2-7:宵の宴



 フィシュアが宿に戻ってきたのは夕暮の空に早くも明星が輝き始めた頃だった。
 宣伝していたらちょっと遅くなった、というフィシュアの手には花や果物、菓子などが山のように積まれていた。
 仕入れたものよりも多いであろう、その贈物の品々をテト達の部屋に置くと、「仕度があるから先に下に降りてて」と言い残し、フィシュアはさっさと自分の部屋へと引きあげてしまった。
 一体これをどうするんだ、とシェラートは嘆息する。横ではテトがさっそく菓子の一つをつまみだしていた。
「テト……」
 呆れた表情をしているシェラートに、テトは再び菓子へと手を伸ばしながら言い訳をする。
「だって、これ明日、運べないでしょう? 今食べないともったいないじゃないか」
「そうだけど、今から夕飯なんだから少しにしておけよ」
「はーい!」
 返事だけは元気よく、テトは懲りずにまた菓子をパクパクと食べはじめた。どうにも止まりそうにないその手を見て、シェラートは思わず溜息を漏らす。
 夕食には、まだ少し早めではあるがシェラートはテトを連れて一階へと向かうことにした。

***

「何これ!?」
 一階へと降りたテトとシェラートは思いもよらなかった光景に行き遭って目を丸くした。
 昨日までは閑散としていた、というのは失礼極まりないが、実際にそうであったその場所は見渡す限り人で覆い尽くされていたのである。
 その人の多さに、予備の席がいくつも出されているようだったが、それでも全く足りていないようだった。
 しかも、部屋に入らなかった人たちが外へと続く扉の向こうにも溢れ返っている始末だ。扉も窓も全て開け放たれ、あぶれた人たちが、そこから中の様子を窺っている。
 単に一くくりに大勢の人と纏めても、その中にはまさに子どもから年寄りまでと様々で、普段は日暮れ後にこういった場所には寄り付かないだろう者まで来ている。その異様な様は街中総出の祭りがあっているといっても過言ではなかった。
 先に下に降りてて、と言われたのはいいが、階段までその人だかりが押し寄せてきていて、とても降りられるような状態ではない。
 ごった返す客の間を縫って、注文をとったり、料理を運んだりして慌ただしく立ち回っていた女将は、階段の上の方で立ち尽くしている二人に気付くと周りの騒々しさに負けじと、声を張り上げ、二人に声を掛けた。
「すみません、シェラートさん、テトさん。この状態ですので、ちょっと席が用意できなくて。料理は後ほどきちんと運びますので、すみませんが、そちらでもよろしいでしょうか?」
 この状況では仕方がないだろう、とシェラートとテトは片手をあげ、了承の意を伝える。
 それを見て、ほっと胸をなでおろした女将は、ふふっ、と微笑むともう一度二人に向かって口を開いた。
「でも、この人込みですからね、そこが一番の特等席かもしれませんよ?」
 何が、と問いかけようとした二人の言葉は集まった人々のざわめきによってかき消された。女将も客の中へと紛れ、再び慌ただしく彼らの合間を行き交いはじめる。
「結構集まったわね」
 背後から聞こえてきた声に二人が振り向くと、フィシュアが立っていた。
「フィシュア、綺麗……」
「ありがとう」
 そう言って微笑み、テトの頭をなでたフィシュアの様相は、昼間とはまったく異なっていた。
 一つに束ねられていた薄茶の髪は、今は複雑に編みあげられている。足元を覆い隠すほどに長く、澄み渡った高い空に似た薄青の紗のドレスはフィシュアが少し動くだけでひらひらと揺れた。先程、二人の部屋を訪ねてきた時からは随分と様変わりしたフィシュアのいでたちは、宿の様子が一変したことと同等の驚きを二人にもたらす。
 ただ一つ変わらないのは、完全な夜に落ちる前と同じ色のラピスラズリがついた首飾りだけだった。

 フィシュアが階段をくだりはじめると、その間には自然と道ができ、周りの人々は彼女の動きの優雅さに静まりかえった。そのままフィシュアは用意された舞台へとのぼると、集まった観客を見回し、一礼する。
 静寂に満たされた部屋。人々が息をつめて見守る中、高く、澄んだ、美しい響きが奏でられはじめた。
さぁ 宴を始めましょう
今 ここに 宵の歌姫 舞い降りたる

 フィシュアは胸に手を当て、もう片方の手を水平に上げると、今度は深く礼をした。
 その所作と同時に、フィシュアの両中指と繋がっている薄い青のドレスの一部がふわりと広がる。
 まるで蝶が音もなく羽を広げたような光景と宵のはじまりに落ちた澄んだ歌声。しん、と静まりかえっていた街の人々は皆、我に返ると慌てて壇上にいる宵の歌姫へと、一斉に割れんばかりの拍手を送った。
 それを合図にフィシュアは再び歌い始める。

