一番初めに彼女に出会ったのは、森の奥深くに迷い込んだ年端もゆかぬ子どもであった。
家に帰りたいと泣きわめく子の額に、彼女の手が触れる。すると、子どもの目の前にはたちまちのうちに、見慣れた家が建つ風景が現れた。
喜び勇んで駆けだした子どもは、木戸を開こうとした中途、立ち止まり、彼女の方を振り返った。
「ありがとう」と子どもは言った。そして、無邪気にも「助けてくれた人、あなたは誰なの?」と子どもは尋ねた。
暗い森の入口に佇み、女は微笑む。随分と経った後、彼女は一言「魔女」と答えた。
「魔女?」と子どもが聞きなれぬ言葉を口内で転がして問い返す。その時には、もう、彼女の姿はかき消えていた。
長い年月が経つうち、幾人もの願いが『森』に在る“魔女”を称す女によって叶えられた。
魔女が願いを拒むことはない。あらゆる種の願いを、彼女はいとも簡単に実現させた。
故に、魔女はどんな願いをも叶えてくれる、という噂がまことしやかに世に流れた。
――ただ一つ。“もしも『森』へ入ることができたのなら”という条件つきで。
こうして、願いを胸に秘めた人間は“魔女”を求めて『森』を探し、さまよい歩くようになったのである。
そうして、一番目の人間が魔女に出会ってから、ちょうど二百年と四ヶ月目。
二十七番目の人間が『森』にやって来た。
「どうか……! どうか、魔女様っ!」
老婆は乱立する木々に向かって叫び続けた。
破れに破れた襤褸を纏った彼女は、皺に埋もれる目を必死に凝らす。折れた腰が痛むのも構わず彼女は体を捻って、周囲に意識を巡らせた。
節くれ、骨に皺がれた皮が張り付いているだけの手足でも、切れれば血は出る。血が流れる度に、残り幾許かの命まで流れ出て行くのを老婆は感じていた。酷使し続けた足が、がくがくと震える。
途中で拾った枝木を杖代わりに、ここまで歩いてきたが、もはや杖にしがみつくだけで精一杯だった。
「――魔女様! どうか、どうか、ルヒツィンを……わたくしの孫を助けてください」
老婆は、祈るように、天上を仰いだ。薄れゆく景色には、緑が溢れんばかり。
「たった一人の子。わたくしには、あの子しかいない。どうか助けてくださいませ。魔女様、わたくしの命をたった一人の大切なあの子に……」
葉々の隙間から差し込む細い光が、老婆の目をチカリとさす。鳥がリルリルと鳴き、枝木を弾いて、羽ばたいていった。
老婆は折り重なる葉の緑を振り仰いだまま、年老いた醜い顔を歪める。乾ききった喉で嗚咽は押し殺したが、目の奥からとめどなく涙が盛り上がってきた。
「どうか……!」
支えを手放し、泣き崩れた老婆。
風が、彼女の頭上を吹きすぎたのは、その時だった。
前触れもなく現れた、背を覆うほど長くしなやかな髪を持つ娘。
彼女は、地に膝をつき泣き伏していた老婆にゆるりと視線を向ける。
「名も知らぬ来訪者。よくぞ、この『森』まで辿りついた。泣かずともよい。私は、あなたの労をねぎらおう」
当然のものとして、差し出された手。彼女の口元には、ごく自然に形成された微笑が浮かぶ。
あまりにも唐突過ぎる魔女の出現。呆けていた老婆の眦は、涙さえ引っ込んでいた。
魔女は、膝を折って、老婆の眼前で腰をかがめる。彼女のすぐ傍には、美しい銀の妖獣が寄り添った。
「聞こうか? あなたの願いを」
魔女が、首を傾げながら、覗きこんでくる。老婆は、震える両手で、魔女の手を取った。銀獣のふさふさとした尾がはたりと地面を擦る。
「助けていただきたいのです、わたくしの孫を」
魔女は目を細める。まるで遠くを見通すかのように。
「名前はルヒツィン? けれど、その子はもう死んでいるよ」
「か、……体は、残っています。誰にも、触られないようにと、しっかりと戸を閉ざしてきました」
「――のようだね。だけど、腐敗も進んでいる」
魔女の指摘に、老婆は打たれたように、顔を上げた。
