13



 小鳥のさえずりが聞こえる。
 まどろみの中、軽やかな鳴き声に、私はぼんやりと目を覚ました。狭い籠の中をあっちへこっちへと飛び移りながら、自慢の喉を震わせる小鳥。朝日に光り輝く純白の翼の先にはほんのりと紫がかっている。
 風切り羽が切られた今では、もう空も飛べない小鳥。それでも空を乞うように、時折、光漏れる窓の側へ小首を傾げては、籠の中を飛びまわる小鳥のさえずりは耳に心地よい。
 歌うような小鳥の美しい響きに混じって、だが、対照的な押し殺した嗚咽を耳にし、私は痛む身体を起こした。
「メレディ」
 彼女は口に手を押し当てたまま、一点を見つめ涙を流していた。
「こんなっ! これは、あまりにも酷い仕打ちにございます!」
 メレディの視線の先にあるのは一つの籠。何も知らずに歌う小鳥。昨夜、この部屋を訪れたリーアンが持ってきたものだった。
 籠の中の小鳥だ、彼は私に言いたかったのかもしれない。
 正しく、そう受け取った老侍女に、私は首を振る。
「いいえ、メレディ。これは私ではないわ」
 小さな檻の中、それでも楽しげにさえずる小鳥へと目を移す。
 白い羽に宿した紫。
 奏で続ける歌。
 そのどちらもが、確かに私になぞらえられたものなのだろう。
 けれど。
「この子は籠に守られている。籠の中にいれば安全よ。確かに自由に空を飛ぶことはできないけれど、何者もこの子を苛むことはできないでしょう。
 だけど、私は違う。私の籠の扉はきっと常に開けられているの。本当は逃げることもできるのよ。だけど、私にはそれができない。ただ、開かれた籠の中、伸ばされる手に怯えるの。
 だから、この子はきっと幸せ。私は籠の中の鳥になりたかったわ」
 せめて籠の扉を閉じる勇気があったらどれほど違っただろう。
 夜が来るたびに震え出す自分がいる。
 今日はやって来るのだろうか、と。
 現れる彼に『生』を覚え、現れぬ彼に『死』を覚える。
 耐えがたい苦痛から何度逃れようと思ったことか。何度死を口にしようと宝石を滑らせたことか。
 それでも結局、私は死を選べなかった。母弟の血だまりに沈んだあの日のように。
 暗闇の中でチカと光る。
 幼い日の思い出は私にとって生きる希望だった。
 同時に、その思い出は耐えがたいほど、私を現実から逃れさせない残酷さをも秘めていた。
 どうしても、願ってしまう。
 もう一度会いたい、と。
 もう一度。今度のシトロナーデの祝祭まで生きよう、と。そして、一目あの方を見ることができたなら、その後は、もう楽になっても許されるはず。
 ただの形式上の挨拶を嬉しく思う。かけられる言葉を幸福に思う。
 もう、これで充分。充分だ。
 けれど、終わってしまえば私はまた願ってしまう。
 もう一度会いたい、と。
 もう一度。
 あともう一度だけ。
 今度のシトロナーデの祝祭まで生きるのだと。
 私はそうやって時を超えて来た。
 もう一度。もう一度。と何度も繰り返される願いは、私をここまで生き長らせることとなった。



「トゥーアナ」
 歌う私に、父王は声をかけた。
「全ての準備は整った。今日ケーアンリーブに向けて書状を送ったのだ。明後日には正式な返事を持った早馬がこの城に帰ってくるだろう」
「本当ですか?」
 にわかに信じられない話だった。
 確かに父と約束はしたが、まさか本当に叶えられるなどとは思ってもみなかった。
「約束などただの気休めだと思っていたか?」
 目を瞠る私に、父はいつになく穏やかな表情で微笑む。
「私はお前との約束を違えることなどはしない。だが、トゥーアナ。ただ一つだけ叶えられぬかもしれぬことがある。私はお前をケーアンリーブ王国王妃に据えると言った。しかし、やはり難しいのだ。ケーアンリーブ王に今現在妃は居ない。しかし、それでもお前は末席の妃となるかもしれない。それでも良いからと、こちらから願い出た。とにかくお前をこの国から出すことを優先したのだ。トゥーアナ、全ての願いを叶えられなかったこの父を許してくれるだろうか?」
「もちろんです、父様。あの方の元へ行けるなら私は侍女にでも、なんでも……例え何者になったとしても構いはしません。本当にありがとうございます。父様には感謝しても感謝しきれません」
「トゥーアナ、長い間辛い思いをさせた。だが、ようやく全てが終わる。全てが終わるのだ」
「はい」
「ようやくお前をこの国から出せる」
 父の手によって体が引き寄せられる。守ってやれなくてすまない、と懺悔する父の声に身体が震えた。せめて言葉にかえて、伝えきれないほどの感謝を込めて抱擁を返した。


