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予兆 02


 楽に合わせて踊る妓女は鈴に連なる布を舞わせた。夕焼けを滑る薄布に小麦の肌が透け艶を増す。
 炊事の担い手が慌ただしく走り回る先では、芸人の男が高らかに英雄譚を歌いあげた。広間の中央に築かれた篝火は、夕日に劣らず燃え盛る。随所でかち鳴らされる杯と、陽気に反響する笑声。何もかも吹き飛ばす宴の勢いは顔ぶれに違いはあれど昔と変わらない。
 喧騒から一人身を置いたレンダバーニは砦の石壁に凭れて座した。乳酒と共に貰って来た鳥の腿肉に歯を立てる。続いて仰ごうとした杯が、上から伸びてきた手に奪われ、彼は髭下の唇を思い切り曲げた。
「うーわ。ホントに降りてきやがった。五十も半ばを過ぎた男が最悪ったらないな」
「お前のがより劣悪だろうが」
 エイディルダブラカーリアは、杯を傾け、酒を干す。恨みがましく王を睨んだ老年の男は、手元の肉にかぶりついた。
「確かにあの匂いは劣悪にも程があったか」
「せめて自分でくらい否定しておけよ」
「自分で擁護するまでもない」
 味付けされた肉をあらかた食い潰した男は、掴んだ骨を杖のように振り、「例えばさ」と片側に立つ友人を仰ぎ見る。ちらと骨に相手の目が落ちたのを見てとって、レンダバーニは宴とはかけ離れた草むらに向かって骨を放った。
 同時に、茂る草から飛び出してきた数人の乞食がほとんど肉の残っていない食べかすに群がる。
「あいつらとあの姫どちらがまともな暮らししてんだろうな、くらいは思ったけど」
「それは俺らも似たり寄ったりだろ」
 達観を装い鼻白んだ友を前に、レンダバーニは笑いながら「違いない」と同意する。
「変わらないさ、いつまでも。ディルダ、これは俺らが始めたことだ。明朝には発つ。先に戻ってネヴィアとこっちの城の掃除くらいはしておくよ」
 膝に手をつき立ち上がった男は、年齢に似合わず軽々しく歩く。ひらひらと手を振り、背を向けた男に入れ替わり、向こうから駆けてきたのは精気に溢れた青年だった。
族長(カーリア)
 エイディルダブラカーリアは、呼びかけに口の端を持ち上げる。
「こんなところにいたんですか」と嬉々として口を開くカヒルガイに、彼は「まぁな」と頷いた。
「カイルも今回はよく働いてくれた」
 彼が褒めれば、まだ線が細く、幼少時の面影を色濃く残したカヒルガイは、てらいもなく破顔する。六つの頃から使い走りとして彼に仕えてきた青年の頭を掻き撫ぜると、巻き布からはみ出た黄土の髪が篝火に照らされ輝いた。前だけを見ていられる若々しさは羨ましくもあり、どこか歯がゆいほろ苦さを彼に喚起する。
 カヒルガイは誇らしさに上気した顔をごまかすように、主君が手にしている杯の中身を覗きこんだ。
「なんだ、族長(カーリア)。ちっとも酒が入ってないじゃないですか。それに料理も。あっちにはたくさん用意されてるってのに。大体ここは気味が悪いですよ。あいつらこっちばかり覗き見てるし」
 年若の青年は、ここに着いた時と同じ嫌悪を以って外側の草むらをたむろする人間を睨みつける。
「もっと中に行きましょうよ。みんな王を待っている」
 いや、とエイディルダブラカーリアは、空の杯を振った。
「やめておこう。あれだけ盛り上がってる奴らに割って入って、わざわざ水を差すのもなんだ。第一、手当たりしだい渡される食い物と酒が全部腹に入りそうなほど腹は減ってないんでな」
 つまるところ、いつもの通り騒ぎが収まるまで身を潜めておくつもりだ、と言う王に、カヒルガイは笑う。
「ルガーダの隠し姫には会いました?」
「会ったぞ。本当にここらの色は濃い」
「歌の通り美しかったですか?」
「さぁ」
 嘯く彼は、興味津々に尋ねる青年が、引き出された女を目にすれば間違いなく示すだろう反応ぷりを想像して、一人愉快気に口を歪める。
「明日、お前が見て確かめるといい」
 言い残して、彼は赤茶の髪の妓女を呼び招いた。随分と前から、ちらちらと視線を寄こしていた女はすぐさま王の仕草に気付き、笑みを咲き綻ばせる。
「お呼びですか、王様?」
 たっぷりと余分にとられた布地をゆるやかに纏う小麦色の豊艶な身体。対して、まろみを帯びた胸元はあけすけなく開かれているせいか、肩から服が滑り落ちかけていた。髪を左耳の後ろで纏め、垂らすという流れの妓女独特の結い方。くせの強い赤茶の髪は、くすぐるように鎖骨の辺りで飛び跳ねている。
