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「ああ。考えていたよりも、ひどい有様だな」

 何がそんなにおもしろかったのか。広がる陰惨な光景を見渡して、リーアン兄様は冷酷に嗤った。
 冷たい色をした灰の眼差しに憐憫の情は窺えない。
 ただ、物事の成り行きを確認しにきたらしいその口ぶりが、私の理解に誤りがなかったことを告げる。
 悪夢を引き起こした首謀者は、やがて興味を失くしたように母様たちから目を外すと、動けずにいる私を見下ろした。
 ――この人は一体誰なのだろう。
 目の前に立つのは、今まで何度も顔をあわせ、確かに異母兄であったはずの男。にも関わらず、今はまるで別人のように思えた。
 それは、彼が嘲るような笑みを浮かべていたからではない。
 冷たく飢えた獣のような光を灯さない瞳をしていたからでも、まして血に塗れた衣を纏っていたからでもない。
 ただ、そこには滲み出る異質さが、離れていても恐怖を抱くほどの何かが、彼にはあった。
 先にも増して震えだした身体を唇を噛んで押し殺す。ただ、自分も王族であるというただそれだけの矜持にすがって、かつて兄であったはずの男を睨みあげた。
 震える私を見下ろして、男は嗤う。
「そう睨むな。別に直接手を下したのは私ではない。他の王族たちやつらも同じだ。少し戯れを吹き込んだら、勝手に殺しあってくれた。おかげで随分と手間が省けた。まあ、最も穢れた踊り子の血を引く王子が侮られていた結果、最後まで生き残ってしまったのは誤算だったが。それも今日、消え去った。わざわざこの私が手を下すよう命じるのさえも億劫だったが、存在されていても目障りだからな」
「……ミエアラ……私の侍女」
「ああ、そういえばアレに手をかけたのは私だったか」
 ミエアラの方をちらりとも見ず、そう言い放ったリーアンに悔しさが込み上げてきた。
 男の長い二本の脚の合間から見える、伏して血まみれになったミエアラ。まるで物であるかのように、ずたぼろに切られ、そのまま放置されている彼女。
 彼にとって彼女は見るに値しないそこらに落ちている塵と同じくらいの存在でしかないのだ。
 けれど確かに存在し、私に笑みを向けてくれた彼女は私にとっては大切な侍女の一人、かけがえのない存在の一人であった。
 そんな彼女を見向きもしない彼に、悔しくて涙が込あげてくる。
 震えたくはなかった。恐怖し脅え続ける醜態をこんな男の前で晒したくなどなかった。それでも意志に反し、身体は小刻みに震え、私の中の恐怖を暴き出し続ける。
「そして、私」
 私もミエアラのように死ぬのだ。
 同い歳の侍女の姿に命を失くした自分の姿を重ねてしまう。
 きっと見向きもされず、この床に打ち伏し――やがて赤い泉を作り出している血だまりの根源の一つとなるであろう近い未来の自分の姿を。
 その時はじめて、リーアンが私を見た気がした。
 ピチャリ、ピチャリと足音を鳴らしながら、リーアンは床に座り込んだままの私の方へゆっくりと近づいて来る。ついに、私が手を付いている血だまりへとその足を踏み入れると、リーアンは腰を下ろし、ふ、と笑った。
「そうだな、私もここに来るまではそう考えていた。お前で最後。お前で終わりだ」
 だが、と彼は吟味するように私を見据える。
「お前を見て、気が変わった。王を惑わせた女の血はだてではないらしい。死の間際にしてもなお、色褪せないか。――いや、むしろ鮮やかさを増した。この色はお前によく似合う」
 リーアンの手が私の頬へと伸びてくる。まるで物珍しい宝石の輪郭を確かめるように、その手は私の頬をなぞった。なぞられるごとに頬を滑る、ぬるりとした感触に肌が粟立つ。
 生温かなものが、先刻までミエアラの身体を巡っていたであろう液体が私の頬を伝い落ちた。
「お前の美しさは殺すには惜しい。賤しい踊り子の血を引く王女、トゥーアナ」
 薄ら寒さすら覚える灰色の瞳が覗きこんでくる。かと思うと、顎を掴まれ、上向きにされる。
 掴まれた痛みと、同時に降って来たのは深い口付けだった。
「んっ!」
 抗おうとしても抗うことを許さない力と重みに床へと崩れ落ちる。
 倒れる瞬間、背中に走った痛みよりも、与えられる感じたことのない感覚にぞくりとした冷たさを背に感じた。
 訳がわからず恐怖するのに口から出るのは自分のものとは思えぬ悲鳴だ。
