四、入相の様を望む【6】


 炎ごと城は崩れ落ちた。
 眼下に見える城は遠く、怒号もここまで届きはしない。
 ただ、城の一角であったものがこそげ落ちたのは分かった。
 恐ろしいほど呆気ない敗北。それも、ここからでは篝火の勢いにすら満たない。
 案内役を頼りに、夜陰を縫い木立に紛れて峠を登っていた誰もが口を閉ざした。
 身を乗り出した紅華くれはなの衝動を、しなが抱きとめ、支え持つ。縋りつく主に、科は静かに首を振った。
「行きましょう、紅華様。先に伍牟いつむの里に逃れておくよう、仰せがあったではございませぬか。城をなくそうと、嘉隈かぐま様はきっとそこまで辿りついてくださります」
 急ぎましょう、と案内役が先をせかす。
 こうなってしまえば、後はいくら攻防しようと、敵軍の足止めも、もう半刻も持たぬことは、誰の目にも明らかだった。
「……追っ手は」
 案内役は周囲に目を走らせながら問う。「大丈夫だ」と頭である同仁どうじんが請け負った。
 安堵の息を潜めた案内役は生い茂る枝葉を掻き分けた。固い岩肌に囲まれた道。ぽっかりと開けた洞穴を、彼は指差す。
「壁伝いに、ここを真っ直ぐ下れば、件のうまやはすぐです。今ならば、追っ手がかかる前に、随分と距離が開けるでしょう。運さえあれば、逃げたことにも気付かれぬやもしれませぬ」
 行ってください、と案内役は、一同を中へ促す。
「紅華様、どうかご無事で」
 手短な別れ。背後の入口は、再び深い草木に閉ざされた。

 一人、また一人。時には、二人、三人と、日を重ねるごとに十余人いた供の数は減った。
 案内役の祈りもむなしく、追っ手はすぐに彼らの痕跡を見つけてしまったらしい。
 谷津牙やつがを発ってすぐ、三日後には現れた敵の姿に、実己は舌打ちをせずにはいられなかった。
 十五日を過ぎた頃には、残った者は紅華の他わずか五人になっていた。
「実己さん」
 最後尾についていた実己は、すぐ前を行く浮和ふわが馬首を返したのに気付き、手綱を引いた。
 疲労ばかりが映る落ちくぼんだ目。いつも隠しきれぬ若さを身から滲ませていた浮和の溌剌とした面影は、どこにも見出すことができない。
 どうした、と問いかけた実己に、浮和は俯いて手綱を握る手に力を込めた。
「俺、二人を迎えに行ってきます」
「馬鹿を言うな」
「だけど」
「もう死んでる」
 しっかりしろ、と実己は浮和の肩を叩いた。そうして彼は、後輩の馬の首を押しやり、無理に馬の鼻先を元来た方へ変える。
「もう二日も経つ。成尊せいそん倶堆ぐてだぞ。俺らよりよほど腕が立つ。分かっているだろう。無事ならばとっくに戻っているはず。生き残るだけの技量がなかったんだ、二人には」
「実己さんっ!」
 浮和は、非難もあらわに実己を睨んだ。実己は静かにそれを受け止める。
「そう説いて行ったんだ、俱堆が。だから、先に行けと。迷いを捨てろ。じゃなきゃ、死ぬぞ。何の為に、二人があの場に残った」
 浮和は黙り込む。実己は己の馬を歩ませると同時に、浮和の馬の手綱を取った。こうも足場が悪いと駆けてゆくこともできない。馬が歩を踏む度に鳴る鎧は、存在を主張する分、重みとして肩にのしかかった。
「馬鹿みたいに、生きることだけ考えていればいい。これを越えた先に何をしたいか、考える時間は山とある。お前は、それだけを考えろ。死ぬな。絶対に生きろ」

 一振りの刀が地に打ち立てられる。
 同仁は無言で竹筒を傾けると、折れたその刀に清めの水をかけた。さやさやと木漏れ日を反射しながら、伝い流れる清水。だが、柄に凝り固まった泥と血が、落ちることはなかった。
 紅華は刀の前に膝をつき、はらはらと涙を零す。
「浮和。優しくて、よい子でしたのに」
 手を合わせたか細い肩は、小刻みに震えていた。
 科が、紅華の肩を抱えて立たせる。紅華は、侍女の胸に顔を埋めてすすり泣き続けた。
 代わりに屈みこんだなだが、腰刀で土を掘る。彼は同仁から引き抜いた浮和の刀を受け取ると、亡骸の代わりに刀を埋めた。固くならした地が他とは、見分けがつかぬよう、実己は集めていた腐葉の土を上から撒いて被せる。
 灘は、刀の埋まった場所を二度叩くと、手についた土を払って立ち上がった。

