ever after 約束を伝う

 

 
本当はずっと思っていたことがあるのです。
 
 
*****
 
 
 額に、瞼に、口の端に、柔らかな熱を受けて、首筋を優しく撫でられれば、溢れ出てしまったのは吐息ではなくて嗚咽だった。
 嬉しいのに、触れられているのが酷く怖くて、顔を自身の両手に埋める。勝手につたい始めた涙は、見られないようにと覆った筈の両の手を綺麗によけては流れ、けれど、顎に到達する前に、温かな指に拭われて消えた。
「どうした?」
 ガーレリデス様が問うているのに、嗚咽が口を塞いで答えを紡ぐ邪魔をする。まるで幼子だ。ふるりと首を振ることしかできない。それしか、伝えられる方法がない。
 静かな声はいつも淀みなく落ちて。揺れずに、響くのは彼の瞳の湖水と同じ。とても焦がれる。だから、とても怖い。
「どうした?」と彼はもう一度私に問うた。
 覆い零れていた髪をゆっくりと掬いあげて耳にかけられたら、狭かった視界が広がってしまい、思わず両手を顔から外す。
 顎を持ち上げられて、俯いていた顔が上向きにされる。再び相まみえたガーレリデス様の表情には可笑しそうな笑みが刻まれていた。凪いだ湖水の双眸は、だけど、私のせいで波を立てて揺れる。
「だから、どうして泣く?」
 くつりと囁くような笑い声を立てて、彼は雫を掬い取る。口付けられて、離れていくから、哀しくて、また、留めようと思う意思に反して溢れて、流れて、零れ続ける。
「―――それ、はっ……」
 言っては、口にしてはならないと、両手で口元を覆う。持ちうる限りの力を使って止める。
 引き寄せられて、温かさに包み込まれる。耳元に近づいた彼が怖くて、体が震えた。
「嫌なら嫌と言え」
 私の髪を優しく愛撫しながら、彼は待つ。だから、全ては決壊してしまう。彼はいつも優しすぎるのだ。だから怖い。触れて欲しいのに、触れられるのが怖い。
「―――いやっ、……嫌、です。触れ、ないで……」
 だって、そうしたら終わってしまう。聞くことも、見ることもできなくなってしまう。約束が終わってしまう。彼がくれた期間が終わってしまう。心地の良い時間が終わってしまう。
 触れられたら、全てが溶けて消えてしまう。無には戻らない。無に戻らないから怖い。
 私が求めたのに。それを彼はくれただけなのに。
「――――っ……」
 彼を押し返して、けれど、すぐに求めて縋りつく。彼の首に手を廻して、彼の頭を抱え込んで。陽だまりのような人の髪から日向の匂いがするのは何故なのだろうと思った。
 矛盾しているぞ、という彼のくつくつとしてくぐもった声が腕の内から聞こえてくる。腰に手を廻されたせいで、基盤についていた膝が崩れた。
「トゥーアナ? 別に今日で終わりとは言わなかっただろう」
「一度だけ望みを叶えてくださったら、それ以降はないと仰いました」
「ああー……そう言えば、そうは言ったか」
 そう、だから、私も離れなければならない。
ゆっくりと体を離せば、青い湖水の瞳はこちらを見上げていた。じっと見つめられたまま、くいくいと髪を引かれる。顔が歪んでしまったのは、痛さのせいなんかじゃないとそんなことは知れていた。
痛みを感じるほどのない引きは、それでも、私には痛切をもたらす。
「だが、トゥーアナも言っていただろう? 俺を捕らえると」
 そうじゃなかったのか? と彼は静かに尋ねる。
 嗚咽は息を詰まらせて、顔はきっとくしゃくしゃに崩れている。
「捕らえ、……」
 ―――たい、と。
 なぜなら、私はずっと思っていた。傍にいたいと。隣にありたいと。
 声をかけてもらうