予兆 01


 風に混じり込んだ微かな異臭が、つんと鼻奥をついて、彼女を無意識下から揺り起した。
 けだるい身体を起こしてみれば、敷布についた手すら見通せない暗がりが未だ部屋中に満ちている。恐らく眠りについてからそれほど時間もたっていないだろう。
 しばらくして現実に馴染み出した聴覚が、階下を慌ただしく駆けずり回る足音を聞きつけた。常時の下卑た嘲笑に反して、時折、怒声や狂気じみた悲鳴まで混じる。
 その原因を窓の外に見てとった女は軽く目を瞠った。
 格子状に板で遮られた視界の先、地平線近くの遥か眼下で、都が燃えている。いつ火が放たれたのか、水濠を張り巡らせた上に立つ城以外は、既に朱炎に飲み込まれていた。遠くから見ても順序よく並んでいた土壁の住居群は一向に見いだせない。その中で、辛うじて火を避け続けている城だけが、夜陰に浮き上がっていた。
 もうもうと吐き出される白煙は、傍から見れば空を覆い尽くす雲と何ら変わりなく思える。事実、雲に吸い込まれた煙は、どこからがそうなのか見分けがつかない。風が孕んだ焦げ臭さだけが、煙の存在を知らしめた。
「なんて美しい」
 彼方の景色を眺める女は、窓に寄り添って目をとろかせた。見渡す限りに広がった朱炎は、飾り気のない原野に限りない色彩を放つ。海、と彼女は口元に笑みを刷いた。
 逃げ出した砦の住人が戻って来ることはまずないだろう。国に見捨てられて久しいここは金目のものが何一つ残されていない。この場が静まり返るのも、時間の問題。
 かつて住んでいた都の凋落を眺めながら、女は左脚の傷を指の腹でさすった。これからは静かに眠れる。薄い敷布に身を委ねれば、右の足首に絡まりついた鎖が石床にすれて音を立てた。階下がせわしないせいか、こそこそと床を這いまわるネズミも今はじっと身を潜めている。
 口をついたあくびに従ってほとんど毛の残っていない毛布を引き寄せた彼女は、やがて寝息を立てながら、うずくまって眠りについたのだ。



 東のレダギルグ、西のセイディルア、南の峡寧、北のフフラーラ。現在、大陸をほぼ四分するまでとなった強大国の名を知らぬ者はいない。
 およそ八十年前に端を発したせめぎ合いは元を辿れば小国同士、異民族同士の衝突であった。偶然にも複数重なった時期は、後に各地で争いを誘発し、数知れぬ混乱を巻き起こしながら、徐々にその範囲を拡大する。
 大国へとのしあがった小国もあれば、領土を削りとられて摩耗し終ぞ国の形を保てなくなった大国もある。ここ八十年で、地図がかきかえられぬ日は一日とてなかった。
 絶えず上がり続ける戦火に、土地は疲弊し、西の一部は砂漠と化した。東の河は赤いと言う。
 辛うじて他国の干渉を逃れ国土を保った国もいつ融合されぬやも知れぬ状況に肩肘を強張らせ、隙あらば自国がなりかわらんと大国を狙う者も少なくはない。事実、東のレダギルグは、五年前、前身であったキルクカスを転覆し、見向きもされなかった属国から大国の地位へと目を瞠る速さで駆けのぼった。
 故に、レダギルグとセイディルアの中央に位置する一国家――ルガーダが滅亡するのは時間の問題だったのである。西と東。互いに大陸の両端からその勢力範囲を伸ばしていた彼らの手はほぼ大陸中央部まで届いていた。後は西に取られるか、東に取られるかだけで、遅かれ早かれルガーダが対方面への足がかりの拠点となるのは、誰の目にも明らかだった。目ざとい貴族や商人たちは、いち早く両国に取り入り、自国の情報と武器を流すことで、身の安全を取り付けていた。
 今回、大した混戦もなく、ルガーダが西の手に落ちたのは、ちょうど東の目が北方の境界線に向いていただけである。西は進んでも砂漠ばかり。ならば未開の地が多いと言えど、資源豊かな北部を先に手にする方が東にしてみれば、魅力的だったのだろう。そのおかげか数カ国が一国の領土を取り合うという状態には幸いにも落ち入らなかった。
