2-9:夜伽話【2】



 快晴の空のもと、一艘の帆船が海を行く。東と西の大陸の間にある海峡は、潮の流れがよく、夏のこの時期は比較的波も穏やかなため、普段なら多くの商船が行き交っている場所だ。今は、海賊と遭遇するのを恐れてか、他に船はない。
 思っていたよりも小さな船だった。だが、その小さな船、たった一艘で莫大な損害がもたらされているのが現状だ。
 サーシャは、海の上、遥か上空から船を見おろした。

「お前たちが海賊か」
 
 甲板に居並ぶ海賊たちは、一様にぽかんとした表情で海上を見あげた。
 穏やかな海の先には水平線が引かれていて、航路の途中であるここからでは、東と西、どちらの大陸の影も見えない。近くに船影もなく、今、船にある船員以外、この海域に突如として人が現れる謂れがなかった。
 そもそも人が空中に浮くはずもない、と彼らが気づいたのと、その名が脳裏に浮かぶのはほぼ同時だった。
 ――東の魔女。
 海賊たちの目の前で、魔女はしなやかに宙空に浮かぶ。
 長い黒髪が海風に煽られて波のようにたゆたう。
 陽光をはらんだ双眸が海賊たちを捉え、エメラルドのようにひらめいた。
 惚ける海賊たちの先で、魔女は口を開く。
「ただちに、ここを立ち去れ。そうすれば命は保証しよう」
 警告が響き渡る。
 それでも彼らは魔女に見惚れたまま、甲板に縫い付けられたように微動だにできなかった。
 魔女は面倒くさそうに片手を振う。
 途端、突風は巻き起こった。荒れ狂う波に押し流されて、船体が傾く。慌てた海賊たちの怒号が飛び交う。ここで船をたてなおせなければ海の藻屑に消えることは間違いなかった。
 だが、次の瞬間、風は嘘のように絶ち消えた。
 気がつけば、船首が見知らぬ土地の砂浜に乗りあげている。
 海賊たちが呆然とする中、打ち寄せる潮騒が快晴の空のもと響く。辺りには何事もなかったような穏やかに凪いだ海だけが広がっていた。


