寸前



 もう日付が変わるのではないか、という深夜。
 カザリアは、入室してきた足音に、瞼を押し上げた。
「遅いのね」
「あれ、起こしましたか」
「もう少しで眠れるってところだっただけ」
 彼女は、ゆったりと上体を起こすと、寝台の空間をもう少しだけ開けることにした。気にしなくていい、と首を振る。
 ロウリエは、寝台の端に腰かけると、カザリアの頬に手を伸ばした。親指で彼女の頬骨に沿ってなぞりながら、彼はふと笑みを零す。
「カザリアさん、目が半分閉じてます」
「薬草の匂いがするわ」
「あぁ、さっきまで作っていましたから」
「何を?」
「胃薬を。ベロールさんの分でなくなってしまったので、作り足しておこうと思いまして」
「……何、総務部で薬屋、開いてるのよ」
「いやぁ、皆さん、いろいろ大変なようです」
「…………楽しそうね」
「ええ。皆さん、いい人たちばかりなので、楽しいですよ」
 穏やかに細められた蒼い双眸。そこに、偽りは見えなくて、カザリアは胸を撫でおろした。
「よかったわ」
「あ、ちゃんと仕事もしてますよ?」
「分かってるわよ! そうじゃなくて」
「カザリアさんも、楽しそうですね?」
 ぐっと、カザリアは言葉をのみ込まざるを得なかった。ようやく覚めてきた目で、思い切りロウリエをねめつける。
「楽しいわよ。楽しいに決まってるでしょう? 毎日リシェルと一緒にいられて万々歳よ」
「そうですか。よかったですね」
「…………」
 温かな指。カザリアは、一度だけ頬にある温もりに目を伏せて、溜息をついた。
「……私、ロウリィのそういうところ苦手だわ」
「はい?」
「何でもない」と、カザリアは彼の手を掴んで、自身の頬からどけた。膝をついて、さらに身を起こすと、夫の唇に口付ける。
 そっと触れた程度にも関わらず、口内に移った苦味。彼女は思い切り顔をしかめた。
「ロウリィ……! 薬だからってあんまり自分の体で試すと、体壊すって言ってるでしょう?」
「と言われましても、他に試しようがありませんしね?」
「おかげで、私まで苦いじゃないの! どうしてくれるのよ!」
「それは、困りましたねぇ?」
「“困りましたねぇ”じゃなくて、ちょっとは凝りなさいよ! そして、やめなさいよ!」
「まぁ、ただの胃薬ですし」
 改善する気が皆無な様子でぽやぽやと返されたら、諦めるしかない。カザリアは、いらだち紛れにロウリエの頬をつねっておくことにした。「痛いです」と抗議されるが、当然無視である。
「こんなことなら、ただ苦いだけって言っとけばよかったわ」
「何の話ですか?」
「こっちの話よ」
「やっぱり投げ飛ばされた試しはないのですが」
「何の話よ」
「いえ、こっちの話です。どちらかと言うとカザリアさんは逃げに徹しますよね」
 きょとりとしかけたカザリアは、しかし、話の流れから非常に思い当たる節があって口をわななかせた。
「――な、なんて話してるのよ!」
「何の話だと思ったんですか?」
「…………」
 閉口したままカザリアは目線を逸した。訪れた奇妙な沈黙。何だかとても逃げ出したいと、気だけがはやる。
 前触れもなく首裏に差し入れられた掌。肩から零れた蜜色の髪筋だけが、微かに音を立てた。
「カザリアさん」
「何」
「触ってもいいですか?」
「…………」
 傾げられた蒼。まるで水底から空を見上げたようなその色に、彼女は圧倒された。
「――ん」
 顎を攫われて、深く口づけられる。掴んでいたはずの手首は、いつの間にか逆に捕らわれていた。
 訳もなく泣きだしたくなるのだ、いつも。うぅ、と嗚咽を漏らしそうになる喉をカザリアは必死でこらえる。唇に、顎先にと降りてきた熱は、思い出したかのように最後、耳の裏に付け加えられた。
 わずかにたじろいだ彼女の腰を、ロウリエは、構わず引き寄せる。
「カザリアさんは、ちっとも慣れませんよね。真赤ですよ」
「うるっさい」
「……ほんと結構、目に毒ですよね。想像つかなくてよかったかもしれません」
「だからっ――!」
「黙って」
 彼は、カザリアのこめかみに口を寄せる。あやしにも似た囁きは、彼女を混乱させるには充分だった。
 気が付けば、横たえられていた身体と、閉じ込められた腕にこれ以上行き場がないことを悟る。
 瞼に降ってきた口付けに、つい目をつむれば、次に目を開いた時には、やはり蒼の双眸がすぐ間近にあった。
「嫌だったら、言ってくださいね?」
「~~っ。だから、どうしていっつもそう言うのよ!」
「えぇー、内緒です」
 泣きそうになるカザリアをよそに、ロウリエは微笑しつつ首を傾げた。
 さらりと、髪に指が指し込まれる。
 そのまま首筋に顔を埋められて、カザリアはとうとう喘がずにはいられなくなった。ゆるりゆるりと思考回路が抜け落ちていく。そうして、彼女は、観念して力を抜くことにしたのだ。