くまごろう 様



 木々の向こうに、絵筆で撫でたような青空が滲んでいる。
 見上げた隙間に太陽が落ちて、夢屋は目を細めた。空は一瞬で白い光に呑みこまれ、夢屋の視界には黒い染みが残った。
 小川沿いにあぜ道が続いていた。小さく清かなせせらぎだった。大きな岩にぶつかって、飛沫が上がる。あぜ道には、そこだけ水溜りができ、ぬかるみができていた。小さな虫が泥の中から顔を出し、すぐに引っ込む。夢屋はぬかるみを踏まないように、躍るようにして飛び越える。振り返ると蛙が飛び跳ね、腹を震わせ鳴いていた。
 天蓋のように広がる森の木々から光がこぼれおちて、水際で、爪先で、弾けて散って光の霧になる。葉は太陽に晒されて、内から鮮やかに輝いた。
 森は雨風を遮り、人をその身のうちに迷わせる。だがそれは隔絶ではない。庇護だ。足りないものはなく、過ぎたものもない。すべてが均衡の一端を担い、役目を果たしている。光も風も水も生き物も、どれも流れながら、明日を繋いでいる。もし森の世界に必要なものがあるなら、森はそれを手放しはしない。そしてその逆も然りだ。
 破れた靴の先を見下ろす。あぜ道が光で切り分けられていた。森を抜けた。まるで果物の種を吐き捨てるようで、森にとって夢屋がどれほど不要のものか思い知らされる。夢屋はすり切れた帽子を目深にかぶった。
 平坦な道が続いている。周囲は背の高い草が生え、視界はほとんど利かなかった。夢屋は道が続くままに前へ進んだ。
 空高く昇った太陽はやがて傾きはじめ、強くなった風が草の首を揺らした。ざっと、草のこすれる音が響く。音の竜巻が夢屋を包む。夢屋は立ち止まって空を見上げた。うろこ雲の広がる空は、徐々に色を失くして地平に収束している。静かな空に、夢屋は吐息をもらした。
 遠い東の砂漠では、いつまでも戦争が終わらない。兵士は次々と、星が流れるように死んでいく。だがそれでも世界は回っている。人々の生き死にをも呑み込んで、平然と時を繋いでいる。平和など幻想だというのなら、今をおいて平和などありはしない。
 そう。いつもこの空が世界を見下ろしてくれるなら。
 夢屋はかすかな希望を抱く。
 森の均衡がこの空を伝って、世界のすべてに行き渡ったなら、この曖昧な命に決着をつけられる。きっともう、終わらせることもできるはずだ。
 否、これは命と言えるのだろうか。
 誰もが憧れる、永遠の命。それを手にした瞬間から、夢屋の命は立つべき場所を失った。
 あるのは、闇と夢だけだ。
 胸に去来した不安をこらえるように、夢屋は薄汚れた外套を掴んだ。
 見上げていた空に、見慣れた輝きがよぎる。夢屋は驚いて、担いでいた鞄を見た。光はそこから漏れ出して、空に広がりながら漂っている。
「どこへ……」
 夢屋の問いかけに、光は七色に揺らめいて答えた。
「いいよ、行こう」
 速度を上げた光の指先を追って、夢屋は走り出した。
 夜を越えて、朝日を浴びる。走り続けてたどり着いたのは、街外れの一軒の民家だった。家の周りには畑が広がり、低木には葡萄の房が成っていた。家屋の前には庭があり、夢屋はそこへ踏み入った。
 空に向かって絵の具を撒き散らして、降り注いだ彩りで庭を飾る。赤や黄や、白や紫や、あらゆる色が入り混じって、花になる。さらに奔放に混ざり合ってオレンジに輝き、朝露に溶かされ透けていく。腕いっぱいの花束を、空いっぱいにまで欲張って、庭は喜びに溢れていた。整然と手入れされた庭ではない。だがこの庭はとても愛されていた。
 七色の光は庭をさらに突っ切って、母屋へと飛び込んでいった。途端に突風が吹きつけて、夢屋の帽子が飛ばされた。
「あっ」
 とっさに手を伸ばすが届かない。つばの広い、すり切れた帽子は、庭の向こうにある母屋へと吸い込まれていった。夢屋は仕方なく庭から離れて、母屋に声をかけた。
「すみません」
 数段の階段がある。夢屋の目の高さにはデッキがあった。そこから部屋へは、硝子の嵌め込まれた両開きの扉で繋がっている。扉は大きく開け放たれ、その中ほどに夢屋の帽子が落ちていた。
 明るい象牙色で塗り上げられた外壁は、ところどころに修理の跡が見られる。古い家だが、住みよいようによく工夫されていた。
「あの、すみません」
 もう一度呼びかけてみるが、やはり返答はない。七色の光も消えたきりだ。夢屋は辺りを見回して玄関を探した。
 どこからか、甘い香りが漂ってきた。すぐに菓子の匂いだとわかった。夢屋は階段を上がってデッキに立った。匂いはさらに強くなった。
「すみません。どなたか……」
 部屋の向こうから、白髪の老婆が顔を覗かせた。夢屋を見て、首をかしげる。
「あらまあ、旅の人かしら」
「あの、帽子が飛ばされてしまって。入っても?」
「もちろん。そうだわ、ちょうど焼き菓子を作っているのよ。せっかくだから食べていってちょうだい」
「え、でも」
「いいのよ。少し待っていて」
 顔の皺をさらに深くして、老婆が微笑んだ。
「なら、いただきます」
 強引ではあったが厭味を感じさせない誘いに、夢屋は礼を返した。
 デッキに置かれた丸太作りの椅子にかける。小さな卓には、焼きたての菓子があった。家の主である老婆は、使い込まれた安楽椅子に腰掛けて、縫い針を手にしていた。
「マダム」
「ナタリーよ。でもみんなはグランマって呼ぶわ」
 グランマは夢屋の帽子を膝に乗せ、針に糸を通した。すり切れた部分を縫い合わせていく。
「ではグランマ。おひとりでここに?」
「そうね。主人がいなくなってもう二十年になるかしら。でも平気よ。ここは空気がきれいだし、娘夫婦がときおり来てくれるの。今夜も、その予定でね」
 皺だらけになったグランマの細い指は、器用に帽子を縫い合わせる。決して素早い作業ではなかったが、丁寧で正確だった。
「もしかして、この焼き菓子は娘さんたちのために作ったものでは……」
「ええ」
「そんな大切なものをいただいてしまって、すみません」
「いいのよ。あの子たちは食べ飽きているもの」
「そう、ですか」
「お口に合うかしら」
「はい。おいしいです」
 夢屋は菓子を手のひらに乗せ、青い瞳を細めて微笑んだ。
「こんなにも満ち足りた焼き菓子は、僕は初めてですよ」
「不思議な表現をなさるのね」
 グランマは口元を隠して、小さく笑った。明るい場所で見ると、グランマの白髪には、まだかすかに栗色の艶めきが残っていた。ひとつにまとめた髪の束が、風に乱れる。夢屋はそこにグランマの明日を見た。ひっそりと野に咲く小さな花のように、健気でたくましい夢だ。夢屋はこの出会いすべてが必然だったと知る。
 卓の上には焼き菓子のほかに、赤い装丁の日記帳が置かれていた。
「ねえ、グランマ。この日記帳はグランマの?」
「そうよ。子供の頃からの癖でね。一日も欠かしたことのないのが自慢」
 日記帳を手にとって頁を繰り、グランマは皺を寄せてため息をついた。
「あと何年、いいえ何日書けるのかしら」
 命を惜しむでもない、自然なグランマの呟きに、夢屋は顔をあげた。
 流れる世界の中で、誰も立ち止まっていられない。だからこそ、すべてのものが美しく映えた。
 部屋の中から何か音がする。
「きっと蓄音機ね。最近、調子が悪いのよ」
 そう言って立ち上がりかけたグランマは、斜め上を見上げて息を呑んだ。
 そこには七色の光があった。
「ああ……」
 グランマの目から、次々と涙がこぼれていく。それを彼女は両手で覆って隠した。その手に皺はない。ふくよかで、働き者の手だ。
「あなた、あなたなのね」
 光は頷いて、グランマに手を差し伸べた。蓄音機からは、途切れながら音楽が溢れてくる。
「いやだわ。この曲だけは」
 なぜと光が問う。
「いじわるね。だってこの曲はあなたがプロポーズをしてくれたときの、思い出の曲だもの。ひとつの曲に、思い出はひとつでいいのよ」
 光はいっせいに七色に煌めいて、笑った。
「そう、そうね。もう一度プロポーズをしてくれるのね」
 グランマの髪が栗色に染まっていく。顔に刻まれた皺は光に撫でられ消えていき、目には若々しい輝きが宿った。
 差し伸べられた光に、グランマがそっと手を乗せる。
 旋律が二人を包む。グランマの膝に置かれた赤い日記帳が、風に煽られて時を遡った。七色の光が力強くグランマを抱きしめて、夢屋に向かって手を上げた。
 溌剌とした少女は頬を染め、胸に手を当てた。
「ねえ、旅人さん。あなたは天使さまだったのね!」
「え」
「だって、とても美しいもの」
 愛で満たされたグランマの笑顔に、庭の花の蕾がいっせいに咲いた。いっぱいに腕を伸ばして、二人の永遠を祝う。
「あなたの方こそ」
 空はすっかり赤く滲んでいた。森の上にはいちばん星が瞬いた。
 夢屋は安楽椅子のそばに落ちた帽子を拾い上げ、土埃を手で払った。繋がったままの糸を切って、浅めにかぶる。
 ひらいたままの日記帳を閉じて、安楽椅子の上に置く。赤い表紙は、七色の光を宿して燦然と輝いた。

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