時雨ハル



 俺が彼女に初めて会ったのは高校に入学した日、クラスで自己紹介をやらされた時のはず。だけど覚えてない。
 最初に彼女の存在を認識したのは、最初の地学の授業が終わった後だった。資料集をぱらぱらとめくっていた彼女は、右手の中で何かをころころと転がしているようだった。この子は自己紹介で何を言ってたっけ、と必死で思い出しながら声をかけた。その右手に何を持っているか気になっただけで、彼女が可愛かったからとかじゃない。いやほんとに。
「ね、何見てんの?」
 話しかけると彼女はこっちを見て、首を傾げた。
「えっと」
 何て答えるか考えてるのか、俺の名前を思い出そうとしているのか。どっちだか分からないけど、あんまり人の名前とか覚えなさそうな人に見えたからとりあえず名乗っておいた。
「あ、俺は柏木翔。よろしくー」
「よろしく。えっと私、笹原彩音」
「うん。よろしく、笹原さん」
 右手を出してみたのは興味といじわるが半々ってところだ。笹原さんは一度動きを止めて、それから右手の中の物を机に置いた。
 小さな音を立てて置かれたのは、ただの石ころだ。
「握手って久し振り、かも」
 ちょっと握って、すぐに手は離れた。
「そう? 俺、初めての人には結構してるけど」
「そうなんだ……」
「変?」
「ううん、多分普通」
「多分って何さー」
 下らない会話で笑いながら、さりげなく石を見てみる。薄い緑のごつごつした石で、笹原さんの手にもすっぽり収まるくらいの大きさ。店で売ってるパワーストーンみたいに磨いてあるわけでもない。なんか、中学の頃に社会科見学かなんかで行った、硫黄臭い火山に落ちてそう。
「あ、これ。ただの石」
 俺の視線に気付いてしまった笹原さんが、石をまた右手に隠す。
「何の石?」
「分かんないけど。もらい物の」
「へー」
 誰にもらったのかなとか気にしてないよ。机に出しっぱなしの資料集に目をやると、火成岩とかが載ってるページが開かれてる。
「もしかして調べてた?」
「ん、うん。まあ」
「見つかった?」
「ううん。載ってないかも」
「そっか」
 また、手の中で石を転がしている。無意識でやってるらしいその動きが何となく気になって、あの石が何なのかなーとか思って。
 調べちゃったのは、彼女とお近づきになりたいと思ったからじゃない。決して。

 *

 俺、意外と情報収集能力があるかもしれない。ネットで例の石の正体を見つけた瞬間はそう思ったけど、笹原さんと石の話をしてから一ヶ月経っていることを思い出して少しへこんだ。
「笹原さん、笹原さん」
 家で印刷してきた情報を片手に声をかける。それは偶然にも地学の授業の直後で、彼女はまた資料集をめくっていた。顔を上げて、驚いた表情で俺を見る。
「え、どうしたの、柏木くん」
「見つけたよ、石の正体」
 笹原さんの目がますます丸くなる。
「調べたの?」
「偉いでしょー」
 ふざけてみたら、何か曖昧な笑顔を向けられた。偉くないよね、ごめんなさい。
「はいこれ。リシア輝石?っていうらしいよ」
 プリントしてきた紙を渡す。一ページ目の一番上にある写真が笹原さんの石にそっくりだから間違いないはず。
「リシア輝石……」
「宝石にもなるんだって。っていうか、結構珍しいらしいよ」
 誰にもらったの、とは何となく聞けない。笹原さんはぺらぺらと紙をめくって、小さく「あ」と声を上げた。
「どしたの?」
「これ、光に当てちゃ駄目だって」
 彼女が指で示している所を見てみれば、光を当てると退色するとか何とか。
「ほんとだ。笹原さんのはまだ大丈夫?」
「うん、まだ。知らなかった」
 紙の束を整えて、俺を見上げて。
「ありがと、柏木くん」
 ふわりと微笑んだ。
 いや、違うよ。惚れちゃったとかそういうんじゃないから。まじで。

