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1-2:砂漠を行く者たち【2】


「うぅ……、重い」

 水甕を運びながら、女は一人誰にともなく呻いた。
 甕の内にはられた水は、今にも縁から溢れんばかり。事実、彼女が辿って来た行程を、ぽつぽつと染みが追いかけていた。だが、それもすぐに砂地に吸い込まれ、空気中へと蒸発し、跡形もなく消えていく。
 ただでさえ、足を取られやすい砂場を歩いているのだ。にもかかわらず、手にしている甕は両腕いっぱいに抱え込んで、やっとこさ運べる位の大きさだった。たっぷりと水が入っているせいで、ただ歩くだけでも困難なことこの上ない。
「やっぱり、領主に逆らうべきじゃなかったか?」
 砂漠に囲まれたこの地域一帯で唯一存在する水場。いつもならば、往復で小一時間はかかる位置にあるその水場まで水汲みへ行くのは、彼女の役目ではなかった。
 もとより、この甕が充分満たされるほどに多くの水を入れて持ち帰ったとしても、これだけの水で全てをまかなえるほど、女が仕えている屋敷は小さいものではない。
 皇都から遠く離れた田舎街とはいえ、領主の屋敷である。数え切れないほどとまでは言わないが、屋敷に仕える使用人は、それなりにいる。しかも、その内のほとんどが住み込みで働いているのだから、とてもじゃないが、この水だけでは少なすぎる。
 普段は、ラクダ五頭を引き連れ、水で満たした二十杯の甕を屋敷へ運ばせていることから考えても、この苦労が全く以って意味をなさないのは、明らかだった。
 つまりこれは、領主が自身の命に逆らった女へ課したただの嫌がらせとしか考えられないのである。
「せめて、ラクダくらいつけてくれればいいものを……」
 この調子では帰りだけでも二時間はかかりそうだな、という自分の考えに、つい溜息が出る。そんなにも長い時間、この重さに耐え続けなければならないのか。
 きっと、領主も彼女がこの甕を屋敷まで持ち帰ることなど絶対に無理だと思っているのだろう。
 けれども、水を持ち帰ることができなかった場合、領主が何を言い出すかは、目に見えている。何としてでも、それだけは避けたかった。
 だが、もし、この甕を持ち帰ることができたとしても、難癖をつけられるのではないか、と嫌な考えまで浮んでくる。遅いとか、砂が混じっているとか。結局はどちらにしても同じではないか。
 女の口から、深い溜息が洩れる。
 いっそのこと水をぶちまけてしまおうか、と彼女は、抱えている甕の縁を見上げた。腕の内でたぷりたぷりと水が揺れているのを感じる。甕の中の水は、さぞかし冷たく、浴びれば心地よいに違いない。そうすれば、どんなにか気持ちいいだろう。砂と混じってざらつく汗も洗い落とせる。
 ああ、水が太陽の光に反射して綺麗だろうな、と夢想したところで、彼女は、ふふと微笑した。何よりも、この重い甕から解放される。疲れに疲れ切った彼女にしてみれば、実に魅力的な案だった。
「――い、いや、いや……、あんな奴の思い通りになってたまるか! 大体、私はあいつの従者でも何でもないじゃないか! それを、あいつは……!」
 雑念を振り払うべく、女は首を左右に振る。
「あんな奴に屈するのだけは絶対回避! 全速力で戻って、あの領主に、あっと言わせてやる!」
 澄み切った青空に吸い込まれた高らかな宣言。
 女は、『打倒領主!』という決意を胸に、また一歩、砂漠を歩き出した。
「…………うぅ。しかし、重い」
 砂を踏むたびに鳴る、さくり、という音さえも今は煩わしかった。女はもう何度目になるか分からない溜息を砂の上に落とす。
「あぁ、もう。やっぱり、領主に逆らったのは間違いだったか?」
 再び女の自問自答が繰り返されそうになった、その時。
 栗色の髪をした少年が、必死になってこちらへ向かってくるのが彼女の目に入った。
 なぜ、こんなところに少年がいるのだろう。それもたった一人で。疲れで、とうとう幻覚まで見え始めたのだろうか。そう思って、女は一度目を閉じた。
 それから、そろりと、瞼を押し上げる。しかし、少年の幻影は消えなかった。今にも泣き出しそうな少年の黒い瞳と目がかちあう。
 瞬間、少年の顔にみるみる安堵が広がっていったのが、女にも分かってしまった。
 少年は、こちらへと駆け寄って来る速度を落とさぬまま、掠れた声で叫ぶ。
「よかった! すぐ近くに人がいた!」
「――どうしたの?」
 尋常でない少年の様子に、彼女は反射的に尋ね返していた。
 自分を気遣ってくれる女の問い掛け。少年の黒い瞳からは、今まで、我慢していた涙がぼろぼろとせきをきったように溢れ出した。もう彼自身では止められそうにないほど、涙が次から次へと流れ落ちる。
「助けて!」
「え?」
 少年の訴えは、半ば予期していたものだった。けれども、栗色の髪を持つ少年の、助けを求める嗚咽混じりの叫びに、女は戸惑って、その場に立ちつくす。
 彼女がたたらを踏んでいる間にも、少年は女のすぐ近くまで走り寄って来ていた。彼らの間に開いた距離は、もうほんの数十歩までに縮まっている。
「早く!」
 もう一度、少年が女に向かって叫ぶ。考えている暇はなかった。
「……え、ええ」
 女は、頷きを返し、甕を砂ばかりの地面に置く。それと同時に、少年は彼女の手を取った。女を引っ張るようにして、彼は元来た道へ取って返す。
「えっ!? わっ、ちょっと待って!」
 突然、勢いよく手を引かれて、女は前につんのめり、こけそうになった。けれど、そんなことはお構いなしと言わんばかりに、少年は女の手を引いて、目指す場所へとひたすら足を走らせる。
 早く早く、と心が急かすのに、砂を蹴るたび、足をすくわれて、思うように速く走ることができない。そのことに、少年は苛立ちを感じていた。
 ここは砂漠なのだ。そんなこと、どうにもならないことなのに。分かっているのに。
 女がまたつまずき、転びそうになった。
 彼女が纏っている衣服の裾丈はくるぶしまでの長さがある。自分よりもずっと走りにくいはずだった。それなのに、何の文句も言わず、まだ何の説明もしていない自分についてきてくれる。
 大丈夫だ。この人なら、きっと助けてくれる。
 少年は走り続けながら、肩越しに女の方へと振り返った。先程と同じ言葉を繰り返す。

「助けて! お願い……助けて!」

 辛そうに走ってきた女は、少年の言葉に顔を上げた。目の前にある黒い双眸が、不安気に揺れる。
 それを目にした女は、ここまで来てようやく自分の決心が固まったことを感じた。彼女は、少年に力強く頷いてみせると、にこりと笑って答える。

「大丈夫。安心して。私がきっと助ける。助けるから」

 女の言葉を受け、少年は再び前を向く。
 繋いでいる女の掌からは優しい温かさが伝わって来る。それはひどく、少年に安心を与えてくれるものだった。
 大丈夫だ、きっと。
 涙でぼやけた視界は、ほとんど何も見えない。けれど、少年には目指す場所がどこにあるのかが、はっきりと分かっていた。
 待ってて、あともう少しでつくから! もう少しだから!
 少年は胸中で、この先にいる男に向かって、呼びかける。
 そうして、二人は迷いもなく、ただひたすら一つの方向へと走り続けた。