 一方、さてこれで一安心、と心軽やかに家路についたサーシャは、窓辺から眼下に広がる荒野の雄大な景色を見渡して、午後のお茶を久々に心ゆくまで楽しんだ。
 約束は果たした。これでもう城の連中にうるさく苛まれることもない。
 頑張った自分へのご褒美に、いつもより手間をかけてつくった少し贅沢な夕食に満足する。特別な日にしか使わない香油をたらした湯船にのんびり浸かり、口から溢れたあくびに誘われるまま、その日、サーシャは清々しい気分で早々に眠りについた。
 だが翌日、東の魔女は扉を叩くけたたましい音で目を覚ますことになった。この叩き方は城からの使者だ。無視を決め込もうと思ったが、扉を叩く音は一向にやむ気配がない。
 眠り眼のまま、それでも袖口がゆったりと広がる紺のドレスになんとか身体をねじ込み、サーシャはいやいや扉を開けた。
「いったい何のご用ですか」
 あからさまに機嫌の悪い魔女に怯えながらも、王宮からの使いは言いにくそうに用件を述べた。
「実は、昨日と同じ場所にまた海賊どもが現れまして……」
「はぁ!?」
 皆まで聞かず、サーシャは怒りにまかせて海の上へと転移した。
 すると確かにそこには昨日と同じ海賊たちがいた。
 だが、違ったのは海賊たちの反応だ。
 海賊たちは魔女の姿を認めるやいなや、上空に拳を突き上げ「魔女が来たぞー!」と叫びだした。
 しかも、なぜかそこには歓喜が混じっている。
 サーシャは、その訝しさに首を傾げる。同時に、何かが身体に絡み付き、サーシャは声をあげる間もなく、甲板へ引き落とされた。
 とっさのことに何もできず、甲板に打ちつけられるのを覚悟した時、その身体は一人の男の腕によって受け止められた。
 茶の髪に青い目。日に焼けた浅黒い顔をしたその男はサーシャに向かって、にかっと笑う。
「やあ、魔女さん。手荒な真似をして悪かったな。俺はこの船の頭、ガジェン。あんたの名は?」
 てらいなく話しかけられ、サーシャは寸の間、思考が止まった。
 だが、すぐに我に返り、自分の置かれた状況を確認する。身体に巻き付いているのは太い綱で編まれた網だ。どうやら投げつけられたこの網に絡め捕られめてしまったらしい。
 やすやすと罠にかかってしまった自分を苦々しく思う。同時に、ガジェンと名乗った海賊に、しっかりと抱き込まれていることを思い出して、サーシャは慌てて空中へ転移して、網から抜け出した。
 知らず帯びた熱をごまかすように、手の甲で頬を拭う。
「昨日、立ち去れと言ったはずだ。なぜまたここにいる」
 サーシャは遥か上空から、海賊の頭を睨む。
 誰もが怯える魔女の凄みにも、まったく動じず、「俺は名前を聞いたんだが」と呟きながらガジェンは頬を指で掻いた。
 あのな、とガジェンは海上に浮かぶ魔女をみあげ、声をはる。
「俺は美しいものが好きだ。“当代の東の魔女は生ける宝石”、酒場で吟遊詩人がそう歌っているのを聞いた時は、大げさだと思ってたけどな。どうやら本当だったらしい。だから俺は、ぜひとも東の魔女を貰い受けたい」
「――っな!?」
 求婚とも馬鹿にしているともとれるガジェンのあけすけない言葉に、サーシャは頬に再び朱を散らした。
 ガジェンは動揺する魔女を見て楽しそうな笑みを浮かべる。
「もう一度聞く。あんたの名は何だ?」
「お前に名乗る名などないっ!」
 サーシャは、叫び返す。
 怒りすら孕んだエメラルドの瞳を、ガジェンはおもしろそうにニヤニヤと眺めながら、すかさず言った。
「そうか、じゃあ、勝手に呼ばせてもらうぞ。あんたはディアナ我が愛しきものだ」
「ふざけるな! サーシャだ!」
 からかいともとれるその愛称に思わず名を名乗ってしまったサーシャはすぐに、しまったと後悔する。
 ガジェンがしてやったりという風に笑ったからだ。
 そうか、サーシャか、とガジェンは何度も頷いて、その名を咀嚼している。
 それを見て、サーシャは男の言動をまともに取り合うことを諦めた。さらに高く上昇し、もう並の人間が網を投げたところで、決して届くことのない遥か高みから、男を見おろす。
 その表情には、先程、垣間見えた年相応の娘のような様子などかけらも見当たらない。
「我が名はサーシャ――たなびく者なり。けれど、お前にたなびくことなど万が一にもありえない」
 東の魔女は冷ややかに告げる。
 対するガジェンは、サーシャに向かって挑戦的な笑みを投げかけた。
「やってみないとわからないだろう」
「無駄だ。私は、もうここには来ない」
 あっさりと切り捨てた魔女の言葉に、ガジェンは「それはないだろう」と拍子抜けしたようにぼやく。
 だが、今にも踵を返そうとするサーシャに向かって、ガジェンは慌てて声をかけた。
「あんたが来ないならまたここで船を襲うぞ?」
 お前は俺たちを止めにきたんだろう、とガジェンは笑いながら魔女を脅す。
 その言葉にサーシャは固まった。そんなことになってしまえば、毎朝、王宮からの使いがたたき起しに来るのは目に見えている。
 それだけはなんとしても避けたい。だが、この男の言いなりになるのは、しゃくだった。
 思わず頭を抱えたくなった自分にサーシャは舌打ちをする。
 おもしろそうに成り行き見守るガジェンを、サーシャは睨みつけた。
 打開策は見つからない。結局、サーシャは「勝手にしろ!」と叫ぶと、転移し、海の上から姿を消した。