フィストリア(五番目の姫)と少年と

 

 フィシュアは、ぱちりと目を覚ました。
 日の出の準備を始めている空はうすらと色を溶きほぐす。白んだ光が窓から差し込む部屋の中、むくりと起き上がったフィシュアは「ぐああああぁ」と呻いた。
「負けた、またロシュに負けた!」
 両手を頭に掻きやって、くしゅくしゅと崩す。
 正直言って酒には結構強い。それは自他共に認める事実である。けれど、上には上がいるとはよく言ったもので、フィシュアがただのザルなら、ロシュはそのザルの網目の広さを二倍も三倍も大きくしたザルなのだ。しかも、フィシュアは酔うところまで到達してしまったのなら、眠気に襲われて勝つことができない。
せめて笑い上戸だったら良かったのに、とフィシュアが溜息をついたのは、意識がありさえすれば酒を飲むことはできるだろう、つまりは、そうであったのならいつかはロシュに勝てるだろう、という至極単純な思考の結果だった。
自分の情けなさに、掛布へと突っ伏そうとしたフィシュアは、だが、もぞもぞと動く存在に気付いて、傾きかけた体を押し留めた。
「ああ、そっか、テトと一緒だったんだっけ」
 昨日の夜、目を覚ました時にテトに会えたのが嬉しくて抱きしめたのを覚えている。昨夜は疑問にすら思わなかったが、シェラートもいたはずだ。だから、ここは彼らの部屋なのだろう。現に向かいを見やれば、やはり、シェラートが寝ているのだ。
「寂しい、とか言っちゃったからか」
 のせられたとも言えるのだが、あの時ぽつりと零れ落ちた言葉はきっと本心でもあった。ロシュには、いつも自分ですら気付いていなかった本心を悟られ、言わされてしまう。それは、もう随分と前から続いていること。一体どうやったら気付くのか。
とにかく、テトとシェラートが、ロシュから自分のことを押し付けられたのだろうということは、フィシュアにも大方予想がついた。
 増し始めた光が、テトの栗色の髪を照らしていく。時折、金色に輝く髪にフィシュアはそっと触れた。久しぶりに撫でる栗色の髪は、前と変わらずに柔らかい。ふわり、ふわりとゆっくり撫でながら、フィシュアは微笑みを浮かべて、目を細めた。
 
