「カザリアさん。帰りますよ」
「え。あ、はい」

 とん、とひとつ。肩に手を置かれ、さらい上げられた意識。硝子窓から漏れるぼんやりとした薄暗さに、私は頭をもたげた。
 いつの間に火が入ったのか、書庫の壁は灯された明かりに煌々と照らされている。
 どうやら思いっきり突っ伏してらしいと気付いたのは、額に服の型が残っていたからだ。リシェルの部屋に顔を出した後、時間つぶしに書庫に寄ったのまでは覚えている。目についた二つ向こうの国の本を手にとって、窓に近いこの席に座ったことも。
「寝てたみたいだわ」
「そうですね」
「つまらなかったのかしら、この本」
「それは分かりませんけど」
 そうかもしれませんか、とロウリィはぽややんと首を傾げながら、書庫番に本を手渡した。
 灯火を片手に、書庫番は連なる書棚へ向かう。
 まるで書庫番の灯火が書棚の奥に吸い込まれるのを見計らったかのように、ロウリィは「帰りますよ」ともう一度言った。 


 夜の庭園は青い。
 空にひとつ、色のない月を浮かび上げ、行儀よく整列する花木は暗がりに身を溶かしながら口を閉ざす。寒くなって花数が減ったと言っても、昼間あれだけ緑に溢れ華やかに見える庭園は、嘘みたいにひっそりと静まり返っていた。
 仕舞い損ねたあくびを口から零してしまえば、今は昏く彩度の落ちた蒼の眼をまんまるく開いた後に、ロウリィはゆるりと目を細めた。その仕草を見咎めて彼の腕を取って睨みつけると、彼は声もなく表情だけでわらう。
「だから先に帰っておけばよかったんですよ」
「二度もミゲルに馬車を走らせるのは酷じゃないの」
 大体、さっさと先に帰ってしまっていたら、ロウリィは時間なんか気にせずにいつまでも王宮に居残っていそうだ。なにせ今、彼が扱っている仕事は、大量の薬作りなのだから。
 この間、ロウリィが総務部で同僚に処方した薬が大好評だったせいか、医薬部から知識交換の相談が持ちかかったらしい。総務部とは別に仕事があるせいでここ最近は忙しそうだ。まぁ、薬に関することだから夜通し作業していたって、ロウリィには苦でも何でもないのでしょうけど。だからこそ問題なのだ。
 しゅるりと首元に舞い込んだ夜風に身を竦める。ロウリィにしがみついている片側だけが温かい他は、どこもかしこも寒かった。本当にもう冬になってしまったのか、と実感する。
「ロウリィはいつだってあったかいからうらやましいわね」
「えーっと、僕自身はそんなに温かくはないんですが」
「絶対、私よりはあったかいわよ。嫌だわ、冬なんて寒いだけだし、早く春にならないかしら」
「まだ、肝心の星夜祭も終わってないじゃないですか」
「それは……そうだけど」
 庭園を貫く道は、外に出るには近道で、意外と短い。
「ロウリィ」
 私はかたどられた小道を一緒に歩く彼を見上げた。「はい」とロウリィは首を傾げる。
「この仕事が終わったら、ロウリィはエンピティロに戻る、のよ、ね?」
「はい」
 微かに零す吐息にようにロウリィは頷いた。
「あちらのことは任せてきましたが、まだ残っていますし」
 戻ります、とロウリィは何の飾り気もなく言った。
 歩く庭園の道は、土も草も花も夜に覆い隠されてどれも心細く同じに見える。
「そう」
 相槌を打つと、ロウリィはまた「はい」と繰り返した。
「まだ。ここにいていいですよ。いてあげてください」
 ロウリィにかけられた言葉に、私は顔をあげた。
 何かおかしかったのだろうか。向き合ったロウリィは、私の眦を掌でなぞって苦笑した。
「心配することはないですよ。ここに呼ばれたのはカザリアさんです。ここにいた方が、できることが多いなら、いるべきです」
「だけど」
「もうちゃんと決まっていたんでしょう? 僕もここに来る前から分かっていましたから。カザリアさんはカザリアさんにしかできないことをしなくてはいけません。悩むことはどこにもないんですよ」
 見上げる。晴れた空みたいに蒼い、けれど、今はまるで夜みたいな蒼い眼を。
 この人は時折すべてを見透かして、とても澄んだその色を本当に柔らかに細めるから。嫌になる。本当に、こんな時は。私に何の言い訳も残してくれない。言い分けをして、もうひとつ大事にしている道へ逃げる方法を許してはくれない。
「残るわ、ここに」
 観念して、息をつく。もうずっと考えていた、決意を。
「はい」
 がんばって、カザリアさん。
 そっと私の瞼に掠めさせた口元を、ロウリィはあたたかに唇へも触れさせて、そう囁いた。


special thanks! るうあさん


おまけ?