 *

 ころころ、ころころ。
 俺が笹原さんに視線を向ける時、彼女はかなりの確率であの石を右手に隠し持っている。先生が急に休みになって自習になった授業中とか、一緒に図書室の当番をしている時とか。暇そうな時とか何か考えてる時とかは特に石を持ってる確率が高くて、人と話してる時とかはいつの間にかどこかに消えてる。多分、ポケットの中だ。こんなこと人に話したら間違いなくストーカーに認定されるだろうけど。そもそも図書委員になったのが笹原さん目当てってことがばれたら終わるだろうけど。
 図書室のカウンターに二人で並んでいる今も、誰かが返却してきた本を左手でめくりながら、肘をついた右手の中で石を転がしている。
「器用なことするね」
「え?」
 笹原さんは手を止めて、丸い目で俺を見る。そんなに驚かせるつもりはなかったんだけど。
「いや、片手で本読んでるから。器用だなって」
「あ、これ。いつもはもっとちゃんと読むんだけど、ただの暇つぶしだから」
「面白くない?」
「私はあんまり、かな」
 読んでみる? と、笹原さんが本を差し出したので受け取る。そもそも本とかあんまり読まないんだー、とは言えないから何ページかめくってみる。うん、読む気しない。
「俺もあんまりかなー」
「そっか」
 俺が返した本を返却ボックスに入れて、笹原さんは首を傾げた。
「そういえば柏木くんって、いつもはどんな本読むの?」
 それ、笹原さんにとってはただの素朴な質問だけど、俺にとっては今後の命運がかかった質問です。
「いつも読んでるの見ないけど、本が好きだから図書委員にしたって言ってたから」
「あー、うん」
 ごめんあれ嘘、とは言える訳もなく。
「えーっと、そんなに読む訳じゃないというか」
「そうなんだ」
 笹原さんは頷いて、それ以上は何も聞かずに前へ向き直る。もしかして焦る必要とか無かったんだろうか。いやでも、納得しちゃってるように見えるけど本当はいろいろ考えているのかもしれない。ストーカー疑惑が浮上したりしたら俺の人生終わる。
 ――いや、待てよ。ひょっとしたらこれ告白のチャンスじゃないか?
 あなたがいるから図書委員になったんです、とか。それだ。それでいこう。本当は本なんて読まないけど、笹原さんが好きだから図書委員になったんだよ、だ。
「ささ」
「私もほんとは、本とかあんまり好きじゃなかったの」
「へ?」
 前を向いたまま呟くように言った笹原さんが、また俺の方を見る。
「あ、ごめんね。何か言おうとした?」
「いやいやいや、全然大丈夫」
「そっか」
 また前へ向き直ってしまう。待って、俺の今の一大決心はどうしたらいいんだ。
「えーと……笹原さん?」
「うん、なに?」
 ごめん無理。さっきは勢いで言えそうな気がしたけど、もう無理。ほんと無理。
「いや、あの。本、あんま好きじゃなかったんだ?」
「うん、昔はね。無理にでも読んでるうちに、もう癖みたいになっちゃって」
「無理にでも?」
「うん」
 ある人の影響でね、と小さく付け足される。その「ある人」っていうのが例の石をくれた人だって思ってしまったのはただのこじつけで、こじつけを口にしてしまったのはちょっとからかってみたかったからだ。
「その人ってもしかして、石くれた人?」
「え」
 笹原さんは目を丸くして固まって、何秒か経ってから、ゆっくり頷いた。彼女の頬が赤くなってるのを見て、少し前の自分を殴りたくなった。

 *

 いつものように二人で図書室のカウンタに並んで、いつものように世間話をして、ふと浮かんだ疑問を――聞けたらどんなにいいだろう。
 ほんと、今すぐにでも聞こうと思ってるんだけどね。その石をくれたのどんな人? って。ほら、今も手の中で転がしてるじゃん。普通に聞けばいいんだよ、普通に。
「あ、のさ。笹原、さん」
 つっかえた。しかも声が裏返りそうだった。走り去りたいくらい恥ずかしいけど、笹原さんは気にしていない様子でこっちを見る。
「なに?」
「いや大したことじゃないんだけど、さ。その石」
「うん?」
「もらった人、どんな人なのかな、とか」
 首を傾げられてしまった。なんで変な質問するのか絶対疑問に思ってるよ。不思議そうな顔してるよ。それでも笹原さんはちゃんと答えてくれるわけで。
「近所に住んでたお兄さんだよ」
 そう言って、手の中に石に視線を落とす。
「地質学っていうのを勉強してて、その関係で行ったところで、これを持ってきてくれたの」
 最近は会ってないけどね、と付け加えて、何かを懐かしむように目を細める。その人のことが大好きなんだって隠す気もないんだろうか。分かりやすすぎるくらい伝わってくるのに、はっきりと聞かないと引き下がれないのは何故だろう。
「その人のこと、好き?」
 笹原さんは顔を上げて、目を丸くして俺を見た。顔、真っ赤だ。
「え、あ、あの」
「あ、ごめん、変なこと聞いたかな」
 こっちが驚くくらい慌てるから、思わず謝ってしまう。顔を伏せながら首を横に振って、笹原さんはまた顔を上げることはせずに小さな声で答えた。
「あの、どうせ会えない、から。あんまりそういうの、意味が無くて」
「あ、そうなの?」
「もう家の近くには住んでないし、地質学とかの研究で色んなところに行ってる、から。来週も来れないって」
 あ、と聞こえるか聞こえないかくらいの声を出して、笹原さんは唇に手を当てた。本人にその気はないんだろうけど、聞いてくださいと言わんばかりの動作だ。
「来週なんかあるの?」
 聞いてみると、ちらりと上目で見られた。あ、やばい可愛い。
「……誕生日、だから」
「へ?」
 上目遣いに夢中でうっかり聞き逃すところだった。誕生日か。
「誕生日って、笹岡さんの?」
「うん。一応、約束してたんだけど」
 でも仕方ないから、と全然仕方なくなさそうな表情で付け足す。俺なら絶対そんな顔させないし、誕生日だって必ず祝うのに。なんて思ってしまうのはただの負け惜しみだろうか。
「……でも、好きなんだ?」
 こくりと、ためらうことなく頷かれてしまった。結構恥ずかしがりなのに、ゆっくりと反応することが多いのに。それだけ好きってこと、だよなあ。やっぱり。
「だい、すき。けっこう前、から」
 真っ赤っかな顔でそんなことを言って。負けたなあって、最初っから勝負できてたわけでもないのに思ってしまう。
「そっか。上手くいくといいね」
 ありがと、って消え入りそうな声で返される。男の子は泣かない。頑張れ俺。相手の幸せをそっと願うのがかっこいい男ってもんだ。
「誕生日って来週のいつ?」
「えと、木曜日」
 じゃあ水曜の放課後にプレゼントでも買うか。んで休み時間とかにさりげなく渡して……ん?
「その日って俺ら図書室当番じゃなかったっけ?」
「う、うん」
「いいの? せっかくの誕生日なのに」
「いいの。そんなに遅くならないし。家に帰ってから、ケーキ食べるくらいだから」
「そっか」
 好きな人が帰ってくるとなったら当番なんてやらないんだろうな、とか思う自分が恨めしい。いや、でも逆に考えればその人が来ないおかげで一緒に図書室当番ができるのか。
 とりあえず、うん。今日は笹原さんに欲しいプレゼントを聞いていじり倒しておこう。

