ラピスラズリのかけら つくられし湖 おまけ

 

夕暮れから、夜の色を持ち始めた宵の藍空。その下の皇都の一角では一際にぎわっている酒場があった。宵の歌姫が宴を催す予定となっている、この酒場。溢れ返る人々の波に、中に入るのは無理だと判断したテト、シェラート、シュザネの三人は、仕方なくその隣に位置するシュザネの行きつけの酒場へと赴いた。
 毎夜活気あるこの酒場も、今夜はいつもに比べて人気が少ない。店主までもが外の気配に耳をそばだて、様子を伺っている。客に対して彼が気すら配っていないのは、いくら話しかけても上の空で返される相槌を聞けば充分に分かることであった。けれども、ここは気心の知れた常連客ばかりが集まる店。馴染みの者達は特に気にすることなく、寧ろここぞとばかりに各々で、言いかえれば勝手に酒を、肴を、よそっていた。
 
でもさあ、とテトはクッキルの実をカキリと噛み砕きながら、シェラートに尋ねた。
「海水魚が住んでるなら、湖じゃなくて海なんじゃないの?」
 シュザネも手を止めて、シェラートの方へと顔を向ける。セジアル湖がどうやってできたのかを聞いた北西の賢者は、謎が半分解けたと、嬉々として酒場の品書きを拝借し、その裏の余白部に早速聞いたばかりの新事実を書きつけている途中だったのだ。そこに、少年の疑問が入った。
「おぉ、テト殿の言う通りですの。海水魚は海水にしか住めませんからのぉ。塩湖と言ってもよろしいのでしょうが、塩分が含まれている場合は海と呼ばれる方が一般的ですからなぁ」
「けど、まあ、あそこの場合は、湖であってる。セジアル湖には塩分は含まれてないからな」
 皿の上から、クッキルの小粒を摘まんだシェラートは、固い殻を割って、中身だけをテトの掌へと落とした。貰ったばかりの実を口の中へ放りながら、テトは首を傾げる。
「だけど、湖には海水魚がいたんでしょう?」
「ああ、いた。だが、なんというか……あの湖は、魚にとっては必要とする塩分を含んではいるが、人間にとってはその塩分は含まれていない。ほら、三人目の村人は湖の水を飲んだだろう。にもかかわらず、塩辛いとは気付いてはいない。人間にとっては淡水でしかないんだ。恐らく今でも、セジアル湖の近くに住んでる者は、湖に生息している魚が本来海水にしか生息しないものだとは知らないだろうな。あの場所は大分海から離れているから」
「へぇ。でも、なんだか変なの」
 テトは、「うーん」と唸りながら、冷やされた杯に手を伸ばした。少年からは少し離れた場所に置いてあるチェリアの果汁の入った杯をシェラートは取って、手渡してやる。
「ジン(魔人)が気まぐれにつくった湖だからな。あんまり深く考えるべきものでもないさ。特に意図してそうした訳ではないだろう」
 テトは素直に頷きつつも、「でも、やっぱり変」と眉根を寄せた。どうやら、納得はできないらしい。シュザネの方はというと、ほうと髭を撫でつけ、紙へと新たな事実を付け加える。
 
 外に溢れていた喧騒がピタリとやんだのは、ちょうどテトがチェリアの果汁に口を付けた時だった。
 始まるぞ、とどこからともなく零れた呟きを最後に、誰もが皆、息をひそめる。
 
 聞こえてくるのは、本当に微かで、か細い声。それでも、凛と張ったいつもの調子は変わらない。
 宵初めに一つ輝く明星のように煌めく歌声は、一つの幕開けを告げる。
 
さぁ 宴を始めましょう
今 ここに 宵の歌姫 舞い降りたる
 
  灯されし宵の明かりは未だ見えず、灯されたことに気付く者もなし。
―――宴は、まだ始まったばかり。
 
 
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(c)aruhi 2009