 父王の予想に反して、早馬は予定よりも一日早い、翌日に城へと辿り着いた。
「一体どういうことだ!」
 声を荒げる王に、膝をついて控える従者は苦渋の色を濃くした。
「私にもわかりませぬ。ただ、書状を持った使者の一人がケーアンリーブ国王の御前に立つなり、剣を抜き国王へと切りかかりました。すぐに取り押さえられたためケーアンリーブ国王に実害はありませんでしたが、他の者も私以外は牢へと留め置かれております。ルメンディアにこのことを伝えるため、私だけが帰されました」
「何ということを」
 王は首を振り、頭を抱えた。
 王の書状を携えた使者。王の意向を伝える彼らは、他国では王そのものとなりうる。つまり、彼らがなす行為は全て王の意向の下となる。ケーアンリーブ国王へと剣を向けたのは、ルメンディア国王として扱われるのだ。

 なぜこのようなことに、と皆の頭に疑問がよぎった時、謁見の間に堂々とした声が響き渡った。
「どうやら戦の準備をする必要があるようですね」
 カツン、カツンと靴音を鳴らしながら前へと進み出た男に王は眉を寄せる。
「リーアン……まさか、お前か?」
 王の問いに、彼は口の端をあげて薄く笑った。
「何のことでしょう。全ては奇怪な使者の行動。私に関わりあるわけがありません」
 灰の瞳を細めた王子に、そこにいた全ての者が悟ったことはきっと同じだったろう。けれど、誰も彼の言葉を否定するための手段を持ちあわせてなどいなかったのだ。
 そも、王自ら選んだ使者がリーアンの手のもとにあった。もはや、ここに会するいかほどの者が彼の配下か容易には窺い知れない。
 静まり返った部屋の中、男の声だけが朗々と響き渡る。
「遅かれ早かれケーアンリーブ国王は兵をこちらへ差し向けるでしょう。その前に我が国も兵を挙げ、先に彼の国を叩くべきです」
 リーアンの進言に私は口を開いた。
「なりません! どう考えても、こちらに非があるのです。再び使者を送り、謝罪するべきでしょう」
「トゥーアナ、お前は考えが浅い。そんなことをして理不尽な要求をされたらどうする? どうしようもできぬほどの損害を民に与えよ、と言うのか?」
 冷ややかな光を宿す灰の瞳と相対する。
 意に反して震え出そうとする身体を両手で掻き抱き、抑えた。
「それでも……それでも、戦による損失には遠く及びません。戦によって荒らされた田畑が元に戻るのにどれほどの月日が掛ることでしょう。もとより民の命に勝る損害など存在いたしません」
「だから、勝てばよいだけのこと。我が国は肥沃で広大だ。だが、貧しい。それに比べてケーアンリーブはどうだ? 鉱山資源が豊富であるために豊かではないか。彼の国の土地が手に入れば、我が国も豊かになる。民も暮らしやすくなるだろう。それらを手に入れるためには多少の犠牲も必要だ」
「ですが!」
「もうよい。お前は下がれ、トゥーアナ。元より議会でお前の発言は認められてなどいない」
 億劫そうに手を振るリーアンに私は唇を噛み締めた。
 彼の言う通りだ。
 王女である私に発言権などない。私にはどうすることもできないのだ。ただ全てを託して決定を待つしかできない。
 謁見の場に立ち尽くしたままの私に、父王は一つ頷いた。
 何もできないことを歯がゆく思いながらも、私にはもはや礼をして退出する道しか残されていなかった。


 議会で決定が下されれば、父王はすぐにでも私に結果を知らせてくれるはず。にもかかわらず、知らせは待っていても一向に来なかった。
 国の命運がかかっているのだ。簡単に決められるようなことではない。充分に議論すべき内容だ。連日連夜議会が開かれていることは、リーアンが部屋を訪れないことでも証明されている。
 だが同時に、早期決断を求められる類いのものでもあるはずだった。ケーアンリーブ王国はわざわざ我が国――ルメンディアの意図を尋ねるために使者を一人帰してくれたのだ。返事をのばすことはこちらにとって得策とは言えない。
 それなのに、あれから五日経っても進展が見られない。そのことは酷く私を不安にさせた。嫌な予感ばかり頭をよぎってならない。

