緑の木々がささめく光を降り注ぐ。
 『森』の中をゆく銀の獣は足を止めると、背後を振り返った。数歩後ろを遅れてついてくる少女を、銀獣はふさりと一度尾っぽを揺らして待つ。
「ラグリス。こっちだ」
「待って」
「だから、待っているというのに」
 銀の獣は、息をつく。ふはっ、と音もなくふきだした少女は、口を広げて笑みを綻ばせた。日溜まりのような少女だと思う。少なくとも『森』に来た人間の中でラグリスという存在は、夜明けに似た静謐さを持ちながらも澄み渡っていた。
 愛しい子。『森』のすべてが愛する娘は、土に塗れた裸足を繰り出して駆けてくる。
 卑しい子。誰からも愛されず、ただ人には聞こえぬ声を聞いたという理由で忌避され、魔女と呼ばれた娘。村から逃れて『森』へやって来た愛しい娘。
『くすくす』
 『くすくすくす』
『ラグリス。ラグリス』
 『こっちよ、こっち』
 木漏れ日に混じり込んだ姿ない笑声に、名を呼ばれた少女は、びくりと肩を震わせた。不安げに眼を揺らしたラグリスは、両手に裾を握り込んで硬直する。
犀祇さいぎ
「大丈夫だ。浮かれているのだろう。早くラグリスに視てほしくて」
『そうよ、そうなの』
 『はやく』
『はやく』
 『視てちょうだいな』
『見るのじゃなくて』
 くすりくすり、と声はさんざめく。
「やめないか」
 銀獣は唸った。
 途端、ぴたりとやんだ声に、ラグリスはこわごわと辺りを見渡す。やはり、そこには何の姿も見受けられなかった。
「まったく。あれらは悪戯が過ぎる」
 怒鳴ったわけではない。しかし、犀祇さいぎは腹立たしげに悪態をついた。
 少女の傍に寄り添い、銀獣は一点を睨みつける。さやり。木々の葉は銀獣に呼応して、冷ややかに揺れる。
 追い払ったの、と問うたラグリスに、犀祇さいぎは鼻を鳴らした。
「だが、べつに害ある者ではない」
 銀獣の言葉に、少女は頷く。
「じきにあれが何か視えるようになる。あれもお前のことが好きなんだよ」
 ラグリスは不器用に首を動かした。泣きそうな顔で微笑んだ少女の手の甲に、犀祇さいぎは顔を擦り寄せた。  硬い毛が、甲にあたる。温かく湿った銀獣の鼻先を、ラグリスは指先で撫ぜた。
「おいで、ラグリス。もうすぐだ」
 銀獣は、最後に少女の掌に横顔を擦りつけると言った。
「お前の望む、魔女にしてやろう」
 少女は銀獣を見て、唾を嚥下する。
 ラグリスと銀獣が、歩を繰り出したのは同時だった。
 やがて辿りついた場所で目にした光景に、ラグリスは息を飲む。
 この世に溢れるあらゆる『気』が混じる場所。
 世界を構成するものの根源。
 ぶつかり合う潮流は、互いにとけあって、はじけ散る。
 川の流れのようだった。だが、空気そのものでもあった。その証拠に、流れの中に佇む銀獣のしなやかな体躯は、滲んだり歪んだりすることなく、平然とそこにあった。
 ぱちり、ぱちん、と色のない光がはじけ飛ぶ。
 ラグリスは、流れに足を浸した。躊躇いはなかった。
 四方から寄り集まったうねりのごとき奔流が、少女の中に流れ込む。けれども、それは彼女を圧することはなかった。この『森』に暮らし始めてからこちら、彼女の身を取り巻いていた優しさそのものだった。
 少女は目を閉じる。
 力を失くしたちいさな身体は、潮流の中心でたやすくくず折れた。

「ラグリス」

 銀獣は、地面に横たわる少女へ呼びかける。
 少女は混じりけのない『森』の光を肺一杯に吸い込んでから、瞼を持ちあげた。長くはない少女の睫毛がさやりと『森』に風を吹き起こす。
 開けた視界。
 鮮やかな景色。
『くすくす』『くすくす』と笑う者の姿を、ラグリスは確かにこの時はじめてとらえた。
 身を起こした彼女の周りをいくつもの者が、取り囲む。
 傍にいた銀の獣は、少女が驚いた顔を向けると、わずかに目を和ませた。
 ラグリス、と銀獣は少女を呼ぶ。
 おぼろげな思考で目を瞬かせる少女の前で、銀の毛並の『森』の主は、まるで少女に乞うように自身の額と彼女の額を寄せあわせた。

「これよりいかなる時も『森』はお前の意志に従おう」

 ――ラグリス。
 それは原初の魔女にして、あらゆる魔力と知識を与えられた娘の名。
 『森』が唯一選んだ子ども。
 人間の寿命よりもはるかに長く続く時を越えた、最初で最後の――後に『時の魔女』と称される人間の名前である。