 *

 今日も図書館は平和です。というか、暇です。
「今日も人、来ないね」
「あー、うん。そうだね」
 笹原さんはいつも通り右手に石を包んで、左手で本を読んでいる。相変わらず器用だ。そして今日が誕生日のはずだけど、特におかしな様子は見られない。おかしいのは俺の心中の方です。朝からできるだけ挙動不審にならないように努めてるんだけど、ちょっと失敗してるかもしれない。
「あのさ、笹原さん」
「うん?」
 本から顔を上げて、こっちを見られるだけで慌てそうな自分がいる。告白するわけでもないっていうのに。
「やー、今日誕生日じゃん? おめでと」
 噛みそうになりながらも伝えたら、笹原さんははにかみながらも笑顔を浮かべてくれた。やっぱり可愛い。
「ありがとう」
「あとこれ、プレゼント」
「え?」
 リボンが巻かれた、落ち着いた赤色の箱。手の平サイズのプレゼントを差し出すと、笹原さんは大げさなくらいに首を振った。
「い、いいよ! そんな気遣わなくてって、先週も言ったのに」
「気を遣うっていうか、俺があげたいだけだよ」
「で、でも……」
 困った顔でプレゼントをじっと見つめて、ちらりと俺を見る。
「えっと、じゃあ……ありがと」
「どういたしまして」
 まだ恥ずかしがっているらしい笹原さんににっこりと笑いかけてみる。ごめん、本当はすげぇ緊張してる。心臓破裂しそう。
「あ、開けてもいい?」
「うん」
 手の中にあった石をカウンタに置いてから、おそるおそるリボンをほどいて箱を開ける。出てきた物を見て笹原さんは首を傾げた。何に使うか分からない小さな巾着袋だから、無理もないかも知れない。
「ほら、その石さ。日光に当てちゃ駄目らしいから、入れ物があった方がいいかと思って」
「あ、そっか。そうだね」
 カウンタの上に置いてあった石を袋に入れて、紐を引っ張って口を閉じて、
「ありがとう。すっごく、嬉しい」
 何、その笑顔。
「え、あ、あー、うん。喜んでもらえて良かった」
 やばい、可愛い。その可愛さはどういうことなんだ。そんなに喜んでくれたのは嬉しいけど可愛すぎて直視できない。浄化されそう。
 なんか、ごめん。
「え、何か言った?」
「ううん、何も」
 少しだけ。本当に少しだけだけど、彼女が大好きな人からもらった石が、俺があげた袋に入っているのを見て、彼女の好きな人が嫉妬めいた感情でも覚えないかなあ、なんて考えていた。まあ、笹原さんが好きな人が彼女のことをどう思ってるかなんて分からないし、嫉妬なんてするはずもないって分かってるんだけどさ。
「そういえばね、柏木くん」
「ん?」
「この石をくれた人がね、今日は無理だけど、もうすぐこっちに来られるんだって」
 巾着袋の紐をいじりながら、嬉しそうな顔で言う。今の笑顔よりさっきの笑顔の方が可愛かったよな、なんてちょっと優越感じみたものを感じながら。
「よかったじゃん。じゃあ遅めの誕生日プレゼントとか?」
「もらえる、かな。あんまり期待はしてないけど」
 いつもは無表情なのになかなか笑顔が消えない横顔を、一度くらいなら、って心の中で言い訳しながら手を伸ばした。
 さらさらの髪の毛を数回だけ、優しく撫でる。
「応援してるよ」
 彼女は恥ずかしそうに、だけど嬉しそうに、こくりと頷いた。

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