ラピスラズリのかけら 少年とジン(魔人)と宵の歌姫 1

 

 砂漠の果ての街、ラルー。街の中心から少しばかり離れた場所に警備隊チェドゥン地方東本部である石造りの砦はあった。
 この砦に滞在し始めて早一週間、常駐の警備隊の一人からようやく宵姫帰還の知らせを受けたロシュは足早に砦の門へと向かっていた。
 近道である中庭を通り抜け、ちょうど外に続く扉のある廊下に差し掛かるという所、高い位置でくくられた長い琥珀に近い薄茶の髪に、強い意志を宿した濃く深い藍の瞳の持ち主である女の姿を目に留め、ロシュは膝を付き、彼女の手を取った。
「お帰りなさいませ、フィシュア様」
 そのまま甲へと口付けを落とし、臣下の礼を取ったロシュの額へとフィシュアもまた口付け、彼の労をねぎらう
「ただいま、ロシュ」
「後三日遅ければ強行でも押し切って攻め入ってましたよ」
「ロシュが言うと冗談に聞こえないな」
 苦笑するフィシュアに、ロシュは彼女の手を取ったまま立ち上がると、微笑んでみせた。
「元より冗談ではありませんからね。いくらイオル様がアエルナの調査を急がないと仰っていたとはいえ、我が君を長い間盗られている訳にはいきません。フィシュア様が何と言われようと十日が限度です」
 ロシュにとっても、フィシュアにとっても、多少強引な手段を選びさえすれば、領主に盗られたラピスラズリの首飾りを奪取するのは容易いことだったのだ。しかし、彼の主であるフィシュアは事を荒立てることを厭った。だからこそ、ロシュは渋々ながらも彼女の命に従い、先にラルーの砦で待っていたにすぎなかったのだ。
「お疲れでしょう。とりあえずお茶でもお淹れしましょうか?」
「ああ、頼む」
 フィシュアの手を離したロシュは先だって進み、娯楽室の扉を開く。陽が傾き、西日が差しこみ始めた部屋の中、今日の訓練を終えたらしい多くの警備隊の男たちが談笑し合っていた。
 騒ぎ合う声は、笑いを呼び、労苦から開放された、つかの間の喜びに皆が夕暮れのひと時を楽しむ。
「どこに行ってもこの時間は賑やかだな」
「そうですね。これから家路に着く者、これから夜の警護にあたる者、どちらにとっても一日の労をねぎらうささやかな時間ですから」
 フィシュアの存在に気付いた警備隊が揃ってやって来ようとしたのを、ロシュが右手で制した。少し残念そうに元の席へと戻る男たちの姿を見ながら、フィシュアは立ったまま自分で手ずからカップに茶を注ぎ始めた護衛官を見上げる。
「別に良かったのに」
 フィシュアの方にちらりと目をやったロシュは、湯気をくゆらせるカップをフィシュアへと差し出した。
「けれど、今日はとてもお疲れの顔をしていますよ。そんな姿を見せたら彼らを逆に心配させてしまいます」
「んー……まあ、ちょっと色々あった」
「色々?」
 ロシュは椅子を引いて腰を下ろすと、フィシュアと相対した。
「最初から話さないと駄目か?」
「フィシュア様が話す必要があると思われるのなら」
「……じゃあ、少し省く」
「説教を避けたいからと言って省くのは無しですよ?」
「…………」
 ロシュはそれ以上何も言わず、笑みを浮かべた。つまりは、順を追って全て話していただきましょうか、と。
「ロシュはいつもそう言う」
 ぽつりと恨めしそうに零したフィシュアの呟きに、ロシュは微笑んでみせた。
「何も言ってませんが?」
 フィシュアが溜息を落とすも、ロシュは静かに茶を飲んで、彼女が話し出すのを待つ。
「今日、砂漠でジン(魔人)とその契約者の少年に会った」
「―――フィシュア様、今思いっきり省きましたね」
 そもそも何故フィシュア様が砂漠に居たのですか、とロシュが重ねて問うと、フィシュアは目線を落として、そのまま茶の入ったカップへ口を付けた。
