目覚めた女は、まず最初にむせた。
 身を圧する閉塞感。視界は、暗いと言うよりも闇そのもの。
 ともすれば嘔吐感さえもよおしそうな醜悪な匂いに、彼女は自分の四方を覆い囲んでいるものが何であるかを悟った。同時に、自身もそれらを形成している一部であるということも。
 女は、手始めに鼻をひくつかせた。乾ききった血の匂い。腐敗し、崩れきった肉には、虫がたかっていることだろう。
 あまりにも身に馴染みすぎた淀み、肌にべたつく空気。
 その中心に挟みこまれて横たわっている女は、唇の両端を吊り上げた。
 こうも闇に囲まれていると、どちらが上で、どちらが下か、ちっとも予測がつかない。そのことだけは、腹立たしくて、彼女は舌打ちをすると、足元にある物体を容赦なく蹴った。
 蹴りつけるも、ずるりと頼りなく滑った彼女の足は、しかし、確実にそれらを蹴飛ばしてはいた。どこもかしこも随分もろくなっていたのだろう。ぐしゃり、また、ぐちゃりと、近くで崩落が始まる。
 そうして、初めて、女はどちらが下であるのかを知った。同時にどちらが上であるのかも。
 女は上へ向かって、あらん限り手を伸ばす。腕を使って、積み重なる山を掻き分けると、己にのしかかっていた厚い屍の蓋に風穴を無理矢理こじ開けた。
 唐突に姿を現した円い青空。食べるものも食べつくしたのか、それともすでに食べ飽きるほど食したのか、辺りに肉を貪る鳥の姿もない。ただ、誇りだけは無駄に高いらしい鳥が、狭い空を優雅に滑空していく。
 日に照らされた、明るい視界の元。女を取り囲んでいたのは、やはり、形崩れた人間の死体たちだった。寸分たがわずの予想通りではあるが、この中に埋まっていたのか、と改めて考えると、正直胸糞悪い。実際、今も体の半分以上が、屍の山と一体化している状態にあれば猶更である。
 屍の山から顔だけを出して辺りを確認し終えた女は、再び山に登り詰める為、埋まっている爪先で手頃な足場を探し、足をかける。彼女が、外へと這い出るのと同時に、踏み台となった腐った頭がぼろりと崩れ落ちた。
 頂点に立った女は、そびえたつ崖を見上げ、息を吸い込む。空が見えるからと言って、澄み切った空気がこの谷底に集うはずもない。
 風が、波打つ赤銅の髪を巻きあげる。女は、顔にかかった長い髪をうっとうしそうに掻きあげた。
「あはは……」
 彼女は、乾いた笑い声をたてた。まるで、己を嘲るように。
 だが、その笑声もすぐに途切れる。くたびれ果てたとでも言いたいのか、彼女は、はぁーと長く息を吐きだした。
 物心ついた頃から剣を持ちすぎていた、今では硬いばかりの掌。彼女は、両手を広げて己自身を鑑みる。
 もはや服の意味をなしていないのではないか、と思う程、散々に切り裂かれた血汚れの衣。けれど、破れ目から覗く、日に焼け損ねた白い肌には、あるはずの傷がない。滑らかで一切の穢れが見えない肌。女は、指の腹で自身の肌を順繰りになぞった。傷そのものどころか、傷跡の凹凸まで消え去っている。
 自分の中に存在する、とある場面で途切れたこの記憶と現状の差異は何なのだろう。もしや、あれはただの夢であったのだろうか。
 結局のところ、女が首を捻ることは、それ以上なかった。もはや、関係ないことである。運がよかった、それで終いだ。現に女は、死の窮地から脱して、屍の上に立っている。命が尽きる寸前に、誰にも気付かれることなく、谷底へ放られたらしい。ならば、手にある事実だけで充分だ。
 ふふっ、と彼女は、手を口に当てると、体を折った。

「あはっ……、あはははっ、あははははは……!」

 笑いが次から次へとこみ上げて来て、もう自分自身では抑制がききそうにない。喉がくっ、と奥で引きつる。
 うずたかく積み上げられた屍の山。まるで彼らの支配者の如く、一人頂上に立つ女は、狂ったように笑い続けながらのけぞった。高く遠くに離れた青いだけの空など敵ではない、と嘲う。
 甲高い嬌笑が、谷間の壁にぶつかって反響する。
 たった一羽の鳥しか旋回しない狭小の空の下。誰の目にも触れぬ深い谷底から、女の玲瓏とした声は密やかにこだまし、天空へと這い上がっていった。