2-10:夜伽話【3】



 予告通り、翌日もガジェンたちはやって来た。それどころか、その翌日も翌々日も、宣言以降、毎日飽きることなくやって来る。
 サーシャの方も、いい加減叩き起こされるのが億劫になり、時間を見計らい海に出向き、海賊船を追い払うようになっていた。
 海賊たちは、サーシャの姿を見つけるたびに網を投げかけてきては、捕らえようとする。
 最初のうちは幾度か捕まりもしたが、最近は難なく避けられるようになってきた。船尾から、サーシャ目がけて飛んでくる網を、風を起こし打ち払う。次に飛んできた網は、宙を蹴って横に避けた。
 毎回、同じ方法で投げられる網を今日もよけつつ、サーシャはげんなりとした顔で問う。
「……そんなに毎度毎度、同じ方法にひっかかると思ってるの?」
 サーシャの言葉にガジェンはにやりと笑う。嫌な悪寒がサーシャの背を襲った時にはもう遅かった。
 新たな網が両方向から投げられる。
 一つ目の網は風で打ち払ったが、いつもよりもあたりが重い。立て直す間に、もう一方の網が、左腕に絡み付いて、サーシャは見事ガジェンの腕の中へと落ちたのだ。
 ガジェンは満足そうに、サーシャを抱きすくめる。
「この日のための布石に決まっているだろう?」
「だから、どうしていつもこの方法なの」
 周りでは囃し立てる声までする。げんなりしてサーシャがぼやけば、今までになく、慈しむような顔でガジェンに微笑まれた。
 見透かされそうな青い瞳を直視できず、サーシャは顔をそむける。
 サーシャ、と何やらあまい響きで呼ぶ声には聞こえなかったふりをして、彼女は左腕に絡み付いた網を外すことに専念した。
 サーシャは気づいていた。
 相変わらず言い分は単純で、扱いはがさつだが、サーシャを受け止めるこの逞しい腕は、いつだって優しく、嘘がない。
 無理に網を引き剥がそうとするサーシャの手をガジェンは軽く叩いて止め、彼女に代わって丁寧に解きほどく。
 サーシャはされるがまま、口を引き結んでその様子を黙って眺めていた。
 時に他者から恐れられるの程の力を持つ自分が、まるで壊れ物のように扱われることに気づかないはずがない。そんな時、サーシャはいつも不意に泣きたくなる衝動にかられる。
 だからこそ、サーシャはガジェンの視線から逃れるようにうつむいた。どうしても熱を帯びる顔を、これ以上、見られるわけにはいかなかった。
「もう、凪の季節は終わる」
「ああ」
 そうだな、とガジェンは、サーシャの意図するところを酌み取って相槌をうった。
 二人の間を強い風が吹き抜ける。
 それは、冬の到来をつける季節風ナディールだった。
 この風が吹きはじめると、カーマイル王国の海は荒れはじめ、潮の流れも急激に変わる。
 ガジェンも他の乗組員たちも、瞳は青か黒、髪の茶の色を持つ。顔立ちから見ても、西の大陸ダランズール帝国の出らしいことが知れた。身を寄せているのも、恐らくその辺りだろう。これだけ近くで毎日接していればさすがに予測がつく。
 西と東の大陸を結ぶ航路に、再び穏やかな海が戻ってくるのは、春がようやく終わる頃。大型の船であれば乗りきれる波も、ガジェンたちが操るこの小さな船ではひとたまりもない。
 ガジェンは何を思ったのか、サーシャを抱えた格好のまま甲板に腰をおろした。ガジェンに左手がとられたかと思えば、おもむろにサーシャの中指にはめられた赤い石の指輪を抜き取られる。それは、サーシャが東の魔女を引き継ぐ際に、師である先代の魔女から譲り受けたものだった。
 ガジェンの不可解な行動にサーシャは首を傾げる。
「……それは魔法具だけど、別に高価なものじゃないよ? まして、ただの人であるお前には何の役にも立たない」
 その答えにガジェンは笑い出した。
