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四、入相の様を望む【2】


 ルグの木は、深緑の葉をわさわさと抱え持つ。土から盛り出た根は大蛇の如くうねる。辺りには小さなルグの実がころころと散らばっていた。焦げ茶の固い殻につつまれた楕円の木の実。炒れば香ばしく、炊けばほくほくとなる。秋も終わりというこの頃、周りの木々が皆、葉を落として裸となりゆく中で、充分に身をつめた実をたんと降らしてくれるありがたい木だ。
 実己は家のすぐ傍近く、庭にあるルグの根元に紅を見いだしたところで、ほうと胸を撫でおろした。両の足を抱え込み、小岩のようにうずくまっている。
 手にした刀を、実己は顧みた。家の隅に立てかけておいたのを引っ掴んで来たのだ。先の紅の様子から、近くとも河原へ行ってしまったのではないかと踏んでいた。さらに悪ければ、山の奥深くにまで行ってしまったのではないかと危ぶんでいたのだ。しかし、どうやら取り越し苦労であったらしい。
 けれども、どうしたことであろうか。紅の髪にあった筈の朱の紐は、少女の手の中に固く握りしめられていた。結わえられていたはずの黒髪は、はらりと流れ落ちて肩の上で、下で乱れていた。

「紅」

 実己が呼びやると、少女はびくりと肩を震わせた。それから、正確に実己の方へと顔を向ける。だが、次第に近づいてくる砂の流動音に気付いたのだろう。実己が歩を進める度、紅との間合いを縮めてゆく度に、少女は再び顔を俯かせた。
 紅の手前に辿り着いたところで、実己は先刻と同じ様に彼女の前にしゃがみ込み、長く息を吐いた。そうして、実己は紅に問いかける。
「なぁ、紅? さっきは悪かった。紅の言う通りだった。椅子も、他も元の場所に戻したから。みーんないつもの場所だ」
「…………」
「紅?」
 少女は、だんまりを決め込むことにしたらしい。名を呼ばれたことで、結んでいた口をさらにきゅっと引き延ばしたのだ。
 実己はふっと苦笑すると、小さな固い拳を難なく解いて、少女の掌の合間から朱紐を抜き取った。
「また、解けてしまったのか?」
「…………」
「紅?」
「…………」
 ふむ、と実己は紅の頭の頂点を眺めた。話しかけている内に段々と下げられていった紅の顔は、膝頭に押し付けられ、終に見えなくなってしまったのだ。何も聞かぬ、と耳には手まで当てている。そこで、実己は考えていた言葉を告げる為、「あのな」と塞がれた耳にも届くようにと、はっきりとした声で明るく切り出した。
「村の方に出かけてみようと思っているんだが」
「――村に?」
 ぱっと上げられた少女の顔に、実己は笑いそうになった。しかし、声は出さぬようにと堪える。よほど意外だったのか、ぽかんと開けられた口は、すぐに失態に気付いて、そそと閉じられ、再びきつく引き結ばれたのだ。ちょっとでも声を洩らしてしまえば、また耳を、顔を覆い隠して、うずくまってしまうに違いない。
 実己は「ああ」と頷いた。
「冬を越す為の塩がな、少しばかり足りないんだ」
 告げると、紅は惑うようにさらに上へと視線を宙に彷徨わせた。まるで何かを探しているかのように、彼女は動揺を口にする。
「……だけど、……だけど、母さんが言ってたよ? 塩はとても大切。春まで使うから大切にしなきゃいけない」
「だけどな、足りないんだ。このままだと、春までには底をつく」
「そう、なの……?」
「そう」
 実己は断じた。すると、紅はぎゅうと、己が衣の裾を握りしめて固まってしまった。
 彼女が知ることはないだろう。少女が握りしめているその衣は、薄く色が抜け落ちていることを。だから、紅の手の中には今でも色鮮やかな紅の衣が握りしめられているのだ。
 実己は紅の淀みのない黒を宿した髪を、骨ばった手櫛で梳き整えた。紅の手が、いくら己のものとは違い紅葉のような小ささとは言え、この先も握られたままでは衣に皺が寄ってしまうだろう。拳を溶き解そうとしているかの如く、実己は丁寧にゆったりと紅の髪を梳いていった。毎朝、行っている動作だ。当初と比べれば、随分と手慣れたものであった。今度は容易く抜けおちぬようにと、黒束に朱紐をきつく結わえておく。
「村に行ったらな、ついでに饅頭でも買って食べようか。今の時期なら、ちょうどトクルの実の粉を挽き終わった頃だろう」
 実己は石のつぶてほどあるトクルの実を思い浮かべる。この実は丹念に挽けば挽く程、甘みを増すのだ。その粉でつくった薄茶の饅頭はほんのりと口中に風味を広げる、ふんわりとした代物である。
「紅は食べたことがあるか?」
「ない、けど」
「なら、きっと気に入る。紅は甘いのが好きだからな」
「いい、いらない」
 紅はふるりと首を振った。
「甘いの、いい。私、チイコがあるもん」
「だが、あれはまだ甘くならないと言ったろう。それに、あれは保存用だ。しばらくは食べられない」
