調達【1】


「じゃあ、あれは?」
 そう言ってフィシュアが指差した先に、テトは目を向ける。フィシュアの指先を辿ったテトが見つけたのは、凝った看板が連なる中、素朴ながらに自然と目を惹く楕円形の看板だった。卵色に塗装された表面には、焦げ茶色の飾り文字が洒落た装いで並んでいる。
「えっと、……な……? 何だろう?」
 テトは頭を捻った。書かれてある単語の一部は読めるのだが、他の部分になるとさっぱりわからない。
 看板の文字を睨んだまま悩み始めたテトを横目で見やって、フィシュアは微笑んだ。
「テト。看板に下に何があるのかよく見てみて」
 フィシュアの助言を受け、テトは「あ!」と声を上げる。
「花! 花屋!」
「正解。じゃあ、あれは?」
 今度は花屋の向かいにある看板を指差し、フィシュアは問う。ぱっと花屋の向かいに目を移して、テトは唸った。
「う~ん。初めの文字は、さっきと同じはずだから“は”でしょう? えっと、だから、は……み……。あ! 蜂蜜!」
「正解! 大分、覚えてきたんじゃない?」
「そうかなぁ?」
 フィシュアから褒められたテトは照れながらも誇らしげな顔になった。気が高ぶっているせいか、少年の丸い頬も紅潮している。読める文字が確実に増えていることは、テトの自信に繋がっているのだろう。文句ひとつ言わず熱心に学習に励む少年の姿勢をフィシュアは好ましく思った。
「はい。じゃあ、次はあなた。あそこに書いてあるのは?」
 フィシュアはテトの真後ろについて歩く彼の魔人ジンに目を移して、再び出題を始める。指差したのは、ひしめき合う露店の上に掲げられた垂れ幕だった。
「――ようこそ、……市場、……ある」
 なんで俺まで、という顔をしながらも、シェラートは素直に緑地の布に白抜きで書かれている文字の一部を読みあげる。
「惜しいわね。正解は“ようこそ、ラルーの市場へ。ここには何でもある!"でした」
 答えを教えてやりながら、フィシュアは仏頂面のシェラートをまじまじと見つめた。
「本当にこの国に二百年もいるのに、単語しか読めないのね」
 感嘆するように言うフィシュアの表情は、呆れよりも驚きが色濃い。
「別に何の店か見分けるくらいの単語さえわかれば日常生活に不都合はないだろ」
「そりゃあ、そうかもしれないけど」
 せっかく文字の読み方を教えていやっていると言うのに、シェラートにはありがたさのかけらも見受けられない。ぶっきらぼうに返された言葉にフィシュアは反論しようとし――結局は面倒になってかぶりを振った。
「いや、……まぁ、いっか」
 シェラートは怪訝そうな顔になる。それを見ながら肩を竦めたフィシュアは、文句を口にする代わりに小さく嘆息した。


 今朝、と言っても、もうすっかり陽が昇り切った頃に起き出した三人は、遅めの朝食を取った後、旅の支度を整えるため、早速街の中心へと繰り出した。
 明るい日差しに照らされた市場は、昨夕に増して大勢の人でごったがえしている。一度でも、はぐれてしまったら再び出会うのに相当な苦労を要するだろう。混雑する人の合間を縫い、市場に立つ店を一軒一軒回っているうち、フィシュアはあることに気がついた。
 次は服屋に行こう、とフィシュアが二人に提案すると、彼女の隣を歩いていたテトはきょろきょろと辺りを見渡し服屋を探し始めたのである。すぐ目の前に、服屋を示す看板が掲げてあったにも関わらず、だ。
 その時はじめて、フィシュアは、テトは字がほとんど読めないらしいことに思い当たった。聞けば、テトはこれまで一度も学校へ通ったことがないと言う。
 ここ数年の間に都市部では学校が次々と建てられた。皇帝の名において教育の義務化が国中に公布されたのは誰の記憶にもまだ新しい。だが、テトが住んでいるような小さな村では、学校を建てることすらままならず、制度としてはまだまだ行き届いていない、というのが現状らしかった。
 そこでフィシュアは少年の連れである魔人ジンになぜ文字を教えていないのか、と聞いてみたのだが、シェラート自身この国の文字をよく知らない、と言う。元々シェラートはここダランズール帝国の生まれではなく、二百年ほど前この国へやって来たらしい。幸いなことに彼の祖国とこの国の言語は、文字は違えど話し言葉の上では、ほとんど共通だった。そのため、シェラートが日常生活で困ることは特になく、彼に言わせるならば、わざわざ文字を覚える機会も必要もなかったそうだ。
