「じゃあ、あれは?」
「えっと、……な……? 何だろう?」
「ヒント! あの看板の下にあるのは?」
「―――あ、花! 花屋!」
「正解」
フィシュアは、テトの頭をクシュクシュと撫でると、今度は花屋の向かいにある看板を指さした。
「じゃあ、あれは?」
「う~ん、初めの文字は、さっきと同じだから“は”でしょう? えっと、だから、は……み……、あ! 蜂蜜!!」
「正解!! 大分覚えてきたんじゃない?」
「そうかなぁ~」
褒められて、照れながらも誇らしげな顔をするテトをフィシュアは優しい目で見守る。
それから、テトのすぐ後ろを歩く彼のジン(魔人)を見やると、フィシュアは再び出題を始めた。
「はい、じゃあ次はあなた。あそこに書いてあるのは?」
そう言って、市場にひしめき合う露店と露店の間にかかる緑地に白の字で書かれた垂れ幕を指す。
「―――ようこそ、……市場、……ある」
なんで俺まで、という顔をしつつも素直に答えるシェラートに、フィシュアは正解を教えてやった。
「正解は、“ようこそ、ラルーの市場へ。ここには、何でもある!” でした。本当にこの国に200年もいるのに単語しか読めないのね……」
呆れというよりも驚きの方が大半を占めているフィシュアの表情にシェラートはぶっきらぼうに返した。
「別に店の名前くらいの単語さえ分かれば日常生活に不都合はないだろう?」
「まぁ、そうかもしれないけど……、いや、まぁ、いっか」
せっかく文字の読み方を教えてやっているというにもかかわらず、ありがたさのかけらも垣間見えないシェラートの言葉に、フィシュアは反論を試みようとした。けれど、途中でなんだか面倒くさくなり、やめることにして、代わりに小さく嘆息するにとどめたのだ。
今朝、と言っても、もう日が昇りきった頃に起き出した三人は遅めの朝食を取った後、早速旅に必要なものを揃える為に街へと繰り出したのである。
だが、人でごった返す市場を歩いているうちに、フィシュアはあることに気が付いた。
次は服屋に行こう、というフィシュアの提案に、テトはきょろきょろと辺りを見渡し服屋を探し始めたのである。目の前に服屋を示す看板が掲げてあるにも関わらずに、だ。
それを見たフィシュアは、どうやらテトは字がほとんど読めないらしいということに思い当った。
聞くと、学校へは行ったことがないと言う。最近都市部では学校が建てられ、教育が義務化され始めたのだが、テトが住むような小さな村には、まだまだ行き届いていない、というのが現状らしかった。
そこで、今度はシェラートに、なぜテトに文字を教えてないのか、と聞いてみると、自分もよくは知らない、と答えられた。もともとシェラートはこの国の生まれではないし、200年ほど前にこの国へやって来たが、祖国とこの国の話し言葉は共通であった為、わざわざ文字を覚える機会も必要もなかったと言う。
フィシュアは200年もの間、一体、何をしていたんだ、と突っ込もうかとも思ったが、やはりやめておくことにした。
そして、それならばと、早速この二人に文字を教える為、講義を始めることにしたのである。
「さて、もうそろそろいいかな」
最後に食料を買い込むと、店の主人に宿まで運んでくれるように頼んだ。
その後に入った茶店で、今日買った品物のリストを眺めながらフィシュアは花の香りのする茶を飲む。
昼食をすでに済ませた三人は、最後に出されたケーキを食べながら一時の休憩をくつろいでいた。
「―――本当に、それ便利だな」
シェラートはフィシュアの胸元に下がるラピスラズリの首飾りを見ながら感心したように呟いた。
さっきから、訪れたどの店でもフィシュアの首飾りについた藍い石を目にするや否や、店主たちは、驚き、喜び、そして商品の値段を格安にまけてくれたのである。中には無償で商品をくれる者さえあった。
その度に、シェラートとテトはそういった店の者たちの行動にも、それを慣れたように受け取るフィシュアにも驚きっぱなしだったのだ。
「ね、頑張って取り返したかいはあったでしょう?」
そう言って、ラピスラズリを口元へと持っていったフィシュアの瞳はここではないどこか、遠くを見据えているようだった。シェラートには、その姿が昨日見た男の仕種と重なった―――ように見えた。
「―――けどよかったのか?」