「だ、だめでしょうか!? それでは、ルヒツィンを生き返らせることはできないのでしょうか!? わたくしの命でも何でも……代わりになるものがあれば、いくらでもあなたに差しだします。お願いですから、わたくしのルヒツィンを生き返らせてください」
頼りとなるのは、きつく握り込んだ魔女のすんなりとした手だけ。
見下ろしてくる魔女の双眸は無垢そのもの。けれども、計りしれぬほどの深淵そのもの。
そもそも、と魔女は老婆に問う。
「なぜ、あなたは、私が死者を蘇らせることができると思う? 死者は本来、再び生を受けることはない。あなたも知っているでしょう?」
「魔女様は、どんな願いでも叶えてくれると聞きました。できないのですか!? わたくしのルヒツィンを生き返らせることはできないのですかっ!?」
「できないことはない、……が、何もない場所から、何かを作り出すことは不可能。河をつくるには、水が、大地をつくる為には土が、散逸した時をつくるためには存在する時が。あなたが申し出た通り、あなたの願いには、あなたの時が必要。あなたに残された時間を、死んだあなたの孫へ移し与えるといい」
老婆はがくがくと必死になって首を縦に振った。
「どうか、そのように。わたくしの時間を、ルヒツィンに」
「人間に与えられた時はちょうど百と飛んで五十年。それ以上でも、以下でもない。例えば、その中途で病を得て死ぬことはあっても。自ら命を絶つことはあっても」
魔女は、老婆の額から頬を、空いている自由な手で撫でる。
穏やかで、感情のない瞳。老婆は、魅入るように魔女を見つめた。
「あなたの歳は、いくつになる?」
「七十二でございます、魔女様。わたくしは、充分すぎるほどに生きました。けれど、あの子はまだ八つ、あまりにもおさな、」
「そう」
魔女は、指先を老婆の口にそっと押しあてる。老婆の言葉の先を止めた代わりに、彼女は問いを重ねた。
「では、残数は七十八年。あなたは、ルヒツィンにあなたの時をいくら渡す」
「全て。全てお渡しします」
そう、と魔女は吐息を継ぐように頷いた。
「七十八年の時を渡しても、ルヒツィンが七十八年生きられる保証はないよ? それでも?」
「それでも。あの子が生きてさえいてくれれば。わたくしのルヒツィンには、できるだけ生きていてほしいのです。わたくしには、もうあの子しかいない」
途切れなく、言い募る老婆。魔女は「よいでしょう」と、掌で老婆の目を覆った。
老婆がすがり握っていたはずの魔女の手。まるで糸がほどけるかの如く、魔女の手は、あっさりと老婆の手の内をすり抜けた。
「あなたの時の七十八年をルヒツィンに移しましょう。うち半年でルヒツィンの体の腐敗の時を戻し、うち半年でルヒツィンの魂を呼び戻し、残る七十七年をルヒツィンの時に」
囁きがこだまする。
ざわめいていた葉擦れの音は次第に遠のいた。
己の目を覆い隠す手の感触がなくなった時、老婆は目を開いた。
彼女の目に飛び込んできたのは、身に馴染みすぎた質素な部屋。うっすらと降り積もっている埃が、時の流れを静かに物語る。
そうして、薄い掛け布を被って寝台に眠る子どもを見出した老婆は「ああっ」と嗚咽を漏らした。
色味の戻った頬。やわらかな息づかい。熱いほど手に沁み込む体温。
「ルヒツィン!」
よかった、と老婆は孫の顔を、皺がれた手で包みこんだ。親指の腹で、何度も孫の頬を擦り、息を吹き返したルヒツィンの顔を覗きこんだ。
子どもの瞼が、重たげながらも、ゆっくりと確実に持ち上がる。
「おばあちゃん……?」
焦がれていた懐かしい声。老婆は、目を細め、愛おしげに微笑する。
そうして、孫を抱き締めた老婆は、孫に覆いかぶさったまま息を引き取った。
――――それが、時渡り。
「あなたが助けたい女というのは、あなたの大切な人なのか?」
魔女は時渡りを望み、新たに『森』まで辿りついた男に問い掛ける。
その為だけに『森』へとやって来た男は、恥ずかしげもなく即座に答えた。
「かけがえのないひとではありますね」