 少なくとも城都が落とされたばかりの今、単純に考えれば次に襲撃されるであろう砦内部は既に人々が離散し、実に静かなものだった。もっともいつ襲撃されるやもしれなかった東との国境線に位置する砦周辺には、荒れた原野が広がるばかりで、居を置くのは草虫を食まねば生きられぬ弱者ばかり。わざわざ数を揃えた軍で押し寄せずとも、歩兵一人でいつだって楽に落とせただろう。
 だから城都での滞在もそこそこに、陥落の明夕には現れた西の軍勢は意外と言えば意外であった。


 荒れた地表に点在する草群。こんもりと茂った草影から、草と同じ深緑の目をぎょろりと動かした男は、見慣れぬ風貌の騎馬列をじっと伺っていた。汚れた襤褸からは、浮いたあばらが覗く。
 先行する年若の青年が嫌悪も露わに顔をしかめる。馬上から王がそちらへ目を向けると、男は地に手をついて、そそくさと逃げだした。その姿は、まるで獣と言って差し支えない。他にも男と似たような緑目があちこちで興味深げにこちらを覗き見ていることに、王は気付いていた。
 普段感情をもたげぬ虚ろな目が、その瞬間だけは興味に見開かれる奇妙さ。そういった眼差しにさらされることに慣れきっている王は、知りつつもそれらをないものとして黙殺する。
 見上げた物見の塔は高く、国境沿いに建つ石造りの砦は堅固そのもの。だが、狼煙を上げるどころか、領有を意味する国旗まで砦の住人自らへし折ったらしいその場には、人の気配が一切なかった。
 灰青の双眸をすがめた王の下瞼には窪んだ皺が走る。
 鬱陶しいな、と零した王は、馬から降りると、砦を取り囲み天幕を張り出した兵らを横目に通り抜けた。先を行く側近に促されるままに砦内部へ足を踏み入れれば、土砂を被った石床が硬く踵に打ち当たる。薄暗い石廊の外では、早くも掻き鳴らされ始めた弦や笛が賑やかな騒がしさを盛りたてていた。


 ひどく曲がった木扉は、石床を削って押し開かれた。
「なんだまだ人がいたのか」
 乾いた声はそっけなく、窓枠に片肘をついて砦下の様子を眺めていた女に向けられた。部屋に侵入してきた輩に目を配した女は、無造作な黒髪を撫でつかせ、嘲弄めいた笑いを漏らす。
「いるも何も。知っていたから祝杯もあげずにわざわざここまで来たんだろう? じゃなきゃ何百もある階段を登って来る奴なんて、ただの気違いとしか思えないよ」
「違いない」
 抑揚のない声で請け負った王は、唯一連れてきた側近に目を配せ、彼が手にしていた斧を取った。日の入らないこの部屋では、刃の鋭さは鈍って見える。だが、砕くにはちょうどよい重みであろう。斧の柄を二三手で握り確かめながら、彼は言った。
「ルガーダの東の砦はレダギルグを睨む為の塔ではなく、先代の娘を監視する為の塔だと西の端まで届いていた」
「なら、あんたは西の王だったの。へぇ」
 そんな色は初めて見たよ、と女は緑の双眸を綻ばせて、自分とは違う灰青の瞳を持つ王をとくと眺めた。王の頭を覆う布から覗く髪は元は茶色だろうが、色素の薄さは多く入り混じった白髪から来るものらしい。目の下を辿る線は、口元の皺よりも老熟した年月の深さを思わせ、男の水に似た眼光を際立たせていた。西の覇者と言われれば、なるほどそうかもしれないと思わせるだけの風格がそこにはあった。
 もっとも歳の風合いだけは、王の後ろに控えている男も彼と等しい。ただこちらは口髭が薄い唇を覆い隠し、もう少し底の見えない柔和な顔をしていた。
 そう、と女は呟く。「そう」と彼女は頷いた。
「こういう時は、礼のひとつでもとった方がいいのかな」
 じゃらり、と足首に巻きつけた鎖を引きずって、彼女は王の手前に歩み出た。「残念ながら」と彼女は億劫そうに朗笑し、今更ながら異国の王に膝をつく。
「捨て置かれていたせいか、そういった教育はあまり受けていない」
