彼方より運ばれてきた風は留まることなく『森』の中を絶えず行き交う。
吹き荒れた風に、森の木々は揺すられた。さんさんと降り注ぐ日差しは、重なりあう葉をすり抜けて、やわらかな陽だまりをつくりだす。野の草が一心に身を伸ばす地面から、天空を見上げれば、葉脈が浮かびあがり、緑を縁取っているのがよく分かった。枝葉の合間からは、眩しいほどの空の青が覗く。
『森』の中に、ジン(魔人)は立っていた。
目を閉じて、顎を上げ、心地の良い気を身の内に吸い込む。
葉擦れの他には何も聞こえない。
時折、大気を揺するように四方からやって来る気が、ぶつかり合い、ふわりと交り込み一体化してゆく様を、彼は感じるだけだ。
木々の合間を縫って降り続ける陽を浴びていたジン(魔人)は、地を踏みしめる静かな足音に気付いて、目を開けた。
「また来ていたのか、ランジュール」
「せっかく『森』が、認めてくれているんだ。今のうちに来ておいた方がいいだろう。ここは気が満ちていて気持ちが良い」
応じたジン(魔人)は、首だけを声の主の方へと回す。
輝く銀の毛並みを持つ妖獣を従え、梢に佇んでいる彼女は微笑した。自らを魔女と初めて名乗った者であり、森に愛される唯一の娘――ラグリスは「そうだな」と、誘われるがまま長い髪を風になびかせた。
「『森』は今日も、優しい」
ゆったりと瞼を下したラグリスの背後で、黒髪の少女が「そうですね」と師に頷く。今では“東の国の魔女”の称号を冠すまでになった少女は、師の横顔を見、彼女と同様に黄緑の双眸を閉じた。
ただ彼女の傍にあった四足の妖獣だけが、らんと光る目でジン(魔人)を睨み見据えた。怒りというよりは、呆れの多分に混じった彼の双眸が帯びるのは老成にすら似ていた。妖獣はやはり、たしなめるように言う。
「お前は、来るなら挨拶くらいしに来たらどうなんだ。わざわざ見に来てやってるこっちの身にもなってみろ」
「調べずとも、俺が来たことくらいお前なら分かるんだろう、犀祇(さいぎ)」
ふん、と鼻を鳴らして、犀祇は豊かな尾を振った。
「それでも手間がかかることには変わりはないんだよ。ラグリスが、お前の姿を見たがるからな」
「悪いな、犀祇」
目を開けたラグリスは、美しい妖獣を見やる。「ラグリスに言ったわけではない」ときまり悪そうに顔を背けた犀祇に、彼女はくすりと笑んだ。
「だが犀祇の言う通り、挨拶くらい来てくれた方が嬉しくはあるな。ランジュールは、ふらりと来て、ふらりと帰ってしまうから」
ラグリスは、ジン(魔人)を見上げ、言う。
ランジュールは「覚えていたらな」と魔女の言を一応のこととして請け負った。
「誰か来た」
妖獣が、鼻先を空に向けたのと、『森』の木々がざわめきだしたのはほぼ同時だった。
木々の間を縫ってやって来た姿なき精霊が、魔女らの耳元で空気を揺らし、そっと囁く。
「……人間の男か」
ラグリスは、目を細め凝らした。彼女の視線は、木立を次々と通り抜け、今しがた精霊から聞いた通り、暗い森をさまよい歩く男を捉える。
遠くに視えたのは、ぼろ布と化した外套を纏い、厳めしい長剣を腰に携えた男。彼の衣服や長靴にこびりついているのは、泥だけではないのだろう。今では茶黒く変色してしまっている血は、彼のものか、他者のものか。どちらであれ、『森』へ辿りつくのは容易なことではない。彼自身の血も中に混じっているだろうことは、大前提としてそこに声なく横たわる。
やつれた顔の男は、それでも、鳶色の双眸に鋭さを失ってはいなかった。どちらにも生気をみなぎらせ、目的の場所をあてどなく探し歩く。
しかし、それも所詮、意味のない行為には変わりはない。
ラグリスは、手を顎に当て思考する。犀祇は、ちらと彼女を伺い見た。
「どうする? 追い払うか」
妖獣の問いに、彼女は「いえ」と、かぶりを振ることなく答え、顎から手を離した。
「迎え入れましょう」
遥か離れた森を見据えたまま、魔女は言う。
彼女の言を発端に、風は吹き渡って行った。波が割れるように、木々が分かれていく。
こうして、『森』は彼の前に開かれた。
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