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「いよいよ、明日ですね」
「ええ」
 窓の外の向こうの光。ルメンディアにも今は、同じように数多の光が灯っているのだろうか。
「ずいぶんと変わっているかも知れませんよ」
「そうね」
 隣に立ったメレディへと目を向ける。
「よい方向に変わっているのなら、とても嬉しいわ」
「ええ。きっとそうです。明日が楽しみですね。父王陛下も御母上様もきっとお喜びになるに違いありません」
 目を細めて窓の外に視線を向けながらメレディは微笑む。
 幼い頃に比べたらすっかり小さくなってしまったけれど、メレディの横顔はいつ見ても安心する。ずっと傍に仕えてくれたかけがえのない存在だ。
「ねえ、メレディ?」
「はい」
 向き直った彼女と正面から相対する。
「メレディには明日、ここに残っていて欲しいの」
 彼女の顔がほんの少しだけ、驚きに曇る。彼女は「なぜか」とは問わない。いつも私の意思を汲もうとしてくれる。
「メレディ。ラルーはとてもあなたのことが好きよ」
 私の言葉にほっとしたように顔を緩ませながら、メレディは口を開いた。
「それを仰るのなら、ラルシュベルグ様は御母上様であるトゥーアナ様のことをより慕っておられますよ」
「けれど、侍女の中ではメレディが一番」
「それは、私には経験がありますから」
 どこか誇らしげにメレディは微笑んだ。
「ええ、私もメレディに育ててもらった。だから、よくわかるのよ。私は明日ここを離れなければならないでしょう? だけど、ラルーを連れていくことはできないから、代わりにメレディに任せたいのよ」
「そういうことでしたら……」
「任せてもいいかしら?」
「承知いたしました」
 メレディは裾を両手で摘まんで腰を折る。
「それから、もう一つ」
 顔を上げたメレディへと私は続けた。
「メレディ、あなたに頼みたいことがあるの。あなたにしか頼めないことよ」


 小さな寝台に手をかける。
 規則正しい寝息を立てて、安らかに眠っているラルシュベルグ。
 一体どんな夢を見ているのだろう。ガーレリデス様の言う通り、ラルーはほんの少し口の端を上げて、口元に笑みを刻んでいた。
「どうしてもラルーが寝付かない時には貴女が子守歌を歌ってあげてね、メレディ」
 ラルーの額に掛かる細く柔らかな金の髪をそっと撫でる。
 いつか、この子も大きくなって、話ができるようになるのだろう。一体どんな風に成長していくのか、どんなことを話すのか、今はまだ遠すぎて想像もつかない。
「おやすみ、ラルー」
 乱れている掛布をかけなおす。
「メレディ、ラルシュベルグのことを頼みましたよ」
「……はい」
 小さく微笑むメレディに頷きを返して私はそっと部屋を後にした。


「トゥーアナ様、どちらへ行かれるのですか?」
 部屋を出てすぐ、どうやら扉の外に控えていたらしいアシュレイと出会った。私よりも、いくらか年若い侍女はいつも明るく朗らかな笑みを湛えている。
「ガーレリデス様のところに」
「お供いたします!」
 すぐに返って来た勢いのある声に、思わず吹き出してしまう。私は少し後ろを歩き出した彼女へと声をかけた。
「あなたはいつも元気ね、アシュレイ」
「だけど、そのせいでたまに先輩方に叱られます……もう少し落ち着きを持って行動なさい、と」
 アシュレイが肩を竦めて、溜息をつく。
「いいえ。アシュレイはずっとそのままでいてほしいわ。あなたを見ているとこちらまで明るい気持ちになれるもの。人を元気にさせることができるのはアシュレイにしかない長所よ。簡単に真似できるようなことではないわ」
「そうでしょうか?」
 頬に朱を散らし、目を伏せたアシュレイに自然と目が和む。
「トゥーアナ様は明日から旧ルメンディア領に行かれるんですよね? お帰りは明後日ですか?」
「ええ、早ければ」
「いいなぁ。私も一度行ってみたいです。ルメンディアはやはり綺麗なところなのでしょうか?」
「綺麗よ。今の季節ならネイドラフージュが咲いているでしょうね」
 雪舞花という異名を持つ可憐な純白の樹花。
 名の通りまるで雪のように真っ白な花びらを、空いっぱいに舞わせながら、春の訪れを告げる花。
「きっと、すごく素敵なのでしょうね」
 アシュレイは両手を組み合わせて、うっとりとここではないどこか別の場所を見つめる。
 彼女の目の前にはきっと数多の花びらが舞い踊っているのだろう。
「アシュレイ、ちゃんと前を見ないと危ないわ」
「あ、はい、申し訳ありません」
 顔を真っ赤にさせて頭を下げたアシュレイの前に立つ。
「アシュレイ、もうここでいいわ」
「そんな、いけません! きちんとお送りしなければ陛下に怒られてしまいます」
「アシュレイ……そうは言っても、もうここはガーレリデス様のお部屋のすぐ傍だから」
「ああっ!」
 斜め前方に確かに王の居室があることを認めたアシュレイは深く項垂れた。
「申し訳ありません!」
「いいのよ。けれど、アシュレイ。確かにもう少しだけ落ち着いた方がいいかもしれないわね」
「……はい」
「それに、ガーレリデス様はそんなことで怒ったりなどしないわ」
「ですが、陛下は誰よりも何よりもトゥーアナ様のことを大切に思われていますよ?」
 まっすぐと向けられた顔。未だ火照りを残しながらも、その表情には真剣さが滲む。
「アシュレイ?」
「はい」
「メレディにも頼んだのだけど、あなたにも……私がいない間、ラルシュベルグのことをよろしくね」
「ええ、お任せ下さい。私一人だけでは不安ですが、メレディ様もついていらっしゃるのなら安心です。私たちが責任を持ってラルシュベルグ様をお守り申し上げます!」
 胸をはるアシュレイを頼もしく思う。
「ありがとう」
「いいえ、当然のことですから。それでは私はここで失礼いたしますね」
 今度は嬉そうに頬を染めながら一度礼をすると、アシュレイは元来た道へ踵を返した。


