くまごろう 様



 蝶番を軋ませて、屋敷の門が閉まる。男は二階からそれを確認して、灯りを吹き消した。杖に体重を乗せながら、寝台までの短い道のりを歩く。日に日に、その距離が遠く感じられた。
 ようやく寝台に腰を下ろし、ふうと長い息をつく。背中は汗をかいているが、体の芯が凍えるほど寒い。男はまだ黒々とした髪をかきむしって、呻き声を洩らした。
「まだ……、まだ死ぬものか」
 呟きは誰に聞かせるものでもない。あえて言うなら、それは神へ。
「俺にはまだ、目指す場所が……」
 心の中に描くのは、まだ見たことのない、最果ての草原。旅人らが話す、この世の楽園だ。視界一面の草原と、それを押し包む高い空、そして乾いた風が我がもの顔で吹き荒れるという。
 誰にもわからない死後の楽園より、確かに存在するこの世の楽園を、一度でいいから見てみたかった。
 窓は月明かりを受けてほの白く輝く。窓越しの夜空には、光のつぶてが散りばめられていた。
 男は世界の煌めきに心で唾を吐きかけ、眠りについた。



 西の帝国と東の王国は、戦争という形でしか交わることがない。有史以来戦いが途絶えたことはなく、両国の間に広がる大砂漠は、常に血で濡れていた。
 だが、終わらない戦争を嘆く者は、この街にはいない。
 戦争により、多くのものが失われる。失われたものは補充せねばならない。戦争が続く限り、喪失はとまらない。いつまでも、街は繁栄のただ中にいられる。そうやって物が集まり、人が集まり、やがて競争が生まれた。それは内地の戦争と呼ばれた。
 男の父は、その競争の勝者だった。彼は物を作ったわけでも、仕入れたものを工夫して売ったわけでもない。そのための資金を人に貸し付け、莫大な利益を生み出した。今では街の投資まで請け負っている。街の実権は、彼らにあった。
 街の人々が彼らに逆らうことはない。いつもにこにことして、頭を下げる。だが裏では金売りと蔑視されていることを、男は知っている。だから屋敷を出るときは、決して馬車からおりない。
 媚びへつらう声も、罵る声も、できれば耳にしたくない。
 政庁への道すがら、馬車の小さな窓から街を眺める。変わらぬ活気に、心が躍る。もしもこの家に生まれていなければと考えることがある。もしそうであったなら、きっと自分は靴を作る職人になっていただろう。店先で靴を修理する職人を見かけては、その魔法のような手さばきに憧れた。
 街の大通りに並ぶ店を、男はすべて把握している。もちろん貸し付けている金額も期間もすべて頭の中に入っている。
 男は首を捻った。
 いましがた通り過ぎた道端に、見たことのない露店があった。店主は汚い外套をかぶっていて、顔が見えない。特別に目立つところのない、むしろ景色の中に溶け込んでしまいそうな地味で希薄な存在だ。
 だが見過ごせない。見過ごしてはいけないと強く感じた。
 男は急かされるようにして、御者に戻るよう命じた。
 露店の前で馬車を停め、小さな窓から見下ろす。地面にじかに敷かれた布は端がほつれ、元の色すらわからないほど汚れていた。その上に並べられているのは、小さな硝子瓶だ。大人の男の手にすっぽり隠れてしまうほどの大きさで、どれも空っぽのようだった。
 男は店主の顔を覗こうとするが、外套が邪魔になってわからない。仕方なく、扉を開けた。
「おい」
 男の呼びかけに、店主が顔を上げる。男は思いがけず息をのんだ。
 泥だらけの汚れた外套から、穢れなど寄せつけない、澄みきった泉のように清廉な面差しが覗く。美しいと形容することは簡単だった。だがそれだけでは言い表せない、神威の美しさがそこにあった。
 特に、目だ。
 透徹とした青天の瞳に釘付けになる。まだ若い、二十歳そこそこの青年だ。
「ご入用ですか?」
 青年は青い瞳を細めて、首をかしげた。少し癖のある金髪がやわらかく揺れた。男は馬車の中から、杖で小瓶を指した。
「小瓶屋か」
「いいえ」
「他に売り物があるようには見えないが」
 狭い敷物の上に目を滑らせる。だがどんなに目を凝らしても、小瓶と青年以外は何もない。
 青年はふっと口元をゆるめた。
「僕は、夢屋です」
「なんだって?」