「ほんっと、何にもわかってないなぁ。これはそんじょそこらの宝石よりも、よっぽど価値があるぞ?」
「そうだったのか?」
 サーシャは、意外さに驚き、聞き返す。
 エメラルドの瞳を大きくさせて尋ねてくる魔女にガジェンはまたもや笑いだした。
 彼の部下たちも相変わらずニヤニヤとこちらを見つめて笑っている。
 意味はわからないが、さすがに居心地が悪くなったサーシャはガジェンの腕の中から転移し逃げ出すと、片手を突き出し男の前に立ちはだかった。
「とりあえず、その指輪を返せ」
「まぁ、まぁ、代わりにこれをやるからさ」
 伸ばしていた手を急に引っ張られ、サーシャはガジェンの胸の中へと再び舞い戻る。
 文句を言おうと口を開いたが、その口はぽかんと開けられたまま、結局、言うはずだった文句は、奥へと引っ込んでしまった。
 指にはめられた指輪にサーシャは目を瞠る。
 細い銀の指輪には少し大きめの緑の石が一つ、周りには小さな宝石がそれを際立たせるようについていた。
 指輪を茫然と見つめるサーシャを見て、ガジェンは得意げに笑った。
「きれいだろ?」
「……うん」
「まぁ、サーシャの瞳の色には敵わないけどな」
「……何のこと?」
 ガジェンはサーシャの問いに絶句する。
 指輪に見惚れてたんじゃないのかよ、と思わず拗ねたような顔になる。
 けれども、サーシャが見ていたのはガジェンの見ていたものとは違っていた。
「すごくきれい。お前の瞳の色と同じだな」
 サーシャは、左手を目の前にかざして笑う。
 ガジェンは、息をのみこんだ。
 柄にもなく、目の端を赤らめるとそれをごまかすように波打つ魔女の黒髪をわしゃわしゃとかきなでる。
 サーシャが見ていたのは一番目立つ緑の宝石ではなかった。サーシャが見とれていたのはその周りに配された石の一つ、ガジェンの瞳と同じ青の石だった。
「あんた、それわざとなのか? わざとやってるのか?」
 はぁ!? と途端、不審そうな目で睨みあげてくるエメラルドの瞳の持ち主を、ガジェンは思いきり抱きしめた。
 ぎゃっと、悲鳴を上げるサーシャの耳元で笑いの混じった低い声が囁かれる。
「本当に、このまま連れて帰ろうか」
「ごめんこうむる!」
 耳元で囁かれたくすぐったさにサーシャは慌てて転移する。今度こそ、手の届かぬところまで逃げ出して、サーシャは甲板に座りこんだままのガジェンを見据えた。
 火が出るほど顔が熱い。きっと耳まで朱に染まっているのだろう。
 眼下で笑っているガジェンが本当に憎たらしかった。
 残念、とガジェンは呟いて、この日も空中に浮かぶ魔女を見あげる。
「来年までここには来られないからな、これはあんたの代わりとして貰い受ける」
 サーシャの赤い石の指輪を掲げるガジェンに彼女は嘆息する。
「お前、来年も来る気だったのか?」
「当り前だろう。来年こそは生ける宝石を手に入れる」
「……まだ言うか」
「寂しいか?」
「誰がっ!」
「俺は寂しいけどな?」
「……」
 これ以上続けても無駄だと判断したサーシャが自分の家へ転移しようとした刹那、ガジェンの声が追いかけてきた。
「というか、サーシャ。あんた、あっさり受け取ったけど、さすがにその指輪の意味わかってる、よな?」
「え?」
 聞き返した瞬間、やっとのことでガジェンの真意を理解したらしいサーシャの顔が一瞬にして赤く染まり、ふっと姿が消えた。
 今はない魔女の姿に、ガジェンは満足そうに笑う。

「か、返し損ねた」

 あまりの恥ずかしさに思わず慌てて砦へ逃げ帰ってきた自身にサーシャは溜息を落とす。
 いたたまれなさに、サーシャは寝台にうつ伏せに突っ伏した。
 彼女の左の薬指にはエメラルドがひときわ大きく煌めく。その隣で、小さな青い石はひそやかに輝いていた。