coco 様
いつからか胸の内にあった予感を噛み締めながら、男は無言で対面の女を見据えた。
その貌に、常の微笑はない。
頬を強張らせ、何かを押し殺すかのように力の篭められたその眼差しは、しかし悲しみに浸ることも諦めを許容することもなく、一筋の光を放って見えた。
「いつ」
「……次の週の、船で」
はきとした発音で、既に荷を運ぶ船長とは契約を交わしてあると告げられた。
女が決意を固め、同時に己の反応をどこかで恐れているのだと感じ、男は一瞬だけ息を詰めた。手の中のグラスが、からりと氷を崩して音を立てる。
長く息を吐いてから、男はそっと手を伸ばす。
背に流したままの女の長い髪へ指先を差し入れ、ゆっくりと梳いた。そのすべらかな手触りを、指の皮膚に、胸に、刻み込むように、……ゆっくりと。
「そうか」
呟き、女の髪を白い耳元に寄せる。
親指で目尻を優しく擦れば、女は唇をわななかせた。テーブルの上で、拳が握られる。
「それだけ? そうか、って、それだけなの?」
目つきとは裏腹に、弱々しく震える声音に男は苦い笑みを浮かべた。
女を見据えたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「もう、決めたんだろう?」
「……うん」
「いつかお前は帰るだろうと、わかってたさ。向こうの情勢は俺の耳にも入ってきてるからな」
家族の安否すら知れぬ状況で、ただ己の元に縛り付けておくような真似はしたくない。
一度決めたのならば、女は弱音を全て飲み下し、振り返りはしないだろう。柔和な外見からは想像もつかぬ程に強く強情な性質であることを、男はよく知っている。
そして、そんな女だからこそ愛した。
「わたしにもできることがあるなら、放ってはおけない」
「わかってる。――本当は行かせたくないと思ってることだけ、知っていてくれればそれでいい」
「………ごめん、なさい」
男は女の頭を抱き寄せて、「謝るな」と笑った。
馴染みの酒場の一角で、男と女は酒を交わした。
別れを意識してか女は妙に饒舌で、出会った頃のことやこの国で得た経験のひとつひとつを、次から次へと語る。男はそれに相槌を打ち、時折冗談交じりに反論したりして、あっという間に時間は過ぎていった。
「最初に見た時は、せいぜい十六、七だろうと思ったけどな」
「まあ、もう十八歳になっていたわ。この国に来る前に、誕生日は終わっていたもの」
「それにしちゃガキっぽかったぜ。ま、どっちにしろ大して変わらんが」
酷い、と唇を尖らせながら、女はくすくすと笑い声を上げた。
もう、何年も前の話だ。どちらかというと童顔の類に入る女は、異国へ渡ってきたばかりだというのにどこか無邪気で、警戒心に乏しく、男はそれに酷く驚いた記憶がある。
あの頃と比べれば随分と言葉も達者になった女が、ほんの一瞬だけ迷いを見せながら、しかしそれが自然な流れであるかのように故郷の思い出を語り始めた。
「両親と、妹と、伯父夫婦が、祝ってくれた。十八歳の誕生日は特別だから、って。贈り物もたくさん貰ったのよ。伯父がくれた懐中時計と、母が編んでくれたショールは、今でも大切に持っているわ。あなたにも見せたこと、あるでしょう?」
「ああ、あれか。……いい家族だったんだな」
男自身は家庭とは縁遠い生い立ちだったが、懐かしそうに頬を緩める女が、どれほどに家族を大切に愛しているのかを想像することはできた。愛されて育ったのだろう。そして、同じだけ愛しながら育ったのだろう。
「きっと無事だ。帰って、元気な顔を見せてやれ。ご両親も心配しているだろうからな」
「……そう、ね」
頷きながら、女は不意に悔しそうな顔をして男を見上げた。
「平気な顔してそういうこと言われると、別れたくないって思ってるのはわたしだけみたいに思えてくる」
「帰るって決めたのは、お前だろう」
「そうだけど……」
随分、簡単に帰れって言うんだもの。
拗ねたように顔を背ける女の口振りには、無視できない程度に本気の色が見えた。
鮮やかに染められた爪が、汗の浮かぶグラスをからからと回す。刹那、男の目に出会った当初のどこか幼い女の面影が過ぎった。
――簡単なわけが、ない。
思っていることを全てぶちまけ、胸の中を吹き荒れる感情を余すことなく露にしてしまえば、女はきっと驚くだろう。それを押し留めているのが、旅立とうとしている女に対する気遣いだけではなく、ちっぽけなプライドゆえであることすら、晒してしまおうか。
乾いた逡巡の末に、男は再び苦い笑みを口元に刻んで、女の名を呼んだ。
「なあ、この国とお前の国が、どれだけ離れているか、知ってるか?」
「……大陸が違う、ってこと、なら」
ぼそぼそと返ってきた応えに、男は苦笑した。
「相変わらず地理には疎いな、お前。いいか、ちょっと待ってろ」
何かを探すように周囲を見回し、結局男はその指先を手の中のグラスに浸した。
酒に濡れた指で、テーブルの上に歪な線を描いていく。初めのうちはきょとんとした目でそれを追っていた女も、次第に描かれていくのが今いる国の存在する大陸であるのだと理解したようだった。
小さな島々はこの際、省略していい。すぐに、テーブルの上には海を隔てた二つの大陸が出来上がった。
「この国が、ここだ。ああ、ちなみに北はこっちな」
とんとん、とテーブルの上を軽く叩いて顔を上げれば、女は訝しげな顔で曖昧に頷いた。
「で、お前の国が……この辺、か。旅程としては船で海を渡って、ここに山脈があるから山を迂回して南側から国に入ることになる。お前がこの国へ来た時は、逆の道を辿ったはずだ」
「……うん」
男は手拭いで濡れた手の水気を取り、頬杖をついて己が作った水の簡易地図を見下ろした。
「時期にもよるが、片道で一ヵ月半くらいか」
「わたしが来た時は、もっと掛かった」
「まあ、女の足だしな。成人した男なら、大体一ヶ月半。夏場でも三ヶ月は掛かんねえだろ」
女は困惑顔で男を振り仰いだ。
ここまで話しても、男の言いたいことが掴めずにいるのだろう。男はふっと息をついて、女の頭に手のひらを置いた。乱暴に、掻き乱す。
「遠いだろ?」
「……うん。すごく、遠い。ねえ、それが」
何なの、と繋がるはずだった言葉を、男はやや早口に遮った。
「けど、お前はその遠い国からここまでやって来た。十八で」
「……………」
ぱちぱちと瞬きをする薄い色の瞳から、目を逸らす。
男は服の袖で地図を掻き消した。濡れた袖口に口を歪ませながら、
「同じ空の下だってことは、お前自身が証明してる。
――だったらいいかと、そう思ったんだよ」
男は愛おしそうに目を細めて、女の貌をつぶさに見つめた。
水の道筋が、灯りを映して眩く光る。
この仮初の世界は、腕でひと撫でしてしまえば容易く掻き消える幻のようなものだ。けれど、たとえ踏みしめる大地が遠く隔たったとしても、互いが寄り添って過ごした時間さえも胸の中から消えるわけではない。
「……おなじ、そらのした」
噛み締めるように繰り返し、女は描き出された水の筋を、爪先でそうっと辿った。
――告げた言葉は、嘘ではないが真でもない。そうでも思わなければやりきれない。
ぷかりと浮かびかける思いを抱えたまま、男は愛おしい女の貌を見つめ続けた。