 二百年――それほど長い年月をこの土地で暮らしておきながら、文字に関心を示さなかったという彼に、フィシュアはいっそ敬服しそうになった。よほど二百年もの間、何をしていたのだ、と突っ込みたくなったが、結局はやめておくことにした。
 そうして、それならば、とフィシュアは早速二人に文字を教えることにしたのである。

「さて。もうそろそろいいかな」
 最後に食料をいくつか選び終えたフィシュアは、店の主人に買い取った品物を宿まで運んでくれるよう頼んだ。快く請け負ってくれた主人に別れを告げて、一行は目についた茶店に入る。
 砂漠に接している街と言っても、店先に設けられた長い庇の影に一度入ってしまえば、随分と涼しい。朝から歩き通しで火照った肌に、表から吹きこむそよ風は心地よかった。
 ちょうど昼時を過ぎたあたりの店内は客もまばらでのんびりとしている。早速、食べ損ねていた昼食を取り終えた三人は、口直しに出された花の香りのする茶とケーキを前に、ゆったりと流れる午後の一時を過ごすことにした。
「よし。買い損ねはないわね」
 リストを手に今日買った品物を確認していたフィシュアは、花茶を口にし、満足気に頷いた。カップを傍らに置いた彼女は、ふと自分に向けられた視線に気付いて小首を傾げる。
「何?」
「いや……本当にそれ便利だな」
 感心しながら言うシェラートの視線を追って、フィシュアは目を下げた。胸元に下がるラピスラズリの首飾り。今日訪れたどの店でも、フィシュアの首から下がる藍色の石を目にするや、店主たちは一様に驚き、喜び、そして商品の値段を格安に負けてくれたのである。中には、商品を無償で譲ってくれる者さえいた。
 その度に、シェラートとテトは、店側の熱烈な歓迎ぶりにも、慣れたように彼らの好意を受け取るフィシュアにも驚くばかりだった。
「ね? 頑張って取り戻したかいはあったでしょう?」
 いたずらめかせて笑んだフィシュアは、指の先で転がしたラピスラズリを摘み上げ、目の前にかざした。日の光が差し込まない店内で見る藍色の石は翳りを含んで黒にも見える。
 フィシュアはラピスラズリを口元に寄せた。石の冷たさを確かめるように、そのままラピスラズリを握りこんだ彼女の石と同じ色をした双眸は、ここではないどこか遠くを見据えているようでもある。
 その一瞬、彼女の仕草が、昨日垣間見た男のものと重なったようにシェラートは錯覚した。
「よかったのか?」
 思わず問いかければ、不可思議そうな顔が返ってくる。きまりが悪くなって、シェラートは手元のケーキのかけらをフォークの先で転がした。
「なんだ……その、お前は、あの領主と結婚しなくて本当によかったのか?」
「ああ。ザイール様のこと」
 フィシュアは握りこんでいたラピスラズリを口元から離すと、納得したようにちらりと藍石に視線を投げかけ、手を離した。掌から抜け落ちたラピスラズリは、すとりといつもの定位置へ舞い戻る。
 気を止める様子もなく涼しげな顔をしてケーキを食べ始めたフィシュアに、シェラートは「後悔しないんだな?」とさらに念を押した。
「あんな物好きそうはいないぞ? お前、顔立ちはよくて中の上だろう。お前にはもったいないほど顔はまあ、いい方だったし、性格は……よくわからんが、一応、お前のことは大切にしていた風だったじゃないか。何の用事があるのか知らないが、それを捨ててまで皇都へ行く価値はあるのか?」
「……なんだか最初の方聞き捨てならないんですけど?」
 フィシュアは冷やかな目でシェラートを睨む。「そんなことないよ!」とテーブルに手をついて身を乗り出したのはテトだった。
「フィシュアはすっごく綺麗なのに!」
 息巻いて反論するテトの勢いに押されて、テーブル上の食器がかたたと揺れる。きゅっと唇を真横に引き結んだテトの黒い瞳は真剣そのものだ。
「もう本当に、なんていい子なの!」
 テトの隣に座っていたフィシュアは、感極まった様子でテトをがばりと抱きしめた。勢いのあまり椅子ごと倒れそうになり、慌ててテトと椅子をフィシュアは引き戻す。「気をつけろよ」というシェラートの小言をフィシュアは軽く聞き流して、お礼にと自分の皿に盛りつけられている分から赤く熟した木の実をテトの皿へ取り分ける。
 フィシュア自身もケーキを口に運びつつ「でも、そう言えば」と嬉しそうに含み笑った。
「出会ってすぐに私のことを綺麗って褒めてくれたのは、テトがはじめてかもしれないわ。あれで、ザイール様もあの後だったし」
「“あの後”って?」