「まあ、いいですけど。ジン(魔人)、ですか……。随分と珍しいものにお会いになったのですね。危害は……加えられていないようですが……」
「ああ、大丈夫だ」
 深く突っ込まなかった所為か、顔を上げ、「安心しろ」と微笑んだフィシュアの姿に、ロシュは彼女の意図通り、素直に安堵する自分が居るのに気付いていた。
ジン(魔人)やジーニー(魔神)が確かに実在するということは西の大陸に住んでいる者なら誰もが知っている事実だった。だが、それと同時に、人間の前には滅多に姿を現さないとされる彼らは、この国に住む者にとって御伽話の中の存在でしかないのである。
 しかし、だからこそ計り知れないジン(魔人)とジーニー(魔神)の力は驚異と言って良かった。
「大体こんな時の為にラピスラズリを持ってるんだ。心配しなくてもいい」
「ですが、それもどこまで有効かは分からないでしょう」
 確かに魔力に対して有効であることは、ラピスラズリの威力が知られてからの歴史上で何度か証明されている。だが、その中にはジン(魔人)やジーニー(魔神)と対した記録は無いのだ。ただ、ラピスラズリを伝えたとされるトゥッシトリア(三番目の姫)のジーニー(魔神)が自分たちの魔力に対しても効果があると言っていただけにすぎない。
「いや、かなり効果はあるみたいだ。嫌がってたからな」
 その時の様子を思い出したのか、フィシュアはクスクスと可笑しそうに笑い始めた。
「元より、テト……契約者の少年と彼のジン(魔人)に関しては特に問題ないだろう。ザイール様の館から抜け出せたのも一応彼らのお蔭だしな」
「そうなのですか」
 一体どうやって、と続けようとしたロシュは、しかし、何故か固まってしまったフィシュアの姿に、首を傾げた。
「―――フィシュア様……?」
 名を呼ばれて、我を取り戻したらしいフィシュアは、カップを置くと、急いで椅子から立ち上がる。
「悪い、ロシュ。今夜は街の宿に泊まる」
 そのまま駆けだすように扉へと向かい始めたフィシュアの後をロシュは慌てて追いかけた。
 騒いでいた警備隊の男たちも、突然焦った様子で部屋の中を横切り始めた宵闇の姫と彼女の護衛官を目に留め、一体何事かと話を中断させる。
「お待ちください、フィシュア様! どうされたと言うのです?」
 フィシュアは一度、後ろを振り返ると、そのまま扉の取っ手に手を掛け、押し開き、外に出た。
「忘れてたんだ。今、思い出した。テト達、恐らく一文無しだ」
「はい!?」
 足を止める様子の無いフィシュアは困惑しているロシュに続ける。
「盗賊に荷物を全部奪われたらしいんだ。今頃、路頭に迷ってるだろう。宿が多いと言ってもここは交易の街だからな、宿が空いていて、尚且つ金もない二人を置いてくれる所は無きに等しいだろう」
「探しに行くのですか?」
「行く。テトが心配」
「特徴は?」
 そこでフィシュアはぴたりと足を止めた。半ば驚いた様子で、後に続いていたロシュを見上げる。
「手伝ってくれるのか?」
「私はフィシュア様の護衛であると共に部下でもありますからね。あなたの命なら従います」
「ありがとう。テトは栗色の髪に黒い瞳の少年。ジン(魔人)の方は黒髪に翡翠の瞳の男だ」
「黒髪ですか……なら、存外早く見つかるかもしれませんね」
「だといいんだが」
 眉を寄せるフィシュアの背を押して、ロシュは彼女を促す。
「とにかく参りましょう、フィシュア様。街は広いと言っても、ラルーの宿場通りは一つしかないのです。一つ一つ宿屋を当たれば、少なくとも夜半までには見つかるはず」
辺りには早くも明星が輝きだし、家々の灯火が灯され始めている。二人は薄暗くなりつつある街の中を、宿場通りへ向かって足を踏み出したのだった。
 