 月のない夜だった。
 連綿と広がる無数の星明かりが、墨を刷くように地上の輪郭をなぞり出す。
 晩夏ともなると、夜は随分と気温が落ち込む。しかし、暖を取るべく火を熾すわけにもいかないので、夜は木肌に身を寄せて眠った。こうすると、何もしないよりは幾分か温かい。
 木に背を付け眠る科は、紅華が夜露で凍えぬよう、己の上衣を彼女の背にかけた上で、上衣ごと紅華を抱きしめる。
 その夜、実己は隣で寝ていた灘が起き出す気配で目を覚ました。彼が、同仁と番を代わるにはまだいくらか早い。
 どうしたのか、と問いかけた実己に、灘は別段驚いたりはしなかった。「まぁ、起きるよな」と彼は苦笑する。
「なら、実己もちょっと来い。後でとやかく言われてもうるさいしな。同仁と一緒にお前にも話しておく」
 灘は闇の中を歩き出す。実己は訝しく思いながらも、彼の言葉に従った。

「――ふざけるなっ!」
 灘の提案を聞いた実己は、声を荒げた。押し黙った同仁は、顎に手をかけて眉根を深くする。
 灘は同僚の反応にひとしきり笑うと、呆気からんと言った。
「別にふざけてないだろう。次に追手が現れたら、俺が紅華様の振りをした科と躍り出る。その隙に、同仁と実己は紅華様を連れて逃げる。どこがおかしい」
「死ぬつもりか」
 言葉を噛み殺しながら、実己は吐き出した。「まぁ、そうなる確率は高いよなぁ」と灘はのんびりとした口調で答える。
「だけど、科は初めっから紅華様と同じ衣を着ている。その意味が分からないほど、頭が回らないわけじゃないだろう?」
「なら、俺が科の衣を借りて出る。二人が行くより、一人の方が損害は少ない」
「どこにそんなごつい女がいるんだよ」
 なおも食い下がる実己に、灘は呆れた顔で息をついた。
「あんなぁ。大体、供が一人も紅華様についていない方が逆に不自然だろ。即刻偽者だと露見して、時間稼ぎにもなりやしない」
 いいか、と灘は声を低めた。先とは一転、なおも煮え切らない実己を彼は睥睨する。
「科は紅華様の影だ。いつでも紅華様の代わりに差し出されるべき存在だ。見出されたのは、紅華様に最も姿形が似ていたから。だが、声音も立ち振る舞いも、見分けがつかぬほど紅華様に添わせたのは、科自身。そうやって育てられた。科だって心得てる。ここで使わなくてどこで使う」
「分かった」
 同仁は一言、断じた。
「次に、来たら行け。後のことは任せろ」
 灘は、深く頷いた。

 はるか彼方の木立に交って人影が立つ。
 ここ一月足らずで、目も耳も否応なしに鋭敏になった。
 斜面の下方の連なりが、見慣れた紺青の甲冑であることに気付き、彼らは紅華を促した。相手方は、まだこちらに気付いてはいない。雲に覆われた朝の光の脆弱さが、彼らにとって幸いした。
「――科」
 同仁と実己に連れ添われ、敵に気取られる前にと、身を隠すべく移動を開始した紅華は、いつも付かず離れず傍にいる侍女が立ち止まったことに動揺した。
「科、早く」
 山坂の途中に灘と並んで佇む科は、紅華を見上げ、かぶりを振る。
「わたくしには、少しばかり灘と果たさねばならぬことがございますので、どうぞ紅華様はお先に。すぐに追いつきますから」
 何を、と紅華は目を見開く。「ご心配なさりますな」と科は頬にゆるりと微笑を付した。
「これでも六刀。我が夫も少しは役に立ちましょう。役に立たぬ場合は、さっさと捨てて逃げますゆえ」
 ころころと笑って科は横目で灘を示す。灘は口に拳をあて、込み上げる笑いを必死に噛み殺していた。
「なれど」
「――同仁殿、紅華様をよろしく頼みます」
 同仁は、うむと首肯した。たたらを踏んでいる紅華を馬上に乗せ、自らも後方に跨ると、話を打ち切り、馬を走らせる。
 実己も同仁に続いて馬を駆った。