 男は笑い飛ばしながら訊き返した。しかし青年は嘲笑を嘲笑と知らぬ素振りで、笑顔をこぼした。
「夢を売っています。お代をいただくことは、まあ、ほとんどないんですが」
 顔立ちのわりにしっかりとした手で小瓶をつまみ上げ、青年は男の方へ差し出すようにして掲げた。
「あなたも夢をご入用ですか」
 青年が嘘をついている様子はない。話しぶりも滑らかで、薬物をしている風でもない。彼はいたって正気なのだ。
 男は眉を寄せて笑いを浮かべた。
「夢、ね」
「今ならまだ、あなたの夢をお渡しできますよ」
 伏し目がちになって静かに言うと、青年は小瓶を軽く振って、人差し指で小さく弾いた。男はしばらく瓶の中を見つめていたが、一向に変化はない。
「ふん、子供騙しか。面倒が起こる前に忠告しておいてやろう。ここはガーランドの仕切りだ。奴らに見つかる前に引き上げた方が――」
 男は目の前に差し出された小瓶を見て、続く言葉を失った。
 小さく薄い硝子瓶の中に、七色の風が揺らめいている。小魚の群れのように束になって、風は輝いて光になり、素早く駆け巡っていた。小さな瓶の世界で、光は生きて、意志を持っている。輝きは子どもらの笑い声のようで、透けていて軽やかであるのに、確かな存在感があった。
 小瓶越しに、青年がにこやかに微笑んだ。
「あなたの夢の、かけらです」
「俺の夢? これが?」
 男は口を歪めた。
「ずいぶんと気遣い上手な手品だな」
「手品……ですか」
 青年は乾いた笑いをもらして、指先で額をかいた。
「まあ、証明のしようはないんですけどね」
「手品の仕掛けを訊くような、無粋な真似はしない。安心しろ」
 落とさないようにと、いつもは杖を強く握るが、小瓶を眺めていると、不思議と体が軽くなり、全身から無駄な力が抜けていった。幼いころ、まだこの脚が動いていたときに感じていた自由が、小瓶から溢れて、男につかの間の夢を与えてくれた。
「いくらだ」
「え」
「それをもらおう。いくらだと訊いている」
「お代はいりませんよ」
「そういうわけにはいかない」
 男は青年を手招いて、手のひらに紙幣を握らせた。
「とっておけ」
「強情な人ですね」
「こちらの台詞だ。いい思い出ができた。礼を言う」
「はい」
 苦笑した青年は、男の手に小瓶を乗せて、その上から優しく手を重ねた。
「あなたが夢を忘れない限り、この小瓶はいつまでもあなたのそばに在りますよ」
 冷たい手だった。体温を感じさせない、蝋人形のような手だ。だが、真綿のようにやわらかい。その心地よさが、男の胸のうちに温もりを生んだ。
「そうだ。名は何という」
 そばを離れ、店じまいを始めた青年の背中に声をかける。青年は肩越しに振りかえって、朗らかに微笑んだ。
「夢屋です」
「いや、そうではなく……」
「夢屋と、呼んでください」
 そう言って、夢屋は念押しの笑顔を見せた。



 緩慢な手つきで男の両脚を見ていた医者は、もったいぶったため息をついて、顎に手を添えた。
「そろそろ薬の効果が出るんですが」
「何も変わらないな。むしろ悪くなっているくらいだ。この藪医者め」
「お言葉ですが、薬を飲むだけでは回復しないと申し上げたはずです。きちんと散歩はなさっていますか。でなければ脚が衰えて――」
「説教は聞き飽きた。さがれ」
「しかし」
 医者は小さな声で食い下がったが、男が振り回す杖を恐れて足早に去っていった。持っていたものを投げようとしたが、それが杖であったことに気付き、振り上げた腕を仕方なくおろす。
「くそっ」
 なんと不自由な生活か。なんと不公平な世界か。この脚さえ動いてくれたなら、すべてがうまくいくはずなのだ。だがこの病に効く薬はなく、病状は一向に回復しない。食は細り、食事はいつも砂を噛むようだった。体は生を拒んでやせ衰え、杖を持つ手は老人そのものだ。
 部屋の扉が軽快に叩かれた。
 男の返事を待たずに、扉が乱暴に開く。
「調子はどうだ、総長。俺が紹介した医者はいい腕だろう」
 そこにいたのは、男がこの世で最も会いたくない人物だった。
「あれは使えませんよ」
 男は奥歯を噛みしめ、苛立ちを押し殺しながら、兄さん、と続けた。呼ばれた男が、あざとい落胆をまとう。