「何が?」
シェラートは間が悪そうに手元のケーキのかけらをフォークで転がす。フィシュアはシェラートが突然発した言葉が理解できずに、深く藍い瞳に疑問の色を浮べた。
なおも、フォークの先でケーキをつつきながらシェラートは言葉を続けた。
「―――ほら、あの領主と結婚しなくて本当に良かったのか?」
「あぁ、ザイール様のこと……」
フィシュアは口元へと寄せていた濃い藍の石を外すと、一度納得したようにラピスラズリを見て手を離し、胸元へと戻した。
「だって、あんな物好き滅多にいないと思うぞ? お前の顔だちは良くて中の上だろう? お前には勿体無いほど顔は、まあ、いい方だったし、性格は……よく分からんが、一応、お前のことは大切にしてた風だったじゃないか。何の用事があるのかは知らないが、それを捨ててまで、皇都へ行く価値はあるのか?」
「…………なんだか、最初の方、聞き捨てならないんですけど。確かにそんなに綺麗な方じゃないのは認めるけど、少なくとも中の中のあなたに言われる筋合いはないわ」
フィシュアは冷ややかな目をして、そう言い放つと、怒ったようにカップに残った花茶を一気に飲み干した。カップを受け止めた皿がガチャリと音を立てる。
テトもケーキを食べていた手を止め、机に両手をついて体を乗り出すと、すぐさまシェラートに反論した。
「そんなことないよ! フィシュアはすっごく綺麗なのに!!」
「―――もう、本当に、なんていい子なの!!」
フィシュアは横に座っていたテトをガバッと抱きしめた。たが、その勢いで椅子ごと倒れそうになり、慌ててテトと椅子を引き戻した。
それから、お礼と言って、自分の皿からテトの皿の上へと赤い木の実を乗せつつ、自身もケーキを一かけら口に含む。
「でも、そういえば、初めっから綺麗って言ってくれたのは、テトだけかも。ザイール様はあの後だったし」
「あの後?」
もらった木の実をほっぺたに入れたままテトは不思議そうにフィシュアを見上げる。
テトの姿に微笑みながらフィシュアが口を開こうとしたその時、シェラートは慌ててテトの耳をふさいだ。
「おっ前、子供の前で何言いだそうとしてるんだ!!!」
耳に当てられた手をはずそうともがくテトと格闘中のシェラートをフィシュアは白い目で眺める。
「あなたこそ、なんてこと考えてるのよ。あいにく私はザイール様に夜伽なんてしてません」
自分の勘違いに気付いたらしいシェラートは、「紛らわしい言い方するなよ」とぶつくさ呟いた。
それでもテトの耳から手を離す気配がないのを見て、フィシュアは呆れの溜息をつく。
「あなたがそうやって、なんでも隠すからテトが何も学べないのよ」
これは知らなくてもいいだろう、と渋い顔をしながらもシェラートはパッとテトの耳から両手を離した。
テトは「もう!」とシェラートを睨みながらも二人を見上げると首を傾げて問いかけた。
「ねぇ、夜伽って、何?」
努力もむなしく全て聞こえていたらしいことを示すテトの疑問にシェラートの顔が凍りついた。
その横で、フィシュアはテトの頭にポンッと手を乗せると微笑み、テトの顔を覗き込んだ。
「テト、夜伽っていうのはね、夜寝る前にする御伽話のことよ? 今度テトにはしてあげるわね」
フィシュアの言葉にテトは目を輝かせて頷いた。
「約束だよ、フィシュア!」
「もちろんよ」
快諾するフィシュアにシェラートはテトには聞こえぬよう小さな声で話しかける。
「お前、なんて嘘ついてるんだ」
「子供はまだ知らなくてもいいのよ」
「さっき言ってたことと違うじゃないか……」
「場合によりけりよ」
けろりと言放ったフィシュアに、シェラートは呆れの混じった眼差しを送る。それを軽く受け流しつつ、フィシュアは残りのケーキを口へと運んだ。
「私、ちょっとこれから用事を済ませてこないといけないんだけど、あなた達はどうする? 先に宿に戻っとく? それとも、もうちょっと市場をぶらぶらして見て回る?」
茶店を出た三人は再び市場を歩いていた。すると急に、右へ曲がれば宿、という分かれ道に来たところで、フィシュアが立ち止まり、二人に問いかけてきたのだ。
「宿に戻ってていいって、馬がまだだろう?」
「それは、私が帰りに調達してくるわ。そうだ、テトは馬に乗れる?」
「う~ん、一応乗れるけど、走らせるのはまだできないかも」