星が瞬く夜 あなたはどこにいるのでしょう
太陽が大地を照らす朝 あなたはどこにいるのでしょう
雨が虹を照らす夕 あなたはどこにいるのでしょう

できれば そのとき わたしも そばに
できれば そのとき わたしの そばに


 凛とした甘さのない声で紡がれるその歌は、ありきたりな恋の歌だった。
 それでも人々はその歌に、その音色の心地よさに、ほう、と溜息をつく。
 フィシュアはその後も何曲か歌った後、夢見心地でいる人々に向かって両手を広げ、にっこりと笑いかけた。
「今度は皆さんも一緒に歌いましょう」
 そう言ったフィシュアが次に紡ぎだしたのは、ラルーがあるこのチェドゥン地方に伝わる古い民謡だった。
 集まった人々は、「そんな恐れ多い」とお互いに顔を見合わせていたが、その中から高い声がいくつも聞こえ始めた。
 知っている民謡を聞いて、嬉しそうに子供たちが歌いだしたのである。子供たちを見て、「おう、俺も歌うぞ」と、すでに酔っ払っている男が加わった。それをきっかけに、周りの人々も囁くような小さな声で楽しそうに歌を口ずさみはじめる。
 小さかった歌声は寄り集まることで次第に大きくなっていき、ついにはこの場に集った者、皆での大合唱となった。
 続く曲も、やはりこの街に馴染みの深いもので、再び楽しそうに歌いだし、中には踊りはじめる者も出てきた。
 終いには各々が陽気に歌い、踊りだし、まるで本当の祭り並の騒ぎとなった。
 それで、舞台はお開きとなり、後はまだ歌う者もいる中で、それぞれが談笑し、料理を食べながら、宴は続けられた。

 ひとしきり街人たちに囲まれていたフィシュアだったが、その輪を抜け出すとテトとシェラートのいる階段へと向かう。
 近づいてくるフィシュアに気が付いたテトは、階上から、ぶんぶんと手を振った。
「のど乾いた」
「……第一声がそれかよ」
 シェラートは半ば呆れつつも、女将が持ってきてくれた水差しから水をコップに注いでやると階段にへたり込んだフィシュアに渡してやる。
 フィシュアはその水を飲みおえると、二人を見上げて、悪戯が成功した悪童のように、ニヤリと笑った。
「驚いたでしょう?」
「うん! びっくりした。フィシュア、すっごく歌上手なんだね!!」
 にこにこと率直な感想を述べるテトの栗色の髪を撫でながら、フィシュアは目でシェラートにも感想を求めた。
「確かに歌はうまかったな」
 テトとは対照的にぶっきらぼうに答えたシェラートに、フィシュアは少し肩を落とす。
「まぁ、あなたに褒めの言葉は期待してなかったけど。もう少し何かあるんじゃない?」
「ちゃんと褒めただろう。まぁ、普段よりも歌ってる時のほうがいいんじゃないか? あの領主も落ちたわけだ」
 ふむふむと納得したように頷くシェラートに、さらに肩を落とし、フィシュアはそれ以上感想を求めるのをやめることにした。
「大体、そんな隠すことでもないだろう」
 シェラートの言葉に顔を上げたフィシュアは恨めしそうな表情で二人を見据える。
「だって、二人ともまったく知らないから。これでも宵の歌姫として結構有名な自信はあったのに。テトは知らないにしても、あなた二百年もこの国にいるんでしょう? このラピスラズリの首飾りは代々宵の歌姫に受け継がれているものなの。一度も聞いたことがないの?」 「聞いたことはあるかもしれないが、覚えてない。知っていたって特に役に立つことでもないだろう」
 どうでもよさそうなその態度にフィシュアは嘆息する。
「まぁ、だから、ちょっと意地になったのよ。宿代がただになったのは、私が歌うことでそれに見合った分か、それ以上の利益が宿屋に入るからなの。街の人がくれたものは親切だけど」
 その説明にテトとシェラートは揃って「なるほど」と頷く。
 でも、と言ったテトの口がそのまま、ふわわ、とあくびへと変わった。
 眠いのか? と尋ねるシェラートにかぶりを振って否定しながらも、テトは目をこする。
「でも、フィシュア本当に綺麗だったよ、って言おうと思ったの」
 フィシュアに笑みを向けながらも、テトの顔が再びあくびに包まれた。
 もう、夜もだいぶ深まった時間である。今日は遅く起きたといっても、やはり旅の疲れは完全にはとれていないのだろう。
 フィシュアはテトの栗色の髪を優しく撫でながら目を細めた。
「疲れたのでしょう? 休んだといっても今日もたくさん歩いたものね。もう休みましょうか?」
 しかし、テトは眠気を覚ますように、ぶんぶんと首を振るとフィシュアに言った。
「まだ、大丈夫だよ。だって、フィシュア、夜伽をしてくれる約束でしょう?」
 その言葉に、さすがのフィシュアもテトの頭の上で手が固まった。
 自分が言い出したことではあるが、まさかこういう形で返ってくるとはと、思わず苦い笑みを浮かべてしまう。
 見るとシェラートが顔を引きつらせていることはさることながら、その周りでは、まだ可愛らしいと言ってもよい少年の発した言葉が聞こえてしまったらしい人々が揃って目を丸くし、こちらを見ていた。
 ただ、その中のごく一部、フィシュアのすぐ近くの階段に座っていた、がっしりとした体つきの男たちだけが、腹がちぎれんばかりに大声で笑っている。
 フィシュアはその方向へ、冷ややかな視線を投げかけると、テトに向きなおって微笑んだ。
「テト、夜伽じゃなくて夜の御伽話でしょう?」
「……う、うん」
 一見いつもと同じだが、それが昨日砂漠で対峙したフィシュアの凄みのある笑みと重なって見えたテトは、よくわからないが、とりあえず同意しておくことにした。
 その様子に勘違いだったらしい、と安心したのか周囲の人々は元の談笑へ戻る。けれども、近くの男たちはいまだ必死に笑いを噛み殺そうとしていた。
 そんな男たちを無視して、フィシュアはテトが頷いたのを確認すると、今度こそ本当の笑みを向ける。
「御伽話はちゃんと寝る前にしてあげるから、もう部屋に帰りましょう」
 テトがそれに同意すると、まだ目をこすり続けている小さな契約者をシェラートが抱き上げ、三人は宴を後にした。