 
ひらひらと ちょうが舞って
小さな指にとまって
そっと そよ風を送って
薄い花びらを 揺らすの
 
 
 ふっと口ずさんでいた歌を止め、フィシュアはテトの顔をじっと眺めた。ふっくらとした頬には影が落ちている。閉じられた瞼の下ではきらきらと輝く黒の瞳が隠されているのだろう。ぴょいぴょいと跳ねている寝癖を見て、フィシュアはクスクスと小さく笑った。
「テトみたいな子に育つんだったら、子供を産むのも悪くはないわよね。あぁー、でも、育てるのが私だったら、こうはならないのかしら。いや、でも、一人は確実に教育に携わらなくちゃいけないんだし……うっわぁ、考え出すと責任重大ね。悪い方向に育っちゃったら兄様に怒られそうだな。どうしようかしら」
「……まだ酔ってるのか、フィシュア」
 テトの髪をいじくりまわしながら、うーん、と唸っていたフィシュアは、呆れが多分に混じった声を耳にして顔を上げた。
「起きてたの?」
「起こされた」
 起き上がってはいるが、未だ翡翠が半分しか覗かないシェラートの顔つきは、どこか憮然として見えて確かに眠そうではある。そんなに大きな声で喋ってはいないつもりだったが、起こされたと言っているのだからうるさかったのだろう。フィシュアは、自身の頭を掻いているシェラートに「ごめん、ごめん」と素直に謝った。
「―――で、薬でもいるか?」
 ベッドの縁に腰かけ、こちらに向き直ったシェラートにフィシュアは「何で?」と首を傾げる。
「昨日、チルを十五杯も飲んだんだろう? 頭とか痛くないのか」
「全然。だって私、元々お酒は強いし、酔っても眠くなるだけだもの。次の日には持ち越さないの。だから、へっちゃら」
 ならいいけど、とシェラートは溜息を吐いた。
「ねねっ、そんなにうるさかった?」
「うるさくはなかったけど、近くでぶつぶつ言われると気になるだろ」
「ぶつぶつって……結構真剣に考えてたのに。起こしちゃったのは、悪かったけど、さ」
 フィシュアは、ふぅと息を付くと、窓の外へと目を向けた。といっても、窓からベッドは少しばかり距離がある為、移り行く空の様子しか伺えはしなかったのだが。
「ほらね、うちの皇家って代々役目が引き継がれるじゃない?」
 シェラートは相槌も頷くこともせずに、ただ黙っていた。静かな空気に促されて、フィシュアは話を続ける。
「だからね、次代のトゥス(皇子)とトリア(姫)の教育は、現代の私達がそれぞれに請け負うのよ。実際になった者にしか、伝えられないことがあるから。このまま何もなければ、私は兄様と義姉様の五の姫に携わる予定。でもねー、私って結構イリアナ様の……先代の影響受けちゃってるから、そう考えると、ね。与える影響の大きさを考えると重みが増すでしょう? できるなら、私に似るよりも、テトみたいな真っ直ぐで辛いことも乗り越えられるような強い子に育ってほしいなぁとか思ってたのよ」
 そう先の話でもないだろうしね、とフィシュアは付け加えた。
「まあ、でも、なぁ……今から考えておくのも悪いことではないと思うが、その時々で状況とかは違ってくるんじゃないか? 予想外のことだって多分起こるだろう」
「そうね、起こるでしょうね、きっと」
 フィシュアは、ふと微笑んで、窓から視線を外した。それから、すやすやと寝息を立て続けるテトに目を落とすと、額の上で止まっていた手をそっと動かし始める。
 ゆったりと流れる手は、まるで風がそよぐようにテトの髪を揺らす。
「―――テトに聞けばいいんじゃないか、困った時は。目標とする人物が傍にいるなら、どうすればいいか聞けばいい」
 つと顔を上げたフィシュアは、シェラートの方を眺め、しばらく吟味した後に「なるほど」と頷いた。
「そっか、その手があったわね。だけど……」
「けど?」
 聞き返してくるシェラートに向かって、フィシュアは困ったように微笑する。
「その時テトは、まだここにいてくれるかしら? だってほら、多少のひいき目はあるかもしれないけど、テトは結構有望だと思うのよね。だから、とっくに学校も……皇宮だって飛び出してるかも」
「さあな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。飛びだしたとしても、たまには会いに戻ってくる可能性だってあるだろ。少なくとも、今のテトは寂しがってたぞ、フィシュアになかなか会えなくて」
「そう」
 それはちょっと嬉しいかも、とフィシュアは掛布の外に出ていたテトの手に自分の手を重ねると、きゅっと握った。
「ああー、寝てるから嬉しくっても抱きつけないのが残念ね。起こしちゃったら悪いもの」
 昨日は思いっきり抱きついてただろう、とぼやくシェラートを無視して、フィシュアはそっと掛布の中にテトの手を戻した。
 寝返りをうつほどまでにはいかないが、ほんの少しもぞりと動いたテトを、二人は静かに眺める。全く起きる様子のないテトの表情は、穏やかで、とても優しかった。
 ね、とフィシュアはシェラートに声を掛けた。
「まだ、ここにいてもいい? テトが目を覚ますまで」
「ああ、……」
 別にいればいいじゃないか、と言いかけてシェラートは口をつぐんだ。
 ほう、と和らいだ藍の双眸はテトへと注がれ、白いとは言えない手がふわりふわりと髪を揺らす。
「シェラートもまだ寝てていいよ。本当はまだ起きるには早いでしょう? ごめんね」
「ああ、じゃあ、まあ…………寝る」
「うん、おやすみ」
 ごそりと掛布を掛け、横になる音がして、背が向けられる。
 
再び静寂が落ちた部屋。
 フィシュアは小さく小さく口ずさんだ。
 今度はともすれば聞こえぬほどの、静かな歌声。
 耳をそばだてなければ聞こえぬほどの、淡い歌声。
 
 
ふわふわ 温もり恋しくて
小さな掌に触れて
そっと 羽を休めて
揺れる花びらを 眺めるの
 
 
 瞬きすらせずに、そっと音も立てず、瞳を閉じたのだ。
 
 
 
 
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