 慌てて口を抑えようと伸ばした両手は呆気ないほど簡単に遮断され、温かさを残した血の浸る硬い床へと押し付けられた。
 熱い吐息が自分の肌にかかり、次いで、柔らかいものが胸をなぞるように刺激しはじめる。腹にのしかかる男の重みと、体温に混乱して、身体が跳ねた。
 息の吸いかたがわからない。わからないのに繰り返し喉から出てくるのは荒い息だ。肌を這いまわる感触が気持ち悪い。
 それがようやく止まった思うと、安堵するまもなく、痛みと共に今度は噛みつかれたのがわかった。
 身体が波打つ。恐怖から来る震えとは、まったく種を異にした震えだった。
 堪え切れないぞわりとした感覚に竦みあがる。今までとは違った頭が真っ白になってしまったかのような感覚に、自分の身体が自分のものではないような錯覚さえ覚えた。そうして、できればそうであって欲しいとも。
 あまりの恐ろしさにおじけづき、どうにか感覚を逃そうと、ぎゅっと目をつむる。
 そのことに気付いたのか、リーアンは戯れむように繰り返しそこに刺激を与え続けた。
 それを避けたくて身じろいでも、押さえつけられている身体は微動だにせず、一向に逃れるすべが見つからない。
 否応なく与えられ続ける気持ちの悪さに吐きそうだった。
「いやっ。やめっ、やめ……てくださ、い」
 首を振って何度も何度も懇願する。その合間も、行為は続けられた。
 いっそう強く噛みつかれて、喉が仰け反る。赤く水音が耳元で跳ねて、脚の合間にある男の頭にしがみつく。
「――んあっ、……さま、母様っ」
 まるで啜り泣きに似た弱々しい懇願だった。
 顔をあげてこちらを向いたリーアンの顔が、涙のせいで酷く揺らめいている。
 それでも、彼が小さく笑ったのがわかった。
 いや、と、私は首を振るう。腹を辿る男の掌に、下腹を強く押されて、私は痛みに呻いた。
「トゥーアナ」
 呼ばう声に背筋が凍りつく。冷たさと嘲りを含んだ笑いが、静寂に響いた。
 窓辺からは嘘のように穏やかな陽光が降り注ぐ。傾きだした日差しに照らされて、まとわりつく赤がいっそう鮮やかに存在を誇張する。
 震えながら首を振るうことしかできない私の首元を、赤く濡れた男の指が辿った。
 暗雲のような灰色の双眸が私を見下ろす。リーアンは口元に笑みを刻んだまま、私に言った。
「お前に選択肢を与えてやろうか」
 試すような囁きだった。血溜まりの床に落ちていた私の右手を拾いあげ、彼は薬指に口づける。
「王族は誰も己の指に毒を宿している。そうだったろう、トゥーアナ」
 リーアンは、血に濡れた私の薬指にある石を指でなぞり、石にこびりついた血を拭いさる。
 くもりのはれた透明の石が、目に飛び込んできた途端、ひどく心が惹きつけられた。
 それは己の矜持を保つためのもの。
 敵の手に落ちることなく、誇りをもって死という仇を成すための道具。この悪夢を終わらせるもの。
 指輪の石の下に仕込まれ、私たちルメンディアの王族が常に身につけている毒――それは自害を指していた。
「私はお前を殺さない。選択させてやろう。王族としての誇りを選ぶか、このままここで私の寵妃となるか。――選ぶのはお前だ」
 嗤って、リーアンはあっさりと私の手を離した。
 彼と私の間で、指輪の宝石がまわりの景色を映して浮かぶ。
 解放された右手を、私は恐々と自身の方へ引き寄せた。
 自分でもなんとも惨めだと感じるほど、近づいてくる私の手は震えていた。
 やはり震えているもう一方の手で指輪に付いたひときわ大きな宝石を滑らせ、さらに自分の口許へと引き付ける。
 毒を口許へ運ぶ最期の瞬間、けれど、頭の中で、ちかりと光るものがあった。
 瞬間、途方もない絶望に怯える。
 私はぎゅっと目を瞑り、震える両手をかきあわせ、強く握りしめた。

「生に執着するか」

 真上から降ってきたのは、嘲るような、しかし、楽しむかのように悦を含んだ言葉だった。
 興味深そうに私を見下ろしわらったリーアンは、そのまま私の首元にやわと吸いついた。またがっていた男の重みが、増していく。同時に逃れようのない感覚が否応なしに戻ってきて、私は悲鳴をあげた。


 意識を紛らわせようと逸らした瞳に映ったのは無数の肉の塊だった。
 身じろぎ揺れるたびに、辺りに赤い波紋が広がる。
 まとわりつく温かな血が次第に冷たくなっていくのを確かに肌に感じながら、私は赤い泉の中へと深く墜ちていったのだ。