 もしもの時分の為につくり置いているものなのだ。それに食用ばかりという訳でもない。わざわざ酒をつくっているのは、もしもの時――傷を負ってしまった時に傷口を洗う為でもあったからだ。
「紅? チイコよりも饅頭の方がきっとおいしいぞ?」
「――でも、だって、私は行けない……!」
 それ以上は握りようがないというのに、紅は裾を巻き入れた拳へさらに力を込めた。
 どうやら紅は単に拗ねているばかりではなかったらしい、とようやく実己が気付いたのはこの言葉によってだった。
 紅は重ねて言う。
「村に行ってはいけないと言われた」
 誰に、とは問うまでもないだろう。少女には母しかいなかったのだ。
 それ故に、実己は口を噤んだ。
「村に行ったら、固いもの……岩にいっぱいぶつかった」
「――岩に?」
「そう、痛いの。突然固いのに当たるの。さっきまでなかったのに、そこに固いのがあって、当たったらすぐに消えて、足元に転がるの。固いもの――岩が当たって、石になる」
 少女は喚くわけでもなく、淡々と事実を語った。
 彼女の話しぶりから、それらは故意にぶつけられたものだろうと容易に想像がついた。岩がそう易々と飛んでくるはずがない。それならば飛んで来たのは石であろう。どうやら紅は思い違いをしたまま、石と岩を覚えてしまったらしい。足元に転がっているのが石、それ以外は岩であると。だが、実己は紅の間違いを正すことはしなかった。代わりに、紅の頭をあやすように撫ぜた。
「そうか、なら、村に行くのはやめにしよう」
「だけど、塩が足りないんでしょう? だから、私はいけないけれど、実己は村へ行かなきゃいけない」
 塩はとても大切、と尻つぼみになった言葉は、少女が己を納得させる為に口にした呪詛のようであった。
「実己は村に行ってこないと」
「――紅がそう言うなら、……」
 どうしようかと躊躇ったところで、己の言が裏目に出てしまったことを実己は知った。『塩が大切』だと繰り返す紅に今更『塩は必要ない』と言ったって、聞き入れてはくれないだろう。多分に心配ではあるが、ここに紅を一人残して、村へ塩を買いに行くしか法はなさそうだ。
 そう考え至った実己は、己が両膝に手をついて立ち上がる。それに合わせて、少女の顔も高く冷気を含んだ空へと向けられた。
「行ってしまうの? 実己はここから行っちゃうの?」
 嫌だ、と彼女は両手を前へと突き出した。探し回って、幾分も離れていないところにあった他者の衣を小さく握り込む。
「実己、行くの嫌だ」
 引きとめられた実己は、呆気にとられながらも、もう一度、紅の元へしゃがみ込んだ。ぎゅっと裾を掴んでは一向に離す様子のない紅の顔を彼は覗き込んだ。
「紅?」
「……紅、……は、実己が行くのが嫌だ」
 伸ばされた頼りない手は、そのまま彼の肩へと確かめるように一度触れ、それから首へと縋りついた。不安を顕著に滲ませて、少女はぎゅうと実己の首にしがみついた。
「実己は、行かないで」
「それならば、行かない」
「駄目。駄目なの。実己は村へ行かなければいけない。絶対に行かなければならない」
 一体どうすればいいと言うのか。行くと言えば行くなと言い、行かぬと言えば行けと言う。
 実己は、必死にしがみついてくる紅の背を諭し撫ぜ、もう一方の手に持っていた刀の紋を指の腹でなぞりいった。
 最早使い物にはならぬであろう刀身を、それでも覆い隠そうとする鞘には二家の紋が彫られてある。紋に彩りを添えていた金箔など疾うに剥げ落ちてしまったが、彫りの深みだけはそう簡単に消えはしない。長い飾り尾を持った一羽の鳥と雲の合間から姿を表した月は、今なお鞘に宿り続けていた。
 長尾の鳥に、雲居の月、と呼ばれる家紋。郷国である茂久那(もくな)と、紅華(くれはな)の嫁国であった谷津牙(やつが)のものだ。谷津牙への輿入れの際に、茂久那でこさえられし友好を模す刀は、合わせて六振りのはずだった。だが、その内の五振りは墓碑とすることも叶わず地中に埋まっている。再び行き交うどころか、陽の目を見ることすらもうありはしないだろう。残されし一振りにも、今となっては取り持つべき国がない。ならば、「実己」と彼の名を呼んだのは誰であったのだろうか。
 実己は「紅」と彼女の名を口にして、まみえた茶の光に目を眇める。
「これは、俺が手放してはならぬものだから」
 そう言って、彼は少女の手にこの世でたった一振りとなった刀を握らせた。
「きっと、すぐに戻る。塩と、それから饅頭を買ってから」
「な?」と問う実己に対して、紅は何も答えなかった。少女は何かを言いかけて、けれど、言葉を発することが出来ずに、結局口を閉ざしてしまった。それでも、彼女は身に似つかわぬ刀をぎゅっと両の手で握り締めて抱え持つ。
 それを認めた上でこそ、実己は木々に囲まれたこの庭を、束の間だけ空けることにしたのだ。