2-6:調達【6】
テトとシェラートと別れたフィシュアがやって来たのは、ラルーの中心から外れた場所に建つ石造りの砦だった。
見るからに堅牢な造りの砦の前には長剣を腰に佩いた門番が二人、槍を手にして立ち並んでいる。彼らは、門に向って歩いてくるフィシュアの姿に気付くと、瞬時に緊張を走らせた。もともとよかった姿勢をさらに正し、かしこまった仕草で敬礼する門番に対して、フィシュアは「ご苦労」と一言、労いをかけて門をくぐり抜ける。二人の間をすり抜け、フィシュアは待ち人のいる砦の中庭を目指した。
砦の内部はどこも丁寧に掃き清められ整然としているが、飾り気一つない質素な造りになっている。彼女が向う中庭も、庭とは名ばかりで、あるのは申し訳程度に植えられた樹木と整備された地面だけだった。いこいの場としてより、普段はむしろ鍛錬場と化している。
石造りの回廊を抜けたフィシュアは、中庭に行き当たる場所で足を止めた。
ぽっかりとそこだけ開けている中庭には、砦に区切られたまるい空からさんさんと光が降り注ぐ。まばゆい日差しのもとに立つ背の高い男に向かって、フィシュアは片手を挙げた。
「ロシュ」
フィシュアは、予想と違わず待っていた人物に呼びかける。背の高い、焦げ茶色の髪を持つ武人は、振り返るやその夏空のような双眸に親しみを映してフィシュアを迎えた。
「お二人とは、無事会えましたか?」
「ああ。昨日は助かった。世話をかけたな」
「いえ」
朗らかに返したロシュは、歩み寄るフィシュアが差し出すがままに彼女の手をとり、地面に片膝をついた。彼が対峙する藍色の双眸は、他の誰よりも強い意思をいつだって宿してきた。「改めまして」とロシュは、フィシュアに頭を下げ、彼女の手の甲へ恭しく口づけた。
「ご無事で何よりでした、我が君」
「心配をかけた。なかなか抜け出す機会がなくてな」
「本当ですよ。あのままあの領主とご結婚なさってしまうのかと思いました」
冗談にしてはたちの悪いロシュの言いように、フィシュアは苦い顔をして、ロシュから顔をそらす。その仕草に、ロシュは苦笑しながら、主の手を離した。
「ホーク」
空へ向かって、フィシュアは呼びかける。呼応して、鋭いくちばしと鉤爪を持つ、茶色く大きな鳥がどこからともなく現れた。茶の鳥は、二人の頭上を一度旋回すると、力強い羽音と共に地上へと舞い降りる。
「お前にも心配かけたな」
フィシュアは茶の鳥の傍に膝をつき、羽に覆われた茶色い首の横を掻いてやった。ホークは、気持ちよさそうに目を細め、されるがままにじっとしている。
その様子を、ロシュは感心したように眺めた。
「やはりフィシュア様でないとだめのようですね。私も、ホークとはもう随分と長い付き合いのはずなのに、なついてくれるどころか、まったく触れさせてもくれません。それどころか、突かれそうになりますからね。ここ最近はフィシュア様に呼ばれることがなかったせいか、機嫌が悪くて特に大変でした」
「そうか」
荒れる茶の鳥と必死に格闘する武人の姿を思い浮かべてしまったフィシュアは、口に拳を添え、溢れだしそうな笑いを必死に噛み殺した。フィシュアから見ると決して仲が悪いわけでもないようだが、昔からじゃれあいと呼ぶには生易しくはない応酬をホークと繰り広げてきたロシュが言うのだから、今回はよっぽどのことだったのだろう。
フィシュアは、労いと謝罪を込めて、ホークを首元を軽く叩くと、ポケットから一枚の紙を取り出した。
「――何か、言付けですか?」
「ああ、ちょっとな。皇都につくのが、予定より少し遅れることになった」
いぶかしげに眉を寄せたロシュを横目で見やりながら、フィシュアは細く折りたたん紙を素早くホークの脚へ括り付け、艶のよい茶色の背を強く押した
途端、大きな翼を広げ、一羽の鳥は、砦の壁に区切られたまるく薄い空へと舞いあがる。
あっという間に点となってしまったホークを見送りながら、フィシュアは「任せた」と呟いた。
