時雨ハル


 私は見覚えのない建物の前にいた。親子とおじいちゃんとおばあちゃんと犬に猫も住めそうな大きさで、縁側もあって庭には盆栽が並んでいる、時代劇に出てきそうな古いけど立派な家。
 ふと気付くと、私の隣には同じくらいの年頃の女の子が立っていた。その子は笑顔で私に手を差し出す。
「行こ!」
 自然と頷いてその手を取った。二人で走り出す。日差しも汗も気にせずに、私達は笑顔でそこらじゅうを走り回った。花を摘んだり、木に登ってみたり。二人でいれば何をしていても時間は飛ぶように過ぎていく。
 そうして日が沈んで、ゆったりと歩きながら戻ってきたのは、初めにいた建物の前だった。お互いに名残惜しくて、少しの間だけ沈黙する。
「明日も遊ぼうね」
「うん、もちろん」
 少女の言葉に私が答えると、彼女は笑顔を浮かべた。
「また明日、いつもの時間に来るからね、渚!」
「うん、また明日!」
 手を振りながら少女は去っていく。私はその姿が見えなくなるまでずっと手を振り返していた。


「へ、変な夢見た……」
 ため息とともに体を起こす。いまどきドラマにも出てこない、絵に描いたような田舎の夏休み。
 というか、何歳のつもりだよ私は。夢の中の子じゃ小学生だったけどもう十四だよ。渚なんて名前じゃないし。しっかりしろ。頭を振って夢の残滓を追い出す。こちとらビルが立ち並ぶ都会の夏休みの真っ最中だ。田舎のことなんて関係ない。
 関係ないと思っていたんだけど、リビングに来てみたらお母さんに忘れていた事実を突きつけられた。
「あんた、明日からおばあちゃんのところに行くんだからちゃんと準備しときなさいよ」
 田舎の夏休みが始まってしまう。


 おばあちゃんの家はすごく田舎にある。お母さんが小さかった頃は木登りとか虫取りとかしていたらしい。私には絶対無理だ。
 新幹線からたった三両の電車に乗り換え、無人駅で電車を降りて、蚊に刺されまくりながらおばあちゃんの家を目指す。虫よけスプレーをしてきたのに全然効いてない。足が疲れてうんざりしてきた頃にようやく民家が見えてくる。そこをさらに通り過ぎて、また森に入っちゃうんじゃないのって思い始めた頃、ふと見覚えのある建物が視界をよぎった。
 周りのこじんまりとした家に比べてやたらと大きな家。草ぼうぼうじゃなければ時代劇にだって出てきそうな、いかにもな日本家屋。
 どこかで見たような――そうだ、今朝夢に出てきた家に似ている、ような気がする。
「お母さん、ねえ」
「なにー?」
「あの家って誰の家?」
「えー?」
 疲れた顔でお母さんは私が指さした方向を見る。
「ああ。あそこ、お母さんの友達が住んでた家よ。渚ちゃんっていうの」
「……渚、さん?」
 聞き覚えのある名前。私の反応には気付かず、お母さんは目を細めた。
「ずいぶん前に亡くなったけどね。ご家族はそれからすぐ引っ越しちゃった。あんたが生まれるよりも前の話よ」
「……そうなんだ」
 振り返って、もう一度家を見る。すぐにお母さんに促され、私はまた歩き始めた。


「はー、ごくらくごくらくー」
 おばあちゃんの家についた途端にお母さんはだらけ体勢に入ってしまった。確かに暑い中歩いてきた後のクーラーは極楽だけど、人の家で大の字になって寝るのはどうなの。いや、お母さんにとっては自分の家なのかな。それにしたってだらけ過ぎだけど。
 私は殊勝な孫なので、料理の途中らしいおばあちゃんに「手伝おうか」とは言ってみた。でも長旅で疲れたでしょとか言われて結局はお母さんと一緒にだらけている。仕方ないよね、クーラー気持ちいいし。
「でも、夕ご飯まで暇だね」
「外で遊んできたらー?」
「やだよ、暑いもん」
「お母さんがあんたくらいの時は、毎日その辺で遊んでたわよ」
「嘘。中学は部活が厳しかったって言ってたじゃん」
「あら、あんたもう中学生だっけ」
「しっかりしてよ……」
 どうやら私の母親は暑さで脳までやられたらしい。そりゃ身長は低い方だけど、自分の子供の学年を忘れるかな、普通。
「懐かしいわねえ」
 お母さんがどこか遠い目をする。
「小学生の頃かな。夏休みになると毎日のように渚ちゃんと遊んでてね。木登りしたりお花の冠を作ったり。あの頃は元気だったわ」
 ふと昨日の夢を思い出す。雑木林や草原や河原を走り回る楽しそうな女の子達。
 もし、あの夢が過去に本当にあったことだとしたら。お母さんと渚さんは、あの古い家の前でいつも待ち合わせをしていたんだろうか。
「……やっぱり、外行こうかな」
「ちゃんと帽子かぶっていきなさいよ」
「はーい」


