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1 そもそもの始まりは


 彼女は突然現れた。

「陛下……その娘は?」
 担ぎあげられた肩の上で、少女は逃れようと暴れている。
 彼女が纏っているのは見たこともない服装だった。顔も腕も、どこもかしこも埃に塗れて汚れている。ともすれば顔をしかめてしまいたくなるような有り様だった。
 ただ一点。あまりにも深い黒に引き寄せられた。
 縮れた髪はとても美しいと呼べるものではない。恐怖でひきつる彼女の双眸は、こちらがひるんでしまうくらい狂気を孕んで見える。
 それでも思わず息を呑み、彼女に魅入ってしまったのは――彼女が持つ髪が、瞳が、周辺諸国ではめったに見られない黒であったからだ。
 驚きを隠せないでいる私の前で、陛下は狂乱している少女へ顔を動かした。少女を見る青色の双眸が痛まし気に、細まる。
 暴れ続ける少女を自らの肩に担ぎあげ、間違っても落ちてしまわないようにと相手の腰をがっちりと抱え込んでいる陛下は、半ば言い訳するように私に言った。
「街で拾ってきた」
「街で、ですか?」
 問い返してしまった自分の愚かさに、溜息をつきたくなった。聞きたかったことはそんなことではなく、どうして彼女を拾ってきたのか、その経緯が知りたかったのだ。そもそも、陛下が城下へ視察に降りていたことは聞き知っていたのだから、少女を拾ってくるならば、城下あるいは道中しか考えられない。わざわざ確認をとることでもなかったのに。私もあんまり呆気にとられていたのだろう。
 陛下は「そうだ」と首肯した。
「黒髪黒眼なんて珍しいだろう? 見世物小屋に無理矢理連れて行かれそうになっていたところに偶然出くわして、拾って来たんだ」
「……然様ですか」
 まるで犬や猫を拾ってきたかのような気軽さで、陛下は事の次第を打ち明ける。一体、どう反応すればいいのか、頷くこと以外、私にはできなかった。
 あらためて、陛下が助けたと言う少女を見上げる。
 底の見えない黒い双眸。
 目があったと思った瞬間、少女はびくりと震えた。
 止める間もない。埃塗れの手が一層激しく揺れたかと思うと、すさまじい勢いで振り下ろされた。
「――っ」
「陛下!」
 突然の出来事に陛下は顔をしかめた。歪んだ青い双眸の下。少女の爪があたった陛下の頬には、ぴっと赤く一筋の線が走った。裂かれた肌からじわりと血が沁み出す。
 途端、少女は黒いまなこを極限まで見開いた。
「あ」
 他者を傷つけてしまったことに慄いたのか。それとも、目の当たりにした血の色の鮮やかさに我に返ったのか。黒の双眸がおどおどとせわしなく揺れはじめる。
「何と無礼な!」
 怒気を孕んだ声は、控えていた護衛たちのものだった。震えだした少女に一斉に抜き身の剣が向けられる。
 彼女を庇ったのは他でもない陛下自身だった。彼は少女を抱えたまま、背後に控える衛兵たちを、自由な右手だけで制止させる。
「大したことではない。あんなことがあった後だ。気が立っているのだろう」
 護衛たちが未だ警戒を解かぬ中、それでも陛下は控えの者たちに目を配し、剣をしまわせた。
 陛下は肩に担ぎあげていた少女を抱きなおすと、一度あやするように彼女の背を叩いてからゆっくりと床へ下ろした。
 床に辿りついた爪先が、頼りなくぶれる。よろめいた彼女の身体を、陛下が当然のように支えた。
 焦点が定まらず辺りを彷徨い動く瞳。それは、まるで光を寄せ付けない漆黒の闇だ。
 陛下は大きな手で少女の両の頬を固定するように包んだ。少女は肩を跳ねさせる。汚れた彼女の細い指が悲鳴を上げるように、宙を掻いた。それでも、彼女は声を上げなかった。
「大丈夫だ。恐くない」
 少女の顔を上向かせた陛下は、少女の目に自分の目を映し込むように、彼女を覗きこんだ。
「もう、何も起こらない。俺たちは、お前に危害など加えない。だから安心しろ」
 静かに諭すように声は落とされた。落ち付きのある低い響きに、ふっと黒の瞳が動きを止める。
 初めて目の前の人物を認識したかのように、彼女は徐々に青の双眸へ視点を定めた。見開かれた彼女の黒い双眸に光が灯ったのが、私にも見て取れた。
 少女の身体から震えが消える。力が抜けたようだった。
 それを確認した陛下は、彼女の頬から手を話すと、今度は絡まった黒い髪を指先ですき梳かした。ともすれば、幼子を宥めているようにも見える仕草に、先程まで切りつめていた空気がほぐれた気がして、安堵する。
 呆然としながらもされるがまま流れに身を任せている少女の肩に手を添え、陛下はひょいと彼女を私の方へ向き直らせた。
「リシェル。彼女にとりあえず湯浴みをさせてやってくれ」
「それならば、途中で会った侍女に頼んだ方が早かったでしょうに」
「一番信が置けるのはリシェルだからな。リシェルが信用している侍女の方が、安心して任せられる」
 彼から何気なく向けられた微笑に、思わず頬が上気するのがわかった。
 悟られないようにと、慌てて陛下から目線を逸らす。けれど、もはや手遅れだろう。
「本当に。陛下はお上手ですよね」
「事実だ」
 即答された力強い断言に口をつぐむ。本当に、陛下はずるい。
 胸を反らして、高く顔を上げる。この人に認めてもらえること。それは何を置いても誇らしい。
「わかりました。このエリィシエル、責任を持って彼女を引き受けましょう」
 軽く頭を垂れてみせた私に、彼は満足そうに頷く。そして、促すように、陛下は彼女の背を押した。
 陛下から今度は私へ引き渡された少女は、状況を把握しかねているのだろう。黒の瞳が、また不安げに動き始めた。おろおろと陛下と私の合間を交互に行き来する。
「大丈夫ですよ」
 呼びかけると、彼女はこちらを向いた。
「あなたの身体についた埃を落とすだけです。それから、新しい服も用意させましょう」
 ね、と微笑むと、彼女はきこちないながらも首肯する。安堵したのか、揺れていた瞳の動きもまた収まっていた。
「どうぞこちらへ」
 私は手で、彼女に行き先を指し示す。歩きだした私のあとにならって、少女は恐る恐る、けれども確実についてきた。
 立ちつくしたまま動く気配のない陛下が気になるのか、彼女は二、三後方を振り返っていたようだった。けれど、前を歩く私との間に開いた距離に気づいたのだろう。ぱたぱたと駆け寄る足音が近づいてきたかと思うと、彼女は私のすぐ後ろにぴたりと張り付き、それからあとは振り返らずに歩きはじめた。

 これが、彼女――アイカ、との初めての出会いだった。

 彼女の第一印象を聞かれても、驚きと物珍しさが勝りすぎていて、正直なところよくわからない。
 だけど、ちょこちょことつかず離れず後ろを歩く黒髪の少女が、まるで親鳥を一心に追いかける雛鳥のように思えて愛らしかったのを覚えている。
 幼さの残るあどけない顔に、不安を一杯詰め込んで、それでも必死についてくる彼女に思わず笑みを零してしまったのも覚えている。
 だからこそ、私は気がつかなかった。
 いいえ。きっとその可能性には気付いていた。けれど、その疑念を無意識のうちに奥深くにしまいこんで、気付いていないふりをしていたかったのかもしれない。

 これから彼女がもたらすこと。
 当り前だった王宮での日常が、すっかり崩れ去ってしまうということに。