coco 様


 薄汚れた天幕の内側に、途切れ途切れの歌声が響く。
 まだ若い女の澄んだ声。まるで小鳥のような高音と、海のように豊かな情感が、故郷に訪れる朝を歌っている。
 伸びやかな最後の一音が、鼓膜を震わせる。
 そして一拍を置いて、かすかな溜息。それで終わりだ。
 ジジジ、と砂嵐のような音に続いて、再び流れ出す女の声。全く同じ歌が、全く同じ調子で天幕を満たしていく。
「……………」
 男は旧型のオーディオを傍らに置き、片膝を抱える格好で、天幕の奥に黒い影と一体になって座っていた。
 閉じた瞼の裏側に、歌う女の姿が浮かぶ。長い髪、細い眉、少し垂れ気味の目尻と柔らかな頬。決して目を引くような美しい女ではなかったが、優しく、強い女だった。何よりも歌うことを愛していた。世界を、愛していた。
 男はラジオから響き渡る女の歌声に静かに聞き入る。
 全ての準備は整っている。後は刻限を待つだけのこの乾いた空白を、柔らかな歌声で紛らわす。
 ――何度も、何度も。

 小さなオーディオ機器が四度目の歌声を響かせ始めた頃、天幕の入り口から一人の青年が入ってきた。
 首に暗視ゴーグルを掛け、肩には銃器を下げている。
「そろそろ時間だぜ」
「……ああ」
 男は白髪交じりの頭髪をかき上げ、閉じていた瞼を開いた。
 天幕の表は、刻限を目前にして騒がしくなっていた。朝日と同時に、仕掛けることになっている。
 青年は天幕に足を踏み入れ、そこに満ちている女の歌声に目を細めた。
「アンタ、いつもこの歌聞いてるよな。すげえ古い歌。……アンタの趣味には思えねえけど」
「俺がどんな歌聞こうが俺の勝手だ。おい、そこらへんに書類が積んであるんだ、蹴るなよ」
「へいへい」
 歌声は、自然豊かな故郷の情景を歌っている。
 青い空に、白い雲。瑞々しい風が吹き、小川で魚が跳ねる。一面に広がる黄金の麦畑と、峻厳にそびえる山々。
 ――いつか、かえりたいわ。
 遠く隔たった異国の町で、女はそう言っていた。あなたにも見せてあげたい、そう笑って。
「そういや、この国の出身だよな、この歌手」
「……知ってるのか」
「アンタのお陰でな。こう毎度聞かせられてちゃ、調べてみようかって気にもなる。
 ――政府の連中に、殺されたんだっけ」
「……………」
 男は沈黙し、無言のままオーディオの電源を落とした。
 ぷつり、と歌声が途絶える。だが、女の残した余韻はいつまでも男の胸から去ることはない。
 ――とてもきれいなところなのよ。
 懐かしい声を脳裏に、男は青年の横をすり抜けて天幕から出た。
 冷たい夜風がびゅう、と吹き抜ける。
 目前に広がるのは、黒々とした影ばかりの乾いた荒野。遠く、街の灯が見える。
 男の周囲には、いくつもの天幕が張られていた。武装した男たちが行き交い、風は火薬と死の臭いを、遠い山間にまで届けるだろう。
「なあ、もしかしてアンタ……知り合いだったのか」
 あの歌手と。
 手の中のマシンガンを握り締め、男は青年に背中を向けた。
 応える声は、風の中に掻き消える。
「………もう、忘れた」

 ――朝日が昇る。


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