 垂れた黒髪が汚れきった石床を擦る。差し出されたこうべはあまりにも遠慮がなく、彼女が口にした通り儀礼も何もない。
 黒髪に反して浮き上がった白いうなじ。彼は剣呑に目を眇めた。
 振り上げた斧を石床に打つ。
 ガキン、と鳴り響いた斧は、錆きった鎖をいとも簡単に立ち切った。
「じゃあ、バニ。お前は、さっさと戻れ」
 呆けた顔をしている女の前で、王は用なしとなった斧を側近に押しつけ、彼は彼で受け取った斧を王に押し返そうとする。
「いやいや、危ないし。危ないだろ。うん、危ないって。仮にも王だし」
「お前、いい加減にしろよ? カイルでも見張っとけ。ここまで来られたら、あいつなら吐きかねん」
「いや、そうだけどさ」
「分かったら、行け。お前が一杯目を飲み干すまでには降りる」
 王は今度こそ側近を外に追い払うと、容赦なく扉を閉めた。気負うことなく王とやりあっていた男は、しばらく扉の外に立っていたようだったが、それもまもなく足音と共に遠ざかっていく。
「殺されるかと思った」
 鎖に繋がれていた先代の姫は、零れんばかりの緑目を一心に開いて王を見上げた。
 一人部屋の内に残った王は、彼女を見やって、面倒くさげに肩を竦める。
「根が純粋過ぎて融通の効かない頑固者がいてな。ちょっとお前に用がある」
「何」
「後継をつくれと怒られた。早く終わらせないと酒も飲ませてくれない」
 じっと黙りこむ女の前に、彼は平然とした素振りで腰を下ろす。
 やがて口を開いた女は、変わったものを見る目で、近くの男に問い掛けた。
「その歳で、後継の一人もいないの? 女の数だけ子もいたでしょうに」
「いたが、今は一人もいない」
「どうせ全員殺したんでしょう」
「まぁ、そうとも言うな」
「ねぇ、確かな後継も置いとけないようなそんな国、近いうちに滅びるわ」
 挑むような口調で、女は王に断言する。
 くつり、と王はおかしそうに笑った。「望むところだ」と彼は女の骨に等しい脚を引き掴む。繋がる鎖のなくなった足首には鉄枷と千切れた鎖の残骸が取り残されていた。脚と一緒に石床を引きずられた女は数瞬眉根を寄せる。王は鉄環に指をかけて持ち上げると「鍵は」と尋ねた。
 不自然に床を離れた脚先を見つめながら、女は首を横に振る。
「大方、誰かが腰に付けたまま忘れて持ってったんじゃないかな」
「なら、まぁ、いいか。そのうちひとりでに壊れるだろ」
 ルガーダの血が必要でな、と言う王の言葉に、若い娘は首を傾げた。
「城に従妹がいなかった?」
「あれは、さすがに幼すぎだ。大体肥え太ったネズミは趣味じゃない」
「年老いたヘビがよく言う」
「痩せ細ったネズミがよく喋ることだ。まぁ、面倒になったら勝手に死んでおけ。他のを探す」
「いいね。わたしにしてみれば所有者が変わっただけだ。今度は、しっかり養っておくれ」
 王と向き合った女は笑みを深めた。
 あんまり透明だと溶けてなくなっちゃいそう、と彼女は誘うように王の灰青目に自ら口を寄せる。
 すん、と鼻を動かした王は「水も気まぐれにしか与えられなかったか」と半ば渋面を作りかける。けれども組み敷いた女は、好奇心に濃い緑の目を煌めかせながら口を開いた。まるで外にいた連中とどこも変わらぬ双眸で、だが表情だけは機知を覗かせ豊かに問う。
「ねぇ、名前を教えてくれない? あんたは嫌いじゃないけれど、わたしは王が嫌いなんだ。できれば口にもしたくない」
「エイディルダブラカーリア」
「――エイディルダブラカーリア」
 舌の上で転がして、「それって本当なの?」と女は聞いた。
「長たらしいだけの億劫な名前」
 ねぇ、と女は間近にある顔に向かって問いかける。
「わたしの名前は、どうせ知ってて来たんだろう?」
「あぁ、シィシア」
 皺を刻んで答えた王に、シィシアは腹をよじって、くっくと喉を引きつらせた。