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至福の月


「おや、月見酒ですか?」

 倶堆(ぐて)は、縁でひとり座り込んでいる成尊(せいそん)を見つけて、声をかけた。
 老獪な武人。だが、猪口を手に胡坐を掻いている彼の姿は、初めに引き合わされた頃よりも、随分と小さく丸くなってしまった気がする。
 首だけを巡らせた成尊は緩慢な所作で、徳利を上げてみせた。
「おぅ、倶堆か」
「――お付き合いたしましょうか。年寄りがひとり孤独に酒を飲んだ上、酔っ払ったままうっかり寝こけて、翌朝身体が冷たくなっていた、なんてことになったら、目覚めが悪いですからね」
 はっ、と老武士は、倶堆の言葉を一笑に付す。
「お前は素直にお随伴に与かりたいとは、言えんのか」
 そのまま残っていた酒をぐいと煽った成尊は、自ら徳利を傾け次の酒を注ぎ入れた後、ついでのように倶堆へと徳利を突き出した。
 倶堆は、肩で溜息をつく。五本並ぶ徳利のうち、既に空いている徳利は二本。
 ひとり庭先を眺めやる成尊は、口を開かなければ寂寥を背負うばかりのじじいにしか見えないのだが。
「お供させていただきましょう」
 倶堆は、最早ほとんど重さを感じない徳利を、成尊の手から譲り受けた。
 と言っても、二人がとりたてて何か言葉を交わすことはなかった。
 ただ時折、思い出したように酒を酌み交わしながら、ちびちびと酒を舐め続ける。
 谷津牙(やつが)の酒は、故郷のものよりも、いささか辛味を帯びていた。
 きりきりと弓を引き絞ったかの如き白い月の静寂さに、遠い潮騒が共鳴する。
 とうとうこの日が来てしまったなぁ、と成尊はおもむろに漏らした。
「まさか、よその男にやる日がこんなに早く来るとは」
 倶堆は呆れて苦笑する。成尊が紅華(くれはな)のことを言っているのは明白だった。
 元より、彼らが郷国の茂久那(もくな)を離れ、谷津牙に来たのは、茂久那の姫、紅華と谷津牙城主、嘉隈(かぐま)の間に結ばれた婚姻の為であろうに。
「どこの親父ですか。そもそもあなたは紅華様の父でも祖父でもないでしょうに」
「儂らは皆、似たようなものだろ。紅華様が生まれた日のことをはっきりと覚えておる。立ち上がった日のことも、口をききなさった日のことも。駆けて転んで笑って泣いて、それがいつの間にやら、あのように大層ご立派になったことか」
 成尊は、ちびりと酒を含む。浮き出た喉が、上から下へと動いた。
「……申し訳ないのですが、俺は自分のことに手いっぱいで紅華様のことまで一つ一つはっきりとは覚えていませんよ。特に前半は、あなたと違って若いので」
 あぁ、でも、と倶堆は口の中で、酒の辛味を転がした。
「俺にしてみても、灘(なだ)と実己(みこ)は、息子のようなものですかねぇ」
「そんなに離れてないだろうが。せめて兄じゃないのか、お前」
「ですが、あいつらのことは一から見てきましたし。それこそ転んだり、暴れたり、喧嘩ごときで死にかけたりしている様を。本当に、今じゃ何と落ち着いたことか」
 くくくっ、と倶堆は徳利を片手に、忍び笑う。
 成尊は、目を眇めた。
「なんじゃ、倶堆。酔っておるのか」
「まさか。俺には子というものがいないから、あてはまるとしたらあいつらしかいなかっただけですよ。まぁ、あいつらにとっての父は、同仁(どうじん)の方でしょうが」
「……だから、早く後妻をとれと言ったろうが。織(おり)はそう長くはないとくれてやる前から分かっておったんだ。あれのことは気にせずともよい、と。子はさっさとなしておくに限るわ」
 苦々しげに言葉を連ねる成尊の横顔には、常時の明朗さが欠ける。
 倶堆は、それを眺めながら「違いますよ」と嘯いた。白き光の月を仰ぐ。
「子ができなかったのは俺に子種がなかったからで、ならば今更迎えたとて相手方に辛い思いをさせるばっかりでしょう。それよりは、ひとり身の方が楽でよいではないですか。義母上にあなたの死に目に立ち会うようよろしく言われてしまいましたし、ここに来るにはひとりでちょうどよかったではないですか」
 倶堆は最後の一滴を、飲み干して、ふっと口を綻ばせる。
「うーわ。何、泣いてるんですか。そんなに紅華様のことが老身に堪えていたのですか」
「あほぅ。酒が、目に飛び込んできただけじゃ」
「弱いんなら、酒なんて飲まないでくださいよ」
「何を言うか。下戸は灘だけであろう」
「あぁ。あれは素が酔っているようなものですから」
 倶堆は相打って、成尊の猪口を取り上げた。底辺に残っていた酒を、彼は庭先に豪快に撒く。空の徳利ばかりが載る盆に成尊の猪口を加えて、倶堆は腰を浮かせた。
「これは俺が片しておきますから。あなたはぽっくりいかないうちに、さっさと床に入ってください」
 成尊は、目だけで倶手を咎め見る。だが結局、口に出すことは諦めたらしかった。膝に手を付き立ち上がる。
 さやさやと闇に月が揺れる、静かなだけの夜だった。