 
 結局、ロシュがフィシュアの探し人たちを見つけた頃、外はもう夜の帳に包まれていた。
 闇に溶ける黒髪には、それでも、家の明かりを受けて、茶に光るものが混じる。そして、何よりも片手首に刻まれた黒の紋様と、彼の隣に居る年端のゆかない少年こそが、フィシュアが探している目当ての二人組であることをロシュに告げた。
「フィシュア様! あそこに」
 通りにある最後の宿屋を当たっていたフィシュアはロシュの呼び声に、彼の指さす方へと視線を向けた。
「居た」
 フィシュアはロシュが示した人物を確かめると、頷き、笑みを浮かべる。
「ロシュ。助かった。出立は予定通り明日でいいから」
 そう言うが早いか、フィシュアは一度だけ、ロシュの肩を軽く叩いてから、少年とジン(魔人)という妙な二人組の元へと駆けて行く。
 やがて、その二人組にフィシュアが加わり、彼らが上げた驚きの声と共に妙な連れ合いは三人へと増える。
「さて、私の役目も今日の所は終わりですかね」
 三人が小さな宿屋へと姿を消したのを確かめた後、灯火がぼんやりと照らす路地の片隅でロシュはそう一人ごちた。そして、彼もまた、踵を返し砦へと続く帰路に着いたのだ。
 
 
 しかしロシュは翌日、フィシュアから彼らと共に未知の病が流行している村へ行くと聞かされ、この時のフィシュアの望みを叶えてやったことを激しく後悔することとなった。
 それでも、彼がフィシュアと別れて、一人でアエルナ地方へと先に向かうことに渋々従ったのは、それがやはり主であるフィシュアの命であったからこそである。その決断がロシュにとってどれほどの心労が伴うものであるのか分かっていたとしても、彼の主は一度決めたらなかなか考えを変えようとしないのだから、結局はいつもロシュが折れるしかないのだ。
 
 だから、宵の歌姫による宴の席で、階上に座る彼らの会話を聞いていたロシュはほんの少しばかり安心した。
 彼女が言っていた通り、この少年ならもしもの時はフィシュアを助けてくれるだろうという確信をロシュは得ることができたのだ。
 それを証明するかのように、フィシュアに栗色の髪を撫ぜられている少年は、フィシュアを見上げ、眠たげながらも嬉しそうに微笑む。この少年には確かにフィシュアへと向けられる信頼があった。まだ出会ってから幾日も経っていないはずなのに、一体彼女はどこで少年の信頼を勝ち得てしまったのだろう、とロシュは苦笑する。
 そして、ジン(魔人)の方もまた、少年に危害を加えさえしなければ、自らは何もしないだろうということが知れた。ジン(魔人)の目はほとんど少年に注がれており、常に彼の周りに気を留めているようなのだ。フィシュアには少年を害する意思など微塵もないのだから、フィシュアがジン(魔人)に害されることもまた杞憂であろう、と。
とにかくそうであって欲しいものだとロシュは思いながら一緒に来ていた警備隊の男たちと酌を交わしていた。
 
その後、ロシュは少年が発した「だって、フィシュア、夜伽をしてくれる約束でしょう?」という言葉に警備隊の者達と一緒に盛大に吹き出すことになった。
 珍しくも顔を引きつらせ、次いで睨んできたフィシュアから目を逸らして、ロシュは堪え切れない笑いをなんとか抑えようとしながら手にしていた酒を飲む。
 
ジン(魔人)に抱きあげられた少年と、彼に“夜の御伽話”をしてあげるという、宵の歌姫の退場を以ってして、この日の賑やかな宴は幕を下ろしたのだった。
 
 
 
 
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