 暑い。暑過ぎる。
 家を出た直後に後悔したけど、好奇心を燃料にして歩き始める。目指すは渚さんの家だ。特に目的があるわけじゃない。でもまあ、あの家にはもう誰も住んでいないらしいから、迷惑になるってことはないだろう。
 セミの合唱に囲まれながらひたすら歩くこと五分くらい。森と雑木林の間に渚さんの家がある。遠目からではわからなかったけど、近づいてみると窓が割れていたりしていかにも廃墟って感じだ。
「やっぱ、やめとけばよかったかな……」
 肝試しはちょっと苦手なんだ。幽霊とか出てきたら失神しそう。そーっと扉に手をかけてみる。古びた扉は嫌な音を立てたけど、意外と楽に開けることができた。
「お邪魔しまーす」
 呟いて、足を踏み入れる。廃墟だし靴のままでいいよね。
 床にはほこりがつもって、隅の方は蜘蛛の巣が張ってる。畳が一部なくなってたり天井が抜けてたり。いかにも廃墟だ。一歩間違えばお化け屋敷だけど、窓が割れたり障子が壊れてたりするおかげで明るさは十分にある。
 きょろきょろ見回しながら家の中を歩く。台所やお風呂や、寝室も発見したけど特に興味を引くものは見あたらない。
「あとは二階かな?」
 階段を見上げる。上ってみたいとは思ってるんだけど、いかんせんこの家は古い。なんか、階段とか踏み外しそうで怖い。試しに一番下の段を手で押してみると、やけにギシギシと音が出る。二段目も似たような感じだ。階段を踏み抜いてけがとかしちゃったら困る。歩けなくなったりしたら誰も見つけられずに干からびちゃうとか……いや待って、携帯電話持ってるし。最悪の事態はまぬがれるはず。
「よ、よし!」
 びびってない、びびってないよ。そっと階段に足をかける。次の段に手をついちゃってるのがかっこわるいけど、体重を分散させる賢い姿勢のはず。一段、二段、そーっと三段。お、結構いけそうじゃない? なんて思って立ち上がったのが運の尽きだった。
 次の段に足をかけた瞬間、めきめきっと足下が崩れて、慌てて上ろうとしたら次の段も崩れて、階段が三段分くらいなくなって、あ、死んだなって思いながら私は落っこちた。


 結論から言うと死んでなかった。でも、色んなところに擦り傷ができてた。
「いったたたたた」
 腕も足も背中も痛い。うめきながら体を起こすと、なんだか薄暗いところに私はいた。上を見ると、私が落ちてきたらしい穴が開いてる。
「なにここ……?」
 よくよく目をこらしてみると、扉らしいところからかすかに光が射し込んでいる。手で押してみれば簡単に扉は開いた。どうやら階段の下が押入になっていたみたいだ。明るくなったことに安堵して、改めて押入を見回してみる。
 つっかえ棒にはハンガーが二つぶら下がり、壁のフックにはほうきとちりとりがかかってる。引っ越しのときに忘れてしまったんだろうか。そして、忘れ物らしい物がもう一つ。
 押入の隅で、小さな箱がほこりをかぶっている。遊園地のおみやげとかにありそうなクッキーとかが入ってる缶だ。私の手より一回りか二回りくらい大きい。これ、中にお菓子が入ってたらすごいことになってるよね。腐って変なガスとか出て、爆発したりして。
 とりあえず指で突っついてみる。反応なし。強めに突っついてみる。やっぱり反応なし。両手で優しく持ち上げてみる。傾けて音を聞いてみる。ガサガサって音が少し聞こえた。クッキーっぽい音じゃない。たぶん、食べ物じゃない気がする。
「よし」
 開けるぞ。
 そーっとそーっと、振動を与えないようにフタを開けていく。気分は爆弾処理だ。途中でちょっと揺らしちゃってびびるアクシデントもあったけど、どうにかフタを開けることに成功する。
 中に入っていたのは可愛い紙の束だった。
 茶色っぽくなっているけど、昔はきっときれいな色あいだったんだろう。猫や鳥が描かれている、私も少し前まではよく使ってたようなレターセット。どれもたどたどしい字で宛名が書いてある。
「西村、渚さま」
 どれも切手が貼られていない。直接渡したんだろうか。一つ、二つ、と数えてみて十四個目、最後の封筒で私の手が止まった。切手どころか封がされていない封筒。その宛名は渚さんではなく――私のお母さんだった。