「そう。じゃあ、とりあえず二頭でいいわね」
確認だけ済ませるとフィシュアは懐からお金を少し取り出し、一応念の為、と二人に差し出した。
それを受取りながらも、どうする? と視線を交わしたテトとシェラートは、とりあえず宿へと戻ることに決めた。
ちゃんと夕方までには戻るから、と二人に微笑みかけ、歩き出そうとしたフィシュアはふと足を止めると怪訝そうな顔をしている黒髪のジン(魔人)に話しかけた。
「さっきの話の続きだけど、私、別にザイール様のこと考えてたわけじゃないわよ? そりゃ、確かにあと三ヶ月くらい一緒にいたら危うく求婚を受けちゃってたかもしれないなって思うぐらいには、最後揺れちゃったけど。私、結婚するなら国を動かせるくらいに財力と権力持ってる人じゃないといけないから」
フィシュアは腹黒い内容とは裏腹の極上の笑みを見せる。
「―――嫌な女だな……」
「ま、そういうことだから別に大丈夫だし。心配してくれてたんでしょう? ありがとう」
宿とは反対の方へと歩き出したフィシュアの背中を見ながら、心配して損した、と深い溜息を吐き出すと、シェラートは宿へ向かう道へとテトを促した。
テトとシェラートの二人と別れた後、フィシュアがやって来たのはラルーの街の中心から少し離れた石造りの砦だった。いかにも堅固そうなその砦の前には長剣を腰に佩いた門番が二人、姿勢を正して立ち並んでいる。彼らはフィシュアの姿を目にすると、かしこまった表情になり、彼女に対して敬礼をとった。
フィシュアは彼らに、「ごくろう」と声を掛けると、二人の間をすり抜け、砦の中央にある中庭へと向かった。
中庭へと続く回廊を抜けると、目的の人物はもうすでに来ていたようで、フィシュアの到着を待っていた。
「ロシュ」
ロシュと呼ばれた、背の高い、いかにも武人風の焦げ茶の髪をした青年は、声のした方向へと振り返る。その薄い空色の目がフィシュアの姿を捉えると、彼は表情を崩して親しげな笑みを向けた。
「お二人とは無事会えたのですか?」
「あぁ、昨日は助かった。無理を言って悪かったな」
近づいてきたフィシュアに、「いえ」と朗らかに返すとロシュは自分よりも背の低い、けれども誰よりも強い意志を宿す藍の瞳の持ち主と正面から対峙する。
それから、ロシュは剥き出しの地面に片膝をついて跪ずき、フィシュアの手を取ると、彼女の甲に口付けを落として、臣下の礼をとった。
「改めて、御無事で何よりでございます、我が君」
「心配をかけたな。なかなか抜け出す機会がなくて」
「本当ですよ。そのままあの領主と結婚されてしまうのかと思いました」
苦い顔をして顔をそらしたフィシュアにロシュは苦笑しながらその手を離した。
「ホーク」
空へ向かってフィシュアがそう呼び掛けると、どこからともなく鋭いくちばしと鉤爪をもった茶色の大きな鳥が現われた。その鳥は二人の頭上を一度旋回すると、力強い羽音と共に地上へと舞い降りた。
「お前にも心配掛けたな」
そう言ってフィシュアが羽根に覆われた茶色い首の横を掻いてやると、ホークは気持ちがよさそうに眼を細めた。
その様子をロシュは感心したように眺める。
「やはり、フィシュア様ではないとだめのようですね。私もホークとは長い付き合いのはずなのですが、全く触らせてくれません。それどころか、突かれそうになりますからね。ここ最近はフィシュア様に呼ばれることがなかったせいか、機嫌が悪くて特に大変でした」
「そうか」
荒れるホークと必死に格闘する武人の姿を思い浮かべてしまったフィシュアは口に手を添えて溢れ出そうな笑いを必死に噛み殺し、代わりにポケットから一枚の紙を取り出した。
「―――なにか、言付けですか?」
「あぁ、ちょっとな。皇都へ着くのが予定より少し遅れることになった」
不思議そうな顔をして眉を寄せたロシュを横目で見やりながら、その紙を細く折りたたみ素早くホークの足へくくりつけると、フィシュアは茶色の背中を強く押した。
途端、大きな翼を広げ、砦の壁によって区切られた丸く薄い空へと一羽の鳥が舞い上がる。
フィシュアは一言「任せた」と呟き、あっという間に点となってしまったホークを見送った。
ホークが完全に二人の視界から消えた後、フィシュアはロシュへと再び話を切り出した。