「残念だな。街いちばんの医者だと聞いていたんだが」
「少なくとも、私には合わないみたいで」
「へえ」
 兄は男とよく似た緑の瞳を細めて、鼻歌をうたいながら窓辺に寄った。
「じゃあ、死ぬか」
 振り返った兄の顔には、曇りひとつない笑みが張りついていた。彼は死ねと言っている。
 男は立ち上がり、ついた杖を強く握りしめた。
「あんたが紹介した医者など信用できない。薬は窓から捨てている」
「もったいないなあ。ならば今度はどんな医者を連れてこようか」
 血色のいい頬をゆるませ、兄は机に置いてあった小瓶を手にした。
「なんだこれ。何も入ってないじゃないか」
「やめろ!」
 小瓶の蓋が開けられようとするのを見て、男は足を引きずりながら手を伸ばした。杖が絨毯に引っかかる。体が一瞬、浮き上がった。支えを失った男は、窓に体を打ちつけた。
「危ないなあ」
 兄が笑いながら男を見おろす。
「落ちたらどうするの」
 そう言って、兄は窓の鍵を外した。両開きの窓は、男の重みで外へ開いていく。
「なにを……!」
 落ちると思った瞬間、上から押さえつけられた。体の半分が窓から乗り出して、首にかけていた飾りが千切れて芝生に落ちた。
「はなせ」
「強情だな、総長気取りが。俺が兵役の間にこの場所をかすめ取るなんて、いい度胸してるよ。親父も、お前が殺したんじゃないのか」
「いいがかりだ」
「親父も俺に継がせたがっていた。誰もお前なんて望んでいない。お前を必要としてる人間なんて、いないんだよ。さっさと継承式をやっちまおうぜ。そうすればお前に合う医者を連れてきてやる」
「貴様……」
「俺だって、そう待たない。そうだな、三日後に新しい役人の赴任式がある。いい機会だ、それまでに決断しろ」
 兄は男の服を乱暴に掴み、部屋の中に引き戻した。男は床に倒れこみ、喉を押さえた。強く圧されたせいで咳がとまらない。
「誰が貴様なんかに、渡すか。ここは……、ここは俺の場所だ」
「はいはい。よく考えるんだぞ。まあ、俺としては命を優先してほしいが。大事な大事な、たった二人きりの家族だ」
「だまれ、だまれだまれ!」
「杖、こっちに置いとくぜ」
 窓辺から離れた場所に、兄は杖を立てかけた。
「ま、まて!」
「はは! せいぜい這いつくばってろよ!」
 下品な笑い声が部屋から去り、廊下に響き、やがて消えた。
 男は腹這いになって杖の元までにじり寄り、息も切れ切れになって杖を抱きしめる。
 体中の震えが止まらない。寒いのではない。怒りほど真っ直ぐな激情でもない。
 男が孕んだ夢は、長く宿りすぎて満たされるすべを忘れてしまった。
 朝など、光などいらない。欲しいのは力だ。欲しいのは、誰よりも強い体だ。そして壊す。そして殺す。自分を否定したすべてのものを、この世界から消し去ってやる。
 絨毯に落ちた男の影が、とくんと一つ鼓動を刻む。
 窓辺に置かれた小瓶が、助けを求めて啼いた。

        ***

 夜は厚い雲に覆われて、夜空は街の灯りで鈍色に染まった。
 賑わいを見せるドール館の脇を抜けて、夢屋は水はけの悪い砂利道を進んだ。丘の上には、赤煉瓦の屋敷が聳えている。門扉は固く閉じられ、屋敷の灯りもほとんどが消えていた。
 そして今また、小さな窓に滲んでいた、七色の輝きが消える。
「間に、あわないか……」
 呟きが、ため息になって落ちる。屋敷を見つめる夢屋の瞳は極限まで研ぎ澄まされ、この世ならざる色香を帯びた。
 遠雷が波のように迫る。
 一歩、踏み出す。光の粉が砂利に舞い、その足は屋敷の中におろされた。
 廊下は暗く、灯火のひとつもない。しかしどんなに暗くとも夢屋の目はよく利いた。迷うことなく、主の部屋へと向かう。
 息詰まるほどの闇だ。前も後ろもわからない、自分の体がどこに在るのかさえわからない、そんな闇だ。その闇の中、夢屋だけが七色の風をまとい、輝いている。闇はそれを疎んでさらに膨れ上がっていく。
 歩みを進めるたびに、七色の光が夢屋の体から零れて、闇をはじく。
 ――ありがとう、ありがとう。
 光は夢屋に言葉を残して消えていく。
「僕の方こそ、ありがとう」