 ようやく事態が動いたのは使者が帰って来てから一週間経った日のことだった。
 その夜、眠りについていた私はメレディの誰かを引き止める叫び声で目を覚ました。
 訪問者が誰かはわかっている。だが、もう既に夜半をまわったところ。彼がこんな時間に来るのは酷く珍しかった。
「やあ、トゥーアナ」
 カチャリという音と共に暗い部屋の中に入って来たのは、やはり予想通りの人物。闇に光る彼の瞳は黒い。
「どうされたのですか?」
「結果を教えに来てやったのだ」
 与えられる口付けをいつものように受け入れる。その時に香った鼻につく匂いに眉を寄せた。
 胸を攻め上がってくるほどの不快な匂い。それは、かつて嗅いだ事のあるものにとてもよく似ている。
 リーアンの固い胸を押し返して、重さに倒れそうになる体を留める。
「リーアン殿下……それは?」
「ああ」
 彼は不気味に笑うと小脇に抱えていた木の箱を私の膝の上に置いた。
「開けてみるといい」
 木の箱は大きさに反して、膝が沈むほど重かった。触れた凹凸の感じから、どうやら装飾が彫られているらしい。しかし、暗闇の中では豪奢な彫刻も見えはしない。
 動悸が止まらなかった。
 箱の上に乗せられているだけの心もとない蓋を恐る恐る持ちあげる。
 やはり何も見えない中身に対し、けれど、先程よりも醜悪な匂いが増した。
 漆黒の闇の中へと手を差し入れる。手に触れたのは細く、硬い糸のようなもの。
「まさか」
 まるで図ったかのように、窓の向こうで雲が割れ、月が顔を出す。
 月明かりによって徐々に照らしだされていく箱。中には固く眼を閉じた青白い王の顔があった。
「父さ、ま……?」
 呆然と膝の上に乗った箱を見下ろす私へ、くつくつという笑いが落ちてくる。
 彼は今までになく上機嫌で、高揚していた。
「そうだ。私はもう殿下などではない。――王だ」
「あか、しの……剣、は……?」
 たとえ彼が父王を殺したとしても証の剣が無ければ王にはなれない。だからこそ証の剣の持ち主である父は最も安全のはずだった。
 リーアンは薄く笑うと、私に向かって剣を放った。
 ぽすりという軽い音と共に寝台に載せられたのは紛れもなく王家に伝わる証の剣。数々の宝石を模した剣が月光の下、妖しく光っている。 
 証の剣が隠されていた場所は父と私しか知らない。
 リーアンが父から正式に剣を譲り受けたとも考えられなかった。
 それなのに目の前に立つ男がこの剣を手にしているということは――辿り着いた一つの答えに、私は愕然として男を見上げた。
「は、かを……私の母の墓を暴いたのですか?」
 リーアンは、ふっと口の端を上げて冷笑する。
「本当に馬鹿な男だった。せめて正妃の墓に隠しておけばよかったものを」
「何ということを!」
 掴みかかった私を、リーアンは左手で払った。
 父の入った箱を抱き締める。嗚咽する私をあやすように、リーアンは私の背を撫ぜた。
「顔をあげろ」
 命じられるまま私は重たい頭をあげた。
 リーアンは、とくと私を見下ろしてくる。興味深げに言った。
「よくもここまで生き長らえたものだな」
 涙の筋を、彼の指先が辿る。
 頬から首へ、降りてきた男の手を過去とは比べものにならないほどに不快に思う。
 血脈を探るように首筋をなぞる手つきだけは、いつもなぜか優しかった。一度彼がその手に力を込めれば、私の首など何度だって簡単に折れてしまったのだろうけど。
「トゥーアナ。よいことを教えてやろうか?」
 真冬の雲と同色の瞳の持ち主は、「ここまできた褒美だ」と私の頬を両手で包んで、ささめいた。
「お前の愛しい男にあわせてやる。ずっと手元に置いておくといい」
 不可解な響きに喉の奥が震えた。冷や汗が背を伝う。
「さっきケーアンリーブへ使者を送った。早朝には彼の王の元に届くだろう」
 男が嗤う。まるで私の反応を見て楽しむかのように。
「私が知らないと思っていたか? 知っていたさ、はじめから。だが、トゥーアナ。戦ははじまる。お前には止められない。だから代わりにお前に捧げようじゃないか。勝利の暁にはケーアンリーブ国王の首をな」
 リーアンは酷く面倒臭そうに父王の首を私の膝の上から床へとどかした。