 遠征の途中から、軍が落とす金を目当てに加わった技芸団の者たちがそうであるように、元は砂地の多い辺境の出であるこの妓女も彼らと同じ橙色の瞳に色めいた艶を含ませて、王の前にかしずいた。瞼から眦にかけてするりと刷かれた黄緑の色が、焼けた肌に際立つ。ふっくらと厚みのある唇で、女は控えめに笑みを形づくった。
 自分の魅せ方をよく分かっている。隣でカヒルガイが黙り込んでいるのがよい証拠であろう。エイディルダブラカーリアは、硬直している青年を横目に、口を開いた。
「上に女がいるから、そいつを洗ってこい」
 妓女は王の意味するところが汲み取れなかったのか、虚を突かれた顔をする。その実、彼女の手だけは、王が懐から取り出した皮袋と紅玉を素直に受け取っていた。
「水は好きなだけ使うといい」
「――御心のままに」
 手を振ってあしらう王を前に、妓女は片手に余る宝玉を両手で包み込む。うやうやしく辞儀をしながら、妖艶な視線を忘れずに王の側近の青年へ投げかけた女は、貰い受けた報酬を手に意気揚々と踵を返した。


 水を張った桶を手に、ようやく階上まで辿りついたクニャは、不自然に開かれたままになっていた扉の前に立って唖然とした。
「何これ!」
 部屋奥の窓から吹き付ける風に伴って流れ出てきた悪臭に女は袖で鼻を覆う。思わず背けた途端、せり上がってきた胃液をクニャは唾液と共に無理矢理飲み下した。舌に残った酸の味に彼女は渋い顔になる。
 日没とは逆に位置する部屋。翳りだす空につられて、室内は確実に暗さを増していった。片隅でカサカサと這いまわる小動物の目だけが微かな明かりを捉えて光る。
 正直、足を踏み入れるのさえ戸惑う部屋の中程に打ち捨てられていた人影。それこそが話に聞いた女だと理解したクニャは、紅玉の分を差し引いても王の依頼を引き受けたことを後悔した。
 ある程度予想していた情交の余臭よりも、辺り一帯を占める腐臭の方がはるかにきつい。もっともその根源が何であるのかを確かめる気は、彼女にはさらさらなかった。
 これなら肥溜に住んだ方がいくらかマシに違いない。手にしている水を部屋中にぶちまけて洗い流したい気分にかられながら、クニャは意識がないらしい女の元に近寄った。間違っても服が床にこすれぬよう裾を充分にたくしあげてから腰を下ろす。
 硬く目を閉じたままの女を見下ろして、クニャはうんざりと溜息をついた。
 国の外れの砦の塔。階上にいるのは、王が疎んだ隠し姫。
 不自由なく暮らすはずだった前王の愛娘。
 美しい横顔は流れる雲をも虜にし、一昼夜その場に留まらせるほど。
 艶やかな黒髪に触れてみたくて、天は雨を降らすと言う。
 何よりも瞳。鮮やかな深緑を輝かすために、太陽はさんさんと降り注ぐ。
 美貌で知られる隠し姫の歌を得意とするのは、クニャの仲間の一人だ。
 歴史だけはあるルガーダにおいて本来最も正当な血を引いているはずの姫。処刑されるでもなく、辛うじて幽閉されるに留められた姫が、正に歌そのものであると夢見ていたほど、クニャは非現実的ではない。
 それでも清らかな歌に反する現実の姿に、歌の通り「姫」と暢気に呼ぶのは憚られた。さんざん迷ったあげく、クニャは「お嬢ちゃん」と呼びかける。
 汚れた石床に横たわるのは、枯れ枝によく似た女。骨に皮がしがみついているばかりの痩せ切った身体を襤褸の薄服が心許なく取り巻いている。闇に沈み込み始めた黒髪は至る所に埃を絡めていた。仄暗さに浮かびあがる白肌にも随所に垢がこびりつく。捲り上がった裾のまま晒されていた脚の付け根からは血が筋を辿った。左脚の引き攣れた傷跡が目につく。対の足に絡む枷は、足首をすって赤い円環をつくっていた。
「起きなさいな、お嬢ちゃん」
 クニャは手の甲で、頬骨の浮く娘のこけた顔をさする。血の気のない顔は、皮一枚隔てた下に微かに温みを帯びていた。だが一向に返らぬ反応に、彼女は苦味を落とすと、持ってきていた布を大人しく水に浸す。
 早く拭きあげてしまわないと星が出てしまう。クニャは固く絞った布で娘の細い腕をこすりだした。
 ぼろぼろと剥がれ落ちていく垢。こすればこするほど際限なく出てくる汚れにクニャはとうとう布を投げた。
「――あんのっ、くそオヤジ!」
 誰もいないことを幸いに王に悪態をついた妓女は、驚くほど軽い女の身体を背負いあげる。娘の身体が放つ悪臭が気にならないでもなかったが、夜中ここに閉じ込められる方がおぞましい。
 好きなだけ水を使えと言われたわけだ。布で拭うくらいで落ちる汚れではない。
「こうなったら井戸の水、一滴残らず使ってやるんだからっ!」
 娘を背負ったクニャは、汚水まみれとなった桶を蹴飛ばすと、憤然とした足取りで地上に続く階段に向かった。