 馬はがくがくと足を震わせた。胴体から、汗が噴き出ている。
 同仁は、馬の首を叩いた。呼吸の荒さと乱れが目立つ。「限界だな」と彼はごちた。

 消耗しきっていたのだろう。紅華は地が足に届いた途端、意識を失った。
 程よい岩陰。実己と同仁は、久方ぶりに火を囲んだ。けれども、明々と朱色にはぜる薪を見ても、温まった気はしない。
 同仁は炙った馬の肉を喰らいながら、身を横たえて眠る紅華を痛ましげに見た。串刺しにした肉塊から汁が滴るたび、じゅっと火は音を立てる。
 実己は無心で肉にかぶりついた。味はない。だが、旨かった。
「勿体ないな」
 屠った馬は二頭。切り出したのはほんの一部で、ほぼ丸々肉が残っていた。
「紅華様は、食べられるだろうか」
 実己は問う。無理だろう、と同仁は紅華から、焚火へと目を移した。
「だが、食べさせねばならん。なんとしても食べさせねばならん。もう幾日もまともな食事をとっていない。次、いつ口にできるかも検討がつかん」
 同仁は、長く息を吐いた。白い靄が、煙に混ざって立ちあがる。
「今日だけは休める。今日だけは」
 あの二人なら、こちらが逃げるのに一日分の猶予は双日ふたひの軍勢からもぎ取ってくれただろう。運よく科を取り違えてくれれば、さらに十五日。双日への往復を考慮すれば、そのくらいは要する。だが、それでも双日は捜索の手を止めてはいないかもしれない。実際どうなったのか、ここからは予想しかできない。
「伍牟まであとどれほどかかる?」
「十日……いや、二十日、一月はかかるな。途中で馬を買うのは難しかろう」
 同仁は気難しい顔をして、ざらりと顎を手で擦る。
「あと一つ山を越えれば、残りは河に沿って下るだけだ」
 じゅっ、と肉汁が火で焦げた。
「しんどいな」
 同仁は棒きれで焚火を掻き混ぜる己が手を芒洋とした目つきで眺める。
 耳障りな静けさ。微音を立てて崩れた薪に彼は無言で粗朶木を加えた。