 寄りかかってくる男の重みに今度は逆らうことなどできず、寝台の中へ背から身体を埋める。
 視線を床にそらしても、父の顔は見えない。ただ、白髪の交じった髪だけが箱の中から覗いた気がした。
 ガーレリデス様もあのようになる。
 小さな箱に収められて彼の方が私の前に差し出される。
「たった、それだけのために?」
 たったそれだけのために、この男は戦をすると言うのか。多くの民を犠牲にし、田畑を荒らして、隣国を滅ぼすと。そう、口にしたのだ。私を理由に。すべては私のために。
 私は顔を見られることを厭うように、両手で自身の顔を覆い隠した。
 耳元に唇を寄せられて、身体が跳ねる。
 笑い声をこぼした。
 おかしくてたまらないというように、口元からあふれ出る笑い声を両手で押し留める。
「壊れたか」
 問いながらもリーアンは顔を埋めたまま、胸や腹を辿ることをやめなかった。
 ようやく笑いをおさめた私は、彼の頭の項に手を伸ばす。不意に髪を撫でられたリーアンは顔をあげ、意外そうにこちらを見据えた。
「どうしたトゥーアナ。まさか喜んででもいるのか。愛しい国王が手に入ると聞いて?」
「ええ、陛下」
 目をすがめて、私は頷く。
「もうこうなってしまったら、他に方法はありません」
 彼の少し硬い髪を指ですきとかし、時折、指先で遊び続けながら微笑む。
「あの方を他の女にとられるなら、手元においた方がいい」
 でしょう、と首を傾ぐ。
 王はさも面白いことを聞いた、と言わんばかりに声を立てて笑いはじめた。
「なるほど。お前を試した判断は間違っていなかったようだ」
 瞼に落とされた口付けを、瞳を閉じて受け取る。
「そうだ、トゥーアナ。ならお前をルメンディアとケーアンリーブの王妃としてやろうか。ちょうど他の二人には飽いたところだった」
「お戯れを」
「お前の言葉が、戯れかどうか見ものだな」
 嘲る言葉に、私はくすりと笑みを浮かべる。
「それでは陛下、戯れがわりに私からも祝いの口付けを」
 手を伸ばす。男の頭ごと抱え込むようにして引き寄せ、自分の唇を彼のそれに乗せた。軽く触れた瞬間、主導権があちらにわたる。口が割られ、吸われ、息つぐまもなく満たされる。
 口内をなぞりながら、私の肌を弄り始めた男の手の行き先に、思わず呼吸ができなくなり唇が離れそうになる。けれど、私が男の頭を抱えているのと同じように後ろから押さえつけられていた私の頭は逃れようにも逃れられるはずがなかった。
 私の反応を探るように動いていた彼は、私の腕の中で身体を痙攣させた。
 奇妙に身体を折り曲げ、私の胸元で激しく咳き込みだす。睨み上げてくる灰の双眸を、頬についた唾液を拭きとりながら、私は見下ろした。
「お前っ……今、何を呑ませた!?」
 問いながら、男は己の首を両手で押さえ、苦痛に顔を歪めはじめた。絶叫することさえも許されない程の悶絶は、けれど、すぐに終わりを告げる。
 あれほど喘ぎ苦しんでいたのがまるで嘘のように男は呆気なく呼吸を止めた。
 目を見開いたまま寝台に横たわる男の顔には苦しみと憎しみが映る。
 魂のない肉塊と化した男を静かに見下ろす。
 悲しみもなければ安堵もない。
 ただ無感動な静寂だけが横たわっていた。
「愚かな王よ……なぜあなたは民のためではなく、陳腐な理由を動機としたのですか」
 喉が焼けるように熱い。少量とはいえ、私も毒を口にしたのだ。指輪の中身は空になっていた。
 震え出した身体を何とか起こし、寝台横の小机へと向かう。右上の一番奥の引き出しから紙に包まれた解毒の錠を取り出し口に含み、息をついた。


 雫が一筋、頬を伝う。
「メレディ」
 いつの間にか入って来た老侍女に目を向ける。驚愕している彼女はそれでもしっかりと私の方を見据えて立っていた。
「手伝ってくれますか?」
 メレディは深く頷き、裾を両手で摘まむと腰を折った。
「私に出来ることならなんなりと――我が君」
 いつのまに寝台から落ちてしまっていた継承の証を、手を伸ばしひろいあげる。豪奢な鞘から剣を抜きさると、鈍く光る刀身が露わになった。
 事切れたばかりの王に向き合う。

 そして私も愚かな王女。
 彼と同じ道を行く。
 私こそが陳腐な理由で、自らの民を裏切った。