 王の居室の前に位置する近衛の一人へと来訪の旨を事付ける。
 返答よりも早く、私に扉を開いてくれたのはガーレリデス様だった。 
「トゥーアナか、どうした?」
 少し薄暗い部屋の中。灯火によって後方から照らされた彼の金茶の髪は幼かったあの日と同じ色に輝く。
「今夜はご一緒してもよろしいでしょうか? ただ隣にいさせてもらうだけでいいので」
「それは別に構わないが……まだ仕事が終わっていないぞ? 先に寝ておくか?」
「いいえ。ならばお茶でも淹れましょう」
「茶を淹れることができるのか? トゥーアナが?」
 招き入れつつも、心底驚いたように丸くなった空色の湖水の瞳にくすくすと笑いを洩らす。
「できますよ。けれど、とても美味しく、というわけにはいきませんけど。普通に淹れることができるだけです。なので、美味しいものをお飲みになりたいのなら、それだけ高級な茶葉を用意してくださいね?」
「それなら、カーマンダン地方の茶葉が確かあったはずだ」
 ガーレリデス様は執務の机の方ではなく、部屋に設けられた簡易の給仕室の方へと向かう。
「カーマンダンですか……本当に最高級のものですね。私が淹れるには少々勿体無いのでは?」
 彼の後に続きながら問いかけると、ガーレリデス様は戸棚から茶葉の入った缶の一つを取り出して私に手渡した。
「別に普通に美味しければいいからいい」
 そう言った傍から、ガーレリデス様は手際よくお湯を沸かしはじめた。湯を沸かすまでの間に戸棚からさらに取り出した盆の上にティーポットと二つのティーカップを載せる。次いで湯気をくゆらせて沸騰したことを知らせた湯をティーポットへと注ぎ入れ、全ての用意が完了すると彼自ら盆を持って執務机へと歩き出したのだ。
 流れるような一連の所作に私はただ目を瞠りながら、執務机の横に彼が用意してくれた椅子へと腰を下ろした。
「なんだか、ガーレリデス様がお淹れになった方が美味しいお茶が飲めそうですね……」
 心からの私の感嘆に、だが、彼は首を横に振った。
「いや、できるのはここまでだな。俺が茶を淹れるとなぜか苦くなる」
「時間を置き過ぎなんですよ」
「茶を淹れていたこと自体を忘れてしまうからな」
「それはもう、どうしようもありませんね」
 ティーポットの湯を二つのティーカップへと注いでいく。缶を開けた途端にふわりと広がった茶葉の香気が鼻腔をくすぐる。
「やはり、少し勿体無いですね」
 茶葉をティーポットに掬い入れる。
「使わない方が勿体無いだろう」
 ティーカップの湯を彼が順にティーポットの中へと戻していく。
「確かにそれもそうなんですけどね」
 ティーポットの蓋を閉めてしまった後は、茶葉が開いていくのを静かに待つだけ。
「仕事をなさって結構ですよ? 私がちゃんと忘れないように淹れて差しあげますから」
「それなら、任せた」と、ガーレリデス様は手元に広げられた書類の一つに目を落とした。
 静かな部屋、さらさらと動き続ける筆記音だけが部屋の中に響き渡る。規則正しいその音は私を安心させる響きを持つ。
 もう夜も更けかけているというのに、王の机上の仕事は多い。
「すみません」
 知らず落ちた謝罪の言葉に、王が顔を上げる。
「なぜ謝る?」
「私のために御無理をされているのでは? 明日からルメンディアに発たなければならないから……」
「別にこれくらいいつもと変わらない。むしろ、ルメンディアに行けることで気晴らしになっていいぞ?」
 首を傾げた彼が、困ったような笑みを浮かべて私の頬へと手を伸ばす。
「だから、泣きそうな顔で笑うな」
「そんな顔してません……」
「しているから言っているのに」
 ガーレリデス様が「どうしたものか」と苦笑する。
「心苦しいのなら、謝罪よりも礼の方がよっぽど嬉しいぞ?」
「はい……ありがとうございます」
 頬を包む温かな彼の手に自分の手をそっと重ねる。
 今度こそ、ちゃんとした笑みを二つの湖水の瞳へと向けて。
「愛していますよ。今までも。これから先も、ずっと」
「知っている。いつも言われているからな」


 結局、口にした茶はほんの少し苦かった。
「すみません、私も時間のことを忘れてしまいました」
「大丈夫だ。俺のよりは飲める。まだ、充分美味しいぞ?」
「一体どれだけ苦いお茶を飲んでいるんですか……」
 呆れる私からふいと目をそむけて、彼はもう一度茶を口に運ぶ。
「今度からは御自分ではなく侍女に頼んで下さいね」
「そうだな。できるだけ、そうしよう」
 その口元には穏やかな笑みを刻んで。彼はそううそぶいた。