ホークが完全に視界から消えてしまうまで見届けて、フィシュアはロシュへ話を切り出した。
「ロシュは予定通り先にアエルナ地方を経由して皇都へ向かえ。私はミシュマールへ行く」
「それは、あの
自然、ロシュの声音は硬くなった。彼の主はわりに情に厚いところがある。一度知り合った者に何かあった場合、放ってはおけないのだ。
現に昨日、砦に留まるはずだったフィシュアは、
そうしたフィシュアの
ロシュの懸念を正しく読み取ったのか、フィシュアはかぶりを振って続けた。
「いや。結果的にそういう形になるが、それだけではない。どうやら現在ミシュマールでは未知の伝染病が出回っているらしい」
告げられた情報に息を呑むと、ロシュは表情を硬くして、フィシュアを見返した。
「それは、確かな情報ですか?」
深色の藍の瞳に鋭さを宿らせ、フィシュアは頷いた。
「確かだ。テト……あの少年は、その道の病に侵された母を助けるために、
「そればらば、私が参りましょう」
「ロシュが、いきなりあの二人と旅をするより、私がこのままあの二人と旅をするほうが自然だろう?」
「しかし!」
なおも、食い下がろうとするロシュに、フィシュアは嘆息する。未知の伝染病と聞いてロシュが身を案じてくれていることは、フィシュアにもわかっている。わかってはいる、が。
「――ロシュ。アエルナへ行け。アエルナでの仕事は、私一人では、ロシュの助けなしにできないが、ロシュなら充分一人でもやり遂げられるものだってこと、わかっているよな? だから、ロシュは先に行け」
ロシュは険しい表情を崩さぬまま、自分の主を見据えた。けれど、結局、折れたのは彼の方だった。いくら見合っても、フィシュアの方は少しも目をそらそうとはしなかったのだ。
「……承知しました」
本心では承知などしていないのがありありとわかるロシュの顔を下から覗き込み、フィシュアは微苦笑する。
「大丈夫。心配するな。もしも私が病にかかったとしても、きっとテトがまとめて治してくれと
フィシュアの言葉に、「だと、よいのですが」とロシュは力なく笑む。
「ロシュはちょっと心配しすぎじゃないか?」
「それを言うなら、フィシュア様はご自身の周りの者に優しすぎでは?」
二人は互いの言葉に苦笑すると回廊へと歩き出した。
これで、この話題は終わりだ。
「そうだ、ロシュ」
「何ですか?」
フィシュアはいつも心配しながらも常に傍らを歩いてくれる焦げ茶の髪の武人を見あげながら言った。
「ロシュも発つなら明日だろう? 今日の夕方、昨日の宿屋で執り行うから暇なら砦の者も連れて見に来るといい」
「それはもちろん、暇でなくても伺わせていただきます」
当たり前です、と朗らかに笑うロシュに、フィシュアは少し呆れ、小さな溜息をついた。
「あまり、無理するなよ?」
「それは、私の台詞です、我が君」
ロシュは砦の門の前で立ち止まると再びフィシュアの甲に口付けた。
「どうぞ、ご無事で」
「ああ」
真摯な空色の瞳がフィシュアを見つめる。じんわりと温かく、無骨な手を繋いだまま、フィシュアは彼の額に無事を祈る願いを返した。
そうして、フィシュアは門を出て、街の方へと帰って行った。
ロシュは門番たちと共に砦の門の前に佇んでいた。フィシュアの姿が街に消えるまで見送ろうと思ったのだ。だがしかし、猛然と砦へ引き返してきたフィシュアの姿を見つけ、驚きに目を見開く。
「フィシュア様!? どうされたのですか?」
一体何事が、とでも言いたげなロシュにそっぽを向け、フィシュアは小さく呻く。
「……馬を忘れた」
その瞬間、ロシュと傍に控えていた門番二人が、ぷっと吹き出した。腹を抱えて笑いだす。
「フィシュア様……そのおっちょこちょいなところどうにかなりませんか。なおしていただかないと、感動の別れが台無しです」
「うるさいっ!」
珍しく顔を赤くさせてばつの悪そうな顔をしているフィシュアに、やはり堪え切れず笑い続けながらも、後で馬を二頭宿に届けることを約束し、ロシュは陽の傾き始めた街へと再びフィシュアを送り出したのだ。