 おばあちゃんの家に戻ってくるなり、お母さんの絶叫を聞くことになった。
「どうしたのその格好!」
 まあ、「ちょっと外行ってくる」って出てった娘がほこりだらけの擦り傷だらけで帰ってきたら当然の反応かもしれない。おばあちゃんは「あらあらおてんばさんねえ」とか笑っている。
「あんた一体どこ行ってきたのよ……」
「えーっと、冒険?」
「は?」
「あ、お土産あるよ」
 呆れ顔のお母さんに、慌てて手紙を差し出す。
「お土産ぇ?」
 なにこれ、と言いかけてお母さんは停止した。
「これ……」
「渚さんの家で見つけたの。お母さん宛だったから持って来ちゃった」
「え、あんた西村さんち行ったの?」
「うん」
 頷いたら、怪しいものでも見るような目をされた。
「だからそんなひどい格好になったわけね……」
 ため息をついてから、お母さんは手紙に視線を戻す。ひっくり返したりして何度も宛名を確認して、それからちょっとだけ笑った。
「でも、うん。ありがとうね」
「どういたしまして」
 怒られなくてよかった、って感想は心の奥にしまっておこう。


 夕ご飯はすごく美味しかった。お寿司を食べたのは久しぶりで幸せだった。でも、お風呂が悶絶ものだった。腕も足も顔も擦り傷ができているので、なにをしても痛い。それでもどうにか体を洗ってお風呂を終える。
 寝室に行くと、お母さんがこちらに背を向けて手紙を読んでいた。なんだか声をかけづらくて、少し離れたところに座る。携帯でもいじってようかと手を伸ばしたところで、ふとお母さんがこちらを向いた。
「なんだ、いたなら声かけてよ」
「邪魔しちゃ悪いかと思って」
 お母さんは困ったような顔で笑って、自分のカバンから絆創膏を取り出した。
「貼ってあげるから来なさい。あんたそこらじゅう傷だらけなんだから」
 大人しく言葉に従おう……と思ったら、消毒液まで出てきた。
「しょ、消毒はいいよ、お風呂入ったばっかだし」
「だーめ」
 凶悪な顔で迫ってくる。狭い部屋には逃げ場がない。あ、これ怒ってるなって今更気付いても手遅れだ。
 そして私は、本日二度目の悶絶を味わった。


 田舎はすごい。だって、すずめのさえずりで目が覚めた。ちゅんちゅんちちち、って漫画でしか読まないよ。すっごく爽やかな目覚め。
 爽やかすぎてもう一度寝ようとして、お母さんがすでに起きてることに気付いた。隣の布団の上に座って、手に持っているのは渚さんの手紙だ。
「おかあさん?」
 目を擦るような動きと、鼻をすするような音がした、気がする。こっちを向いたお母さんは、困った笑顔を浮かべた。その頬には涙の跡。
「どしたの……?」
 すごく驚いてるのに、寝ぼけた声しか出てこない。
「ううん、何でもない」
 お母さんは何故か私の頭をわしわしと撫でる。涙を流しながら。
「ありがとう。……ありがとうね」
 泣きながらお礼を言われて、頭を撫でられて、私は訳がわからないまま頷くことしかできなかった。


