少女は泣きじゃくりながら逃げた。逃げて逃げて逃げた。
 村人の蔑みの目から逃げた。
 向けられた鋤や鎌、槍から逃げた。
 在るはずのないものの声を聴くことのできる子ども。
 異質な能力を身に宿した子ども。
 魔を操る女――魔女、と人は彼女の名を呼ぶ。

 恐ろしい。
 何を言っているの。
 きっとあの魔女のせいだ。
 気味が悪い。

 人々は理解の代わりに、石を投げ、唾を吐き、終には武器を掲げた。
 追い出すだけでは安心できないと、容赦なく刃を向けてきた村人たちの一瞬のすきをついて、少女は必死で逃げ出した。
 彼女は自分が人々から忌み嫌われる理由を頭では理解していた。
 それでも、彼らの言うことは到底理解できるものではなかった。
 なぜなら、少女にしてみれば、聴こえるのは在るはずのものの声でしかなかったのだ。
 あらゆる場所に存在するもの。それは、死者のものであり、自然のものであり、精霊のものであり、霊(だま)のものであった。
 ただ、常人には聴こえない声を、彼女は当然の者として受け入れていただけにすぎない。

 少女は独りきりで逃げてきた。
 暗い森の中でも構わず、彼女は逃げ続けた。
 けれど、もう疲労と飢えからは逃げることなどできそうになかった。
 離れた場所で、獣の遠吠えが聞こえる。
 こんな私でも誰かの糧となるならば、喰われるのも案外悪くないかもしれない。そう思ったところで、彼女は乾いた笑みを浮かべた。
 ふっと体の力が抜けて、生ぬるく湿った地面にへたり込む。
 ざあーっと風が吹きすぎるのを肌に感じながら、目を閉じた。
 瞼の裏では、咆哮と共に獣が徐々に近づいてくる。
 その時、揺れる葉擦れの音がして、『森』が鳴った。

 おいで、おいで、愛しい子。
 もう恐れるものなど何もない。
 全てのものから護ってあげよう。
 全ての知識を授けてあげよう。


「本当に?」と少女は尋ねた。
 否、声に出して尋ねる力など、もう彼女にはなかった。
 重い瞼を押し上げ、『森』に向かって頭をもたげるだけで精いっぱいだった。
 しかし、「ああ」と答えるものがいた。
 妖獣は『森』の入口に堂々と立つ。しなやかな体躯に、美しい銀の毛なみを持つものは低い唸りを響かせた。

「おいで。『森』に選ばれし愛しい子よ」

 不思議と恐怖を感じさせない、穏やかで深みのある唸り声であった。
 少女は頷く代わりに、傍に寄り添って来た妖獣に身を任せ、瞼をおろした。
 こうして、彼女は『森』の奥深くへと迎え入れられたのだ。

***

 昔々、この世界の中心は『森』であった。
 その場所は、大気が緑に染まって見えるほど、木々が生い茂っていた。
 風が流れ、地は命を育み、水が潤いを、陽は光をもたらす。
 この世の全ての“気”が集い、交錯を繰り返す場所――世界の中心である『森』は、大いなる力に満ちていた。

 偉大な『森』は自身の内へ立ち入る者を選別する。
 選ばれなかった者は、森が『森』であることに気付きもしない。
 だが、選ばれし者は『森』に深く深く愛され、いかなる時も護られる。

 『森』はその者に、知恵と技術を享受し、尊ぶべきその者の意志によってのみ動く。
 遠い昔、世界の中心である『森』に住んでいたのは、そういう者であった。

 その者は四つの『聴く』力を持っていた。

 死者の声を聴く力。
 自然の声を聴く力。
 精霊の声を聴く力。
 霊(だま)の声を聴く力。

『森』はその者に、四つの『視る』力と四つの『読む』力を与えた。

 精霊を視る力。
 遠くを視る力。
 命運を視る力。
 霊(だま)を視る力。

 数を読む力。
 天文を読む力。
 兆しを読む力。
 天候を読む力。

 そして、『森』は彼女が人間の中で最も美しくしい容姿となる歳になった時、彼女に時を止める術を教えた。
 故に、彼女は人の時を操る術を身につけ、長い長い年月を生きることとなった。

 たぐいまれなる力の恩恵を身に宿し、『森』に住んだ者。
 今人は皆、彼女の名を『時の魔女』と呼ぶ。

 元は人間として生まれながらも、人間とは掛け離れた存在――後の世で『魔女』『賢者』と呼ばれ、称賛される者たちの始祖である。