「ロシュは予定通り先にアエルナ地方を経由して皇都へ向かえ。私はミシュマールへ行く」
「それは、あのジン(魔人)とその契約者に何か関わりがあるのですか?」
フィシュアには割と情に厚いところがある。一度知り合った者に何かあった場合はほっとけないのだ。
現に昨日砦に留まるはずだったフィシュアはジン(魔人)とその契約者の置かれるであろう状態に気付き、慌てて飛びだしたのである。ロシュはただそんなフィシュアに付き従って、二人を捜したにすぎなかった。
そうしたフィシュアの性(さが)は長所であると同時に危惧となりうるものでもあった。
そんな複雑なロシュの心境を読み取ったのか、フィシュアはかぶりを振って続けた。
「いや、結果的にはそういう形になるが、それだけではない。どうやら現在ミシュマールでは未知の伝染病が出回っているらしいのだ」
告げられた情報に息を呑むと、ロシュは表情を固くしてフィシュアを見返した。
「―――それは、確かな情報ですか?」
深く藍い瞳に鋭さを宿らせ、フィシュアは重々しく頷く。
「確かだ。テト……あの少年はその未知の病に冒された母を助ける為にジン(魔人)と旅をしている。私は現状を把握する為にも一度そこを訪れなければならない」
「それなら、私が参りましょう」
「お前がいきなりあの二人と旅するよりも、私がこのままあの二人と旅をする方が自然だろう?」
「―――しかし!」
尚も食い下がろうとはせず、反論を示す空色の瞳にフィシュアは嘆息する。未知の伝染病と聞いてロシュが身を案じてくれていることなど、フィシュアにも、もちろん分かってはいる。
だが―――――
「ロシュ、お前にはアエルナでやるべき仕事があるだろう? それは私一人ではお前の助けなしにできないが、お前なら充分一人でやり遂げられることであることも分かっているよな? だから、お前は先に行け」
ロシュは険しさを崩さぬまま、自分の主を見据えた。けれど、結局折れたのは彼の方だった。いくら見合っても、フィシュアの方は少しも目をそらそうとはしなかったのだ。
「……承知しました」
本心では承知などしていないといったロシュの顔を下から覗き込み、フィシュアは微苦笑する。
「大丈夫だ。心配するな。もしも私が病に罹ったとしても、きっとテトがまとめて治してくれとジン(魔人)に頼んでくれるだろう」
フィシュアの言葉に、「だといいのですが」とロシュは力なく笑む。
「ロシュはちょっと心配しすぎだ」
「それを言うなら、フィシュア様は御自分の周りの者に優しすぎです」
二人は互いの言葉に苦笑すると回廊へと歩き出した。
それが、この話題に関する話が終わったことを告げる。
「そうだ、ロシュ」
「何ですか?」
フィシュアはいつも心配しながらも常に傍らを歩いてくれる焦げ茶の髪の青年を見上げながら言った。
「ロシュも発つなら明日だろう? 今日の夕方、昨日の宿屋で執り行うから暇なら砦の者も連れて見に来るといい」
「それはもちろん、暇でなくても伺わせていただきます」
当たり前です、と笑うロシュにフィシュアは小さな溜息をつく。
「―――あまり、無理するなよ?」
「それは、私の台詞です、我が君」
ロシュは門の前で立ち止まると再びフィシュアの甲に口付けた。
「―――どうぞ、ご無事で」
真摯な空色の瞳がフィシュアを見つめる。じんわりと温かく、固い手をつないだまま、フィシュアは彼の額に無事を祈る願いを返した。
そして、フィシュアは街の方へと帰って行った。
フィシュアの姿を見えなくなるまで見送ろうと、ロシュは門番たちと共に砦の門の前に佇んでいた。だが、しかし、猛然と砦へ引き返してきたフィシュアを見て驚きに目を見開く。
「フィシュア様!? どうされたのですか?」
ロシュの言葉にフィシュアは小さく呻くと、言いにくそうに顔をそっぽに向けて呟いた。
「……馬を忘れた」
その瞬間ロシュと傍に控えていた門番二人がぷっと吹き出し、腹を抱えて笑いだした。
「フィシュア様……そのおっちょこちょいなところも直していただかないと、感動の別れが台無しです」
「―――うるさい!」
珍しく顔を赤くさせてばつの悪そうな顔をしているフィシュアに、やはり堪え切れず笑い続けながらも、後で馬を二頭宿に届けることを約束し、ロシュは陽の傾き始めた街へと再びフィシュアを送り出したのだった。