 布団を片づけてリビングに行ってみると、意外にもシンプルな洋食が並んでいた。ベーコン付きの目玉焼き、レタスとプチトマト、こんがり焼けたトースト。こんな田舎でいかにもな洋食が出てくるとは。
「おはよう、おばあちゃん」
「はい、おはよう」
 挨拶と一緒にカフェオレが出てきた。
「なんていうか……ホテルの朝ご飯みたいだね」
「あらあら。そんなに褒めてもデザートしか出てこないからね?」
 この献立でデザートとなると、まさかケーキとか……いやいや。いくらなんでも。
「やっぱり朝はパンよねー」
 お母さんはいつの間にか席についてトーストにバターを塗り始めている。さっき泣いてたのが嘘みたいにいつも通りだ。私も座って、手を合わせた。
「いただきます」
「はい」
 いきなり横からパンが差し出された。
「あ、ありがと」
 お母さんがバターを塗っていたのは私の分だったらしい。次はおばあちゃんの分を塗り始めたみたいだ。私はしばらく迷って、レタスと目玉焼きをトーストに乗せる。半分に折ろうと箸を入れたら黄身がとろりと溶けだした。
「いっただっきまーす」
 二回言っちゃったけど気にせずかぶりつく。
「いい食べっぷりねえ」
 おばあちゃんが嬉しそうに笑う。だって美味しいもん、これ。黄身がこぼれる前に慌てて次の一口。喉に詰まりそうになってカフェオレで流し込んだらお母さんに笑われた。
 デザートにおばあちゃんが出してくれたのはオレンジとスイカ。夏って感じだなあ。
「今日はいつごろここを出るの?」
 おばあちゃんの質問に、オレンジの皮をむきながらお母さんが答える。
「一時の新幹線だから……、十一時くらいには出ないとかな」
「お昼ご飯は?」
「駅弁でも食べるわ」
 時計に目をやると九時の二分前。出発まであと二時間もある。
「あたし、ご飯食べたら散歩でもしてこようかな」
「荷物片づけてからにしなさいよ」
「はーい」


 相変わらず暑い。相変わらずセミがうるさい。寄ってくる蚊と虫を叩いたりはらったりしながら渚さんの家を目指す。木々の間から漏れる光だけ踏んでみたりして森を抜ける。
 森を抜ければすぐ、見慣れてしまった建物が現れる――はずだった。
「うそ……」
 昨日まではそれなりに家らしい形を保っていたのに、私の目の前にあるのは崩れた何か。かろうじて残っている部分から民家だったことが推測できる程度だ。
「もしかして、私のせい?」
 私が階段を踏み抜いたのがきっかけだったのかもしれない。なんだか申し訳ない気持ちになる。まあ、渚さんの手紙は救出できたわけだし、いい……のかなあ。
「なにこれ」
 後ろから呆然とした声。振り返るとお母さんが立っていた。手には花束を持っている。
「え、これ、昨日はもうちょっとマシだったわよね?」
「お母さん、なんでここに」
 二人でぜんぜん違うことを口にする。お母さんは「お参り」と言って花束をこちらに見せた。よく見れば、お墓に供えるための花束みたいだ。
「お参り? 家に?」
「そう。渚ちゃんのお墓がどこにあるか知らないから」
 門だった場所に花を置いて、お母さんはまた廃墟を見上げた。
「しかしまあ……見事に崩れてるわね」
「わ、私のせいかも」
「何やってんのよ」
 頭を軽く叩かれた。ひどい。叩かれたところをさすりながらお母さんの様子を伺う。視線は崩れた家から動かさないまま、お母さんは再び口を開いた。
「でも、もしかしたら、待ってくれてたのかもね」
「え?」
「手紙を届けるために」
 なんてね、と苦笑して、お母さんは家に向かって手を合わせ目を閉じた。それ以上を追及することはできなくて、私も手を合わせた。
 崩れさせてごめんなさい、手紙を届けたので許してください。ほとんど無関係の私が言えるのはそのくらいだ。目を開くと、すでにお母さんはこちらに背を向けていた。
「ほら、行くわよ」
「あ、うん」
 その背中を追おうとして、だけど一度だけ振り返る。昨日まで、お母さんへの手紙を守っていた家。守っていた、なんて言い方はおかしいかもしれないけれど。
 でも、あの手紙はきっと、お母さんにとってはすごく大切なものなんだ。今朝荷物を整理していたときに、とても大事そうにしまっていたのを私は知っている。お礼を伝える相手はいないし、詳しい話を聞くことも、たぶんずっとできないだろう。
「置いてくわよー」
「ええっ、待ってよ!」
 崩れた家に向かって一度だけお辞儀して、私はお母さんを追って走り出した。

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