だんっ、と店台に両手をつかれ、花屋の店主トトゥティは、エプロンで隠していても目立つ突き出た腹を震わせ飛びあがった。
「やっぱり、どうしてもわからなかったのですが!」
 やたら身なりのよい貴族の御曹司が店台越しに迫ってくる。鬼気迫る雰囲気にのまれ、トトゥティはのけぞった。
 まだまだ冬のさなかながら、それでも暦の上では近づきだした春に、行き交う買い物客たちもどこか浮き足立って見えた晴れた日の夕暮れ。店先に出していた切り花がすべて売り切れてしまったこともあり、今日は早めに店じまいをして、のんびり散歩でもしながら家路につこうか、と考えていた矢先のことだった。
 眼前に迫るのは忘れるはずもない、かの名門ラグナド家の四男坊だ。先日、自らそう名乗った彼は、魔女の弟子に迫った無謀者として、今や王都に住む者なら誰もが噂で知っている存在である。
 王立大学にほど近く、学生街とも呼ばれるこの界隈。貴族の子女が花を求めてふらりと立ち寄ること自体はそう珍しくはない。
 けれど、巷で噂の張本人が店に来たものだから、あの日はひどく驚いたのだ。
「ニコニコ花屋店主の……ええと」
「トトゥティです。エドワルド様」
「申し訳ない、トトゥティさん」
「いえ、そんな、えっと」
 滅相もない、とトトゥティは、しどろもどろになりながら、ふるふると首を横に振った。
 身に覚えはまったくないがお貴族様にいったいどんな粗相をしてしまったのかと怯えるトトゥティをよそに、エドワルドはますます真剣味を帯びた顔をずずずいと花屋の店主に寄せた。
「実はここで先日買った種のことで聞きたいことがありまして」
「あ、はい」
「買ったのは、ルル、デ……なんでしたっけ?」
「ルデーラの種?」
「そう。それです!」
 ぱんっ、と店台を手で打ってエドワルドは破願した。びくりとトトゥティは、身を震わせる。
「何か不備でもございましたか?」
 恐る恐るトトゥティは、尋ねた。
「不備、といいますか、芽がでなかったんです。その理由を知りたくて」
「え、でなかったんですか?」
「でませんでした。種を撒いてちゃんと一週間待ったんですが一つも芽吹きませんでした」
「水は、ちゃんと撒いたんですかね?」
「もちろん! 撒きましたとも! 言われた通り、ちゃっちゃーと」
「それなのに、芽がでなかったと」
「でませんでした」
「それは……」
 おかしいですね、と、トトゥティは唸った。正直、彼に売ったルデーラの種は、言うなれば赤子がその辺の庭にうっかりばらいてしまったとしても、水さえ与えれば芽生えるような類いの野菜だ。植木鉢でも手軽に育てられる。収穫した葉はサラダにそのまま使える上、シャキシャキと歯触りがよく味に癖もないため、家庭菜園初心者に人気が高い。それをどうしたら失敗するというのか。
「その、失礼ですが、あなた様のお宅の畑を管理されている方は、何かにおっしゃっておりましたでしょうか」
「いや。管理している者は僕の他には特におりません。一人で育てていたので。けど、そういえば、見てもらえば何かわかったかな?」
「そう言ったって、ご自宅でしたら他の方も気にかけて、ちょっとくらい見てくれるもんじゃないんですか?」
「ああ。自宅じゃなくて、畑用に友人から譲り受けた家なんです。なにせ家からは少しばかり離れていますし、ちょっとと思って見てくれるような距離じゃないんですよね」
「離れてるって、どのくらい……」
「馬で駆けてざっと三十分くらいですかね?」
 ええと、つまり、どういうことだ、と店主のトトゥティは混乱しはじめた頭で考えた。
「……城門の外になりません?」
「そちらのほうが都合がよくって」
「都合が?」
「えっと、彼女に会うのに、です」
 ははっ、と目の前の青年は照れをごまかすように笑って、もしゃもしゃとあちこちに跳ねのある頭をかいた。ちょこりと後ろ毛をリボンで結ぶほど余裕のある豊かな髪は、最近とみに髪が薄くなりはじめたトトゥティには羨ましいくらいである。
 あぁ、はぁ、なるほど、とトトゥティは愛想笑いを崩しかけながら、はたと思い至った。
「え、では、それって、もしかしなくても荒野なんじゃ」
 あの東の魔女の住んでいる。
 言いかけて、トトゥティはその先を呑み込んだ。
 遠いとは言えないが、近いとも言い難い。王都からも公道からも外れたその場所は、人が近寄るような場所ではないし、まして只人が住めるような場所ではない。
 少なくともトトゥティは公道からそれてみたことすらない。並木に囲われた公道を外れれば強風に煽られるばかりだとか、そもそも荒野が広がるばかりの不毛の地に用がないからだとか、そういう理由だけではない。
 単純におっかないのだ。
 幼い頃、祖母のやわい膝に抱えられて聞いた昔語りで、東の魔女は都を滅ぼそうとしたことがあると聞いた。王城の西の森にあった離宮はその際に、一夜で焼け落ちたという。
 ――だからトトゥティ、よい子にしておかないと、あっという間に東の魔女に連れていかれて、焼かれたお前は、ぱっくりと魔女に食べられちまうよ、といつだってそう続いた祖母の昔語りは、今考えれば幼い子を、脅かす類のものだったのだろう。
 焼けたという離宮も現存するはずがなく、そもそも本当にあったのか、真実は定かでない。だが、少なくとも、トトゥティと同じ世代の王都に住む者たちは、よその土地の者よりも、どこかで常に魔女に対する恐れを抱えている。
 もしかして、どうしても叶えなければならない願いがあれば、近づくかもしれない。しかし、幸いなことに、トトゥティは五十三となるこの歳まで、そういう目にもあわなかった。
 だが、そういえば、魔女の弟子とこの四男坊の噂を聞いたここらの若い衆は、なにやらおもしろおかしそうに話題にだしていたから、もう自分たちのように考える者のほうが少ないのかもしれないなぁと、トトゥティはいくらかさみしく思う。
 まして、彼らよりもさらに若いこの貴族の四男坊にしてみればなおさらだろう。
 トトゥティは、東の魔女の弟子に恋したという貴族の四男坊を、奇妙な気持ちであらためて眺めた。
 この間も嬉々としてやって来たし、さっきだってただただ恋する相手を想って照れて笑っていた。そこに恐れなど、やはり微塵も感じられない。どこからどう見ても、その辺にいる若者が恋しているときとなんら変わらない。
「そうですけど、それで、どうなんでしょう?」と、目の前の貴族の四男坊は問いかけてくる。
 ああ、そうだった、彼が買ったルデーラの話だったと、トトゥティはここに来て、はたと思い出した。
 はて、何がどう転んで、魔女の弟子に恋した貴族のぼんぼんが荒野で野菜を育てようなんて思ったのか、まったくもってわからない。まさか彼がこの間ここに来たことが、魔女の弟子に繋がっていたとは思いもよらなかった。
 だが、とにかく、トトゥティからこの恋する若者にできる助言は、たった一つ。いつの間にか、粗相に怯える気持ちよりも呆れのほうが圧倒的に勝っていた。

荒野そこで育てるんなら、うちにあるどんな植物だって無理ってもんですよ」