 弱々しく噛んだ肉を、紅華は飲み込む手前で喉にひっかけ、吐き出した。
 科、科、と彼女は繰り返す。同仁はまた、刃の背で叩き柔らかくした肉を手渡し、紅華が飲み込むのを辛抱強く待った。
 鎧は土深くに埋めた。歩くには、鎧は重すぎる。馬体は無理矢理岩かげに押し込んだ。これでいくらかましだろう。感づかれる前に、獣らが喰い尽くしてくれれば、何も憂うことはないのだが。
 行きましょう、と同仁は声をかける。紅華は座り込んだままそれを拒否した。目だけが異様に光る顔。「何故なにゆえ」と紅華は唇をわななかせた。
「何故、戻れと言ったのを聞かなかった。何故、科を置き去りにした」
「紅華様、行きましょう。行かねばなりませぬ」
 同仁は手を差し出した。紅華は、カッと頬を赤く染め、彼の手を打ち払う。
「行きたいのなら、そなたら二人で行けばよい。そなたらだけで行きなさい。私は、戻る」
 紅華様、と同仁は声を落として言った。
「科がなぜ来なかったかは、あなた様が一番お分かりでしょう。我らには、御父上からも嘉隈様からも托された役目があります」
「知らぬ。そのようなこと、頼んではおらぬ。私は、……私はっ! 一度も科を影などと――身代わりなどと思うたことはなかった! あのようなことさせとうはなかった!」
 見上げてくる目には、憎しみと憤りがまざまざと映っていた。実己の横で、同仁が顔を固くする。常の穏やかさと慈しみに満ちた紅華からは、到底想像できぬ姿であった。
「私は科のところまで戻る。ついてこぬなら、私一人で行く」
 紅華は握りしめた拳を胸に押さえて、立ち上がった。と、拍子に立ちくらみよろめいた彼女に同仁が腕を伸ばす。
 紅華が怯えた目で睨みあげるのと、ぶんっと刃が宙を斬ったのは同時だった。
 同仁は身を引く。紅華の手から、懐刀の鞘がからりと転げ落ちた。
「寄るな」
 再度、紅華は部下二人が近づけぬよう、刀を薙ぐ。
「よいか。先のように連れて行けるなどとゆめゆめ思うな。寄れば、私は即刻首を掻っ斬る」
 紅華が持つ刀の切っ先を見据え、同仁は黙す。「紅華様!」と実己は声を荒げた。身を乗り出した実己を前に、紅華は予告通り刃先をひたりと己が喉元に押し当てる。
 同仁は物言わず、鞘に入った己の刀で、紅華の手首を打ちすえた。紅華の懐刀はいとも簡単に弾き飛ぶ。
「――っ」
 地に落ちた懐刀を紅華は腹立たしげに睨んだ。同仁は腰を曲げてそれを拾い上げると、紅華の傍に落ちていた鞘まで歩き、元に収める。
 同仁は、膝を曲げたまま紅華を見据え、息をついた。
「分かりました。科を迎えに参りましょう」
「本当に?」と半信半疑で紅華は問う。まもなく首肯した同仁に、彼女の顔は華やいだ。
 そう、と己に言い聞かせた紅華は、くるりと紅い衣をひらめかせて打ち笑う。
「ならば、早く行きましょう」
 言って、紅華は自ら先だって歩み出す。
 厳しく眉を寄せたまま、立ち上がりもせず主を眺めている年長の武人の腕を実己は掴んだ。
「同仁」
「分かっている。そうかっかするな」
 実己の肩を叩き立ち上がった同仁は、「老いたな」と苦々しげに吐き捨てる。
「よいか、実己。戻るが途中で進路は変える。決して感付かれるな。次は舌を噛みかねん」
 紅華の後に続いて歩き出した同仁は、声を潜めて言う。実己は歩きながらも苛立ちを隠せなかった。
「……なぜ紅華様はこのようなことをする。灘と科の想いはどうなる」
「実己」
 穏やかな口調とは裏腹に、同仁の目は鋭かった。
「口には出すな。腹に収めろ。科たちの想いなど、紅華様ならとうに理解はしておろう」
「なら」
「それでも、縋らずにはいられない時もある。そして、頼りを失くしてしまった時、人は存外あっさりと逝ってしまうものだ。それだけは絶対に避けねばならぬ」
 以降、二人は口を閉ざした。
 一日がかりで駆けてきた道を、彼らは黙々と引き返す。実己は足を繰り出すごとに、腹に汚泥が溜まっていくような心地がした。底の見えぬ感情を、彼は一人もてあましながら、同仁に連れ添われて前を歩く紅衣の妃を凝視し続ける。
 少しずつ。ほんの少しずつ、同仁は道先を変えた。周囲の木、一本一本に気を払っていなければ、あらかじめ聞かされていた実己ですら気付かなかっただろう。
 息の切れかかったいななきが耳に届いたのは、ちょうど折り返しに差しかかる場所であった。
佐々良ささら!」
 頭首を伏して横たわる黒毛の巨体。紅華はなりふり構わず駆け寄った。幾本も矢が連なり突き刺ささっている身体を抱き竦める。
 佐々良は、ぶるると鼻を鳴らした。身間違えるはずのない鞍。首筋に流れる灰の斑点は、昨日まで共にいた馬のもの。科、と紅華は額を馬の背に押し当てて、むせび泣いた。
 実己は無残な馬の様相から目を逸らし、奥歯を噛んだ。同仁は、紅華の傍らに膝をつく。
 どん、と不吉な振動が足を伝わって、実己は視線を元に戻した。戻して、目を瞠る。「いたぞ!」と叫ぶ声が、確かに耳の奥で響いた。
「同仁!」と実己は叫ぶ。紅華の涙は見開かれた眼で留まった。
 深々と胸に突き刺さった矢が致命的なのは明らかで、だが同仁は呻きなど漏らさなかった。ただ脂汗を額に浮かせ、次から次へと飛んでくる矢の方向を捉える。
 行け、と端的に彼は命じた。間違っても矢面に立たぬよう抱え込んだ紅華を、実己の方へと押しやる。
「行け!」
 怒号が飛ぶ。
 額がじんとしびれた。他には何も浮かばなくなった。急激に頭が冷えていく。
 実己は、紅華の手を引いた。矢音を薙ぎ払い、走り出す。足のままに走り抜けた。
 幾昼夜、日をまたいだのか、どうやって日が通り過ぎたのか、実己には覚えがない。
 繰り出され続ける足裏の感覚だけが、現だった。

 ざらり、ざらり、と腕の内で塩が鳴る。
 喉の奥が張り付き、ひどく乾いていた。実己は、強く目頭を瞑り絞って、あるはずのないまやかしを追い払う。
 暗闇の中で、ぼんやりと女が浮かび上がった。
 首を振り、細い指が、柔らかな土に傷をつける。
 青白い肌。乱れる黒髪。擦れた紅い衣と冷えた茶眸。

 ――もう走れぬ、と。

 あの時、首を振ったのは、誰