水面 様



冷や汗が背を濡らす。声は聞こえない。
「奥様、残念ですが・・・」
解っている。激痛の末、結局何も手に入らなかった。
またか、と思う。けれど、同時に今回は今までと同じではいけないのだと焦った。
「主人には、何も言わないでください」



* * * * *


一九八〇年。
「おかえりなさい」
返事はない。女は味噌汁をかき回した。
「生まれたそうだな」
主人はロマンスグレーを揺らし、着席した。疲れ切った双眸は感慨も抱かずこちらを見据える。

「・・・えぇ。元気な男の子です」
やっと世継ぎが出来るな、と溜め息を吐く。己の子供に僅かにも感情を持たぬ男に少々義憤を感じた。

夕食に響くは食器のぶつかり合う音。
それ以外に何かある日と言ったら愚痴ぐらいだろう。

キッチンで洗い物を終えれば今日の家事は全て終わる。・・・だからと言って何がある訳でもないが。

「ったく、女は子供と家事だけやってりゃいいんだ」
ぼそっと聞こえた小言。一体何のことだろうと主人のソファを見た。焦げ茶のベルベットで出来た、柔らかな布の上、灰色の開きっ放しの新聞紙が乗っていた。

『タレント○○結婚』
『暴力団、摘発』
『男性、転落死』
そして最後に
『OLの時代』
そんな見出し。

女が働くなど、古風な所がある彼にしてみれば有り得ない話なのだろう。
未だ世襲制に拘泥し、女が生まれれば溜め息を吐き、冷めた目でこちらをねめつける。
いつの時代だと言うのだ。

呆れて閉じかけたとき何かが目に飛び込んだ。
そして風呂上りの主人に持ち掛けた。
「育児は私一人に任せて欲しいの」


* * * * *


一九八五年。神無月。
五年前、二つ返事で預かった育児は、息子が五歳になった今日まで主人の目に触れることなくこなしてきた。
語弊があるといけないので「五歳になっていたはずだった」としておく。

そして。
今日は息子の誕生日。
今日は主人の命日。
今日は「ワタシ」の誕生日。


ワタシは何処へ行こう。
養子に行ってしまった娘を探しに出ようか。
それとも遠くへ行ってしまおうか。

開かれた今日の見出しは
『タレント○○破局』
『警察、暴力団抑えられず』
『男性、転落死』
『OLの価値観』。

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