「時渡りは、ゼーヴィクの命の残数から、あなたの時を相手に譲り渡すこと。渡した分だけ、ゼーヴィクの命の刻限は削られる。それでも、時渡りを望むのか? それでも、女にあなたの時を渡す?」
「存じております。覚悟の上です」
「そう」
魔女は、音もなく足元へ視線を落とす。寄り添ってきた銀獣の鼻先を、彼女は撫でた。
「いずれかの時渡りの話を聞いて『森』を目指したのでしょう」
男は、是とも否とも答えなかった。魔女も、答えを望まなかった。
ふっ、と魔女は思い出したように、視線を人間の男の元へ戻す。
「けれど、あの話には続きがある。女の命を継いで命を得た子はね、死んだよ。十を四つ過ぎたころにね。身寄りのない子どもはたやすく売られる。当然と言えば、当然。女も少なからず予想はしていたはず。それでも、生きてほしいと願った子どもは、この世の辛苦を舐めつくし、この世のあらゆるものを憎んで、流行り病で呆気なく死んだ。ただ一つの救いは、自分を助けた祖母の行為に感謝はせずとも、彼女を死ぬ間際まで愛していたことか。生かされたものが、どのような生を強いられるかまで、責任は持てない」
魔女が誰の話を語っているのか、ゼーヴィクには分かるはずもなかった。確かなのは、過去に時渡りを受けた者の、一つの行く末なのだろう、ということだけ。
「あなたは、無知故に望んだのか? それとも、既知故に、あえて望んだのか?」
「どちらでも同じでしょう。いつ知ったとしても同じことを望みます」
「そう」
それならば、そうなのでしょう、と魔女は口を動かした。
「人間に与えられた時はちょうど百と飛んで五十年。それ以上でも、それ以下でもない。例えば、その中途で、戦に巻き込まれ死のうとも。戦に巻き込んで人を殺めようとも。本来、人間が持っていた歳月は皆変わらない。等しく同じ時を持つ」
あなたの歳は今いくつか、と魔女は、人間に尋ねた。
「先月で、ちょうど二十四に」
「ならば、時の残数は百二十六。女の名を何と言ったか」
「――アガジルダ、と。姓はありません」
アガジルダ、と口に名を含んだ魔女は、目を細めた。
「惨殺されている? それも、谷底へ放られて、屍の中に埋もれている」
「アガジルダで、間違いないでしょう。ちょうど一年前に殺されています」
「そう」
魔女は男の言葉に首肯する。
「ゼーヴィク。いくつの時をアガジルダに受け渡す?」
「ちょうど、私が今持つ半分の時を」
人間の男が返した答えは、魔女にとって予想外のものだったらしい。わずかに目を見開いて、彼女はゼーヴィクへ問い返す。
「全てでなくて、いいの?」
「全てを分ける必要があるとは思えません。割るとしても六十四年。何もなければ、人の寿命としては充分長い方でしょう。私も死に急いでいるわけではないですから」
「なるほど」
的を射たとでも言いたげに、魔女は嫣然と微笑した。
「では、あなたの時の六十四年をアガジルダに移しましょう。うち一年でアガジルダの傷を癒し、うち一年でアガジルダの魂を呼び戻し、うち六十二年をアガジルダの時に」
時の魔女が、ゼーヴィクの視界を覆い隠す。彼は、魔女の手を退けることなく素直に受け入れた。
温度のない掌。放りこまれた暗い視界はまどろみに似ていた。このまま辺りの緑に溶けてしまうのではないか、とゼーヴィクはぼやけていく思考の片隅で思う。
あと一つ、と彼は鈍る頭を動かし、辛うじて声を絞り出した。
「叶えていただきたいことがあります」
「何?」
投げ返された魔女の問いは相変わらず単調だった。加えて、一度覆った手を、彼の瞼の上からどかすこともしない。
どこか、笑い出したい気分に狩られながらも、ゼーヴィクは再度願いを口にする。
「アガジルダに時を渡したのが、私であると決して彼女に悟られないようにしたいのです。私は、彼女の前へ再び姿を現すつもりなど毛頭ありません」
ただ、時の一部を渡す。
それ以外の計らいは必要ない、と人間の男は、時の魔女に願った。
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