 貰ったばかりの木の実を早速、頬張りながら、テトは不思議そうにフィシュアを見上げた。一口で食べきるには少し大きいせいか、テトの左頬が見事にぽこりと膨らんでいる。微笑ましそうにテトを見つめるフィシュアが口を開こうとするのを見てとって、シェラートは大慌てでテトの耳を両手で塞いだ。
「――おっ前は! 子どもの前で一体何を言い出そうとしているんだ!」
「何って。あなたこそ、なんてこと考えているのよ。あいにく私はザイール様に夜伽なんてしていません」
 フィシュアは、呆気にとられているシェラートを半眼する。耳を塞ぐ手をどうにか退けようともがくテトと格闘しながら、シェラートはようやく自分の早とちりに気がついた。
「紛らわしい言い方するなよ」
 思い切り顔をしかめて、シェラートはぶつくさと文句を言った。
 それでもテトの耳から手を離そうとしないシェラートを見て、フィシュアは呆れ混じりに頬杖をつく。
「あなたがそうやって、何でも隠すからテトが何も学べないのよ」
「これは、まだ知らなくてもいいだろうが!」
 渋い顔をしながらも、シェラートはテトの耳から両手を離した。ようやく解放されたテトは「もう!」とシェラートを睨みあげる。
 しかし、それもつかの間。疲れたように黙り込んだシェラートと、再びケーキをつつき始めたフィシュアを交互に見比べて、テトは首を傾げたのだ。
「ねぇ。夜伽って何?」
 シェラートの努力のかいも空しく、テトには彼らの会話が丸聞こえだったらしい。無邪気に投げかけられたその問いに、シェラートは凍りついた。
 フィシュアは身体ごとテトに向き合うと、少年の茶色い頭にぽんと手を乗せた。
「テト。夜伽って言うのはね、つまり夜寝る前に話す御伽話のことよ? 今度、テトにはしてあげるわね」
「本当!? 約束だよ、フィシュア!」
「もちろんよ」
 目を輝かせて信じ切っているテトに対して、フィシュアはこっくりと頷いてみせた。
「おい」
 笑顔で快諾しているフィシュアにシェラートはテトには聞こえぬよう小声で話しかける。
「お前、なんて嘘ついてるんだ」
「子どもはまだ知らなくてもいいことでしょう?」
「さっき言ってたことと違うじゃないか」
「場合によりけりよ」
 けろりと言い放ったフィシュアを前に、シェラートは諦めの溜息をつく。それを他人事のように眺めながら、フィシュアは残りのケーキをぺろりと平らげた。


 茶店を出た三人は、しばらく目的もなく市場を歩いて回った。そのうち、右へ曲がれば宿、という分かれ道に挿しかかったところで、フィシュアは唐突に足を止めた。
「私、ちょっとこれから用事を済ませてこないといけないんだけど、あなたたちはどうする? 先に宿に戻っておく? それとも、もうちょっと市場をぶらぶらして回る?」
「宿に戻っていいって、馬がまだだろう?」
 てっきり最後に厩舎へ話をつけに行くのかと思っていたシェラートは、拍子抜けした気分で尋ね返した。
「ああ。それは私が帰りに調達してくるわ。そうだ。テトは馬に乗れるの?」
「う~ん。乗れるには乗れるけど、走らせるのはまだできないかも」
「そう。じゃあ、とりあえず二頭でいいわね」
 確認を済ませたフィシュアはポケットからお金を少し取り出し、「一応、念のため」と二人に差しだした。
 渡されたお金をありがたく受け取りながら、「どうする?」と視線を交わしたテトとシェラートは、結局、このまま宿に帰ることに決めた。
「ちゃんと夕方までには帰るから」
 またあとでね、と歩きだしたフィシュアは、急に足を止めると、彼らを振り返った。一体何事か、と怪訝そうな顔をしている黒髪の魔人ジンに向かってフィシュアは話しかける。
「さっきの話の続きだけど。私は別にザイール様のことを考えていたわけじゃないわよ? そりゃあ、確かにあと三カ月くらい一緒にいたら危うく求婚を受けちゃっていたかもしれないな、って思うくらいには最後の最後で揺れちゃったけど。私、結婚するなら国を動かせるくらいの財力と権力を持っている人じゃないといけないから」
 腹黒い内容とは裏腹に、フィシュアはむしろすっきりとした笑みを口の端にのせる。
「嫌な女だな」
「ま、そういうことなのよ。だから別に大丈夫だから。心配してくれたんでしょう? ありがとう」
 一応言っておこうと思って、とフィシュアは笑う。宿とは反対の方向へ歩きだしたフィシュアを見送りながら、「心配して損した」と深い溜息を吐きだしたシェラートは、テトを促して宿に向かう道を辿った。