 ともに歩いてくれた夢たちに、心からの礼を告げる。
「無駄にはしない」
 屋敷は、いまや病巣だった。あらゆる悪意が凝り固まって澱になり、天井や壁に張り付いて光を遮る。また、床に染みた憎悪は腐臭を撒き散らして、辺り構わず爪を立てた。
 夢屋のすりきれた外套が、爪に切り裂かれていく。だが夢屋が歩みをとめることはない。ただ真っ直ぐ、目指す場所を見据えている。
 視線の先にあるのは、両開きの扉だ。暗闇の中、それ自身が発光しているようかのように、浮かび上がっている。
 呼ばれている。
 部屋の主が、夢屋を呼んでいる。
 真鍮の把手に指をかけると、途端に激しく弾かれた。辺りに息を潜めていた闇が、一斉に夢屋へ襲いかかる。
「これしきの闇で僕に勝つつもり?」
 夢屋は歪んだ笑みを浮かべて、闇を睨みつけた。竦み上がり、逃げようとする闇の尻尾を捕まえて、力任せに引き千切る。
「夢と闇は、背中合わせだから」
 手の中で闇が息絶える。そっと開くと、指の隙間から七色になりきれなかったきらめきが零れた。闇が、無言の悲鳴を上げて、さっと身を引いた。思い出したように廊下に灯りが戻る。夢屋は切り裂かれた外套を持ち上げて、眉を下げた。
 あらためて、扉を開く。
 部屋の中は、不自然なほど整然としていた。人の息遣いが感じられない部屋だった。もうずっと誰も使っていないような気配さえある。
 その壁に、ひとりの男が血まみれになって凭れかかっていた。やがて夢屋のもとに血のにおいが届く。絨毯に染みこんだ血だまりは、未だぬらりと目を輝かせていた。
 男が半分つぶれた顔をかすかに持ち上げて、唇を震わせた。声は、もうない。
「あなたに渡した夢を、迎えに来ました」
 投げ出された足元に立ち、夢屋は静かに言葉を紡いだ。
「まだ、小瓶をお持ちですよね」
 夢屋の問いに答えるように、男の視線が横へ流れる。追って見ると、体から離れた男の手の中にしっかりと握られていた。透明で歪みのない硝子には血の膜がまとわりつき、瓶の中を自由に飛び回っていた七色の風は、すでに虫の息だ。
 夢の主である、この男のように。
 男の口から、やや長い息が吐かれた。夢屋は眉を寄せて、首を振った。
「あなたの夢は、もう病んでしまった」
 半分削られた顔では、男の表情は読み切れない。だが夢屋には、男の落胆が痛いほど伝わった。
 夢屋は置き去りになった男の手から小瓶を抜き取り、表面を拭った。小瓶の汚れは拭き取られたが、中から闇が染み出してくる。手遅れだった。
 夢は闇を生み、闇は夢を根こそぎ食む。互いに求めながら決して相容れない、同じ力で押し合って引きあうからこそ共存できる、思いの生命だ。
 男の片頬を、涙が伝った。
「死が、あなたから夢を奪うと?」
 頷くことすらできない男は、痙攣のように細かく瞼を揺らした。
「違う」
 夢屋は憤りに似た諦めを、腹にぐっとこらえた。
「夢を殺したのはあなた自身だ」
 壁がかすかに光る。雷鳴が小刻みに窓を揺らした。男の欠けた歯の隙間から、声にならない息が洩れる。
「神だって? 僕が?」
 夢屋は思わず鼻で笑った。
「まさか。僕が神なら、あなたをここまで苦しませない」
 握っていた小瓶を男の足元に置き、夢屋は窓辺に寄った。
 落雷が大地に突き刺さる。闇に呑まれていた部屋の中が、青白く照らし出された。あまりに強い光に、闇だけではなく、存在の全てが掻き消されてしまう。そこに何があったのか、どんな思いがあったのか。辺り構わず根こそぎ奪われていく。
 男の体がゆっくりと傾いだ。激情の失せた男の目から、途切れることなく涙が流れた。男は体を横たえたまま、絨毯の上に立つ小瓶を眺めて、静かに嗚咽した。
 雷鳴は次第に遠くへ流れていく。
 再び静まりかえった部屋の片隅で、夢の小瓶は音もなく粉々に砕け散った。血でぬかるんだ絨毯に、ごく小さな粒までが大切に抱えられる。
 破片のふちを一瞬の光が彩る。男は静かに時をとめた。
 窓を濡らした雷光が、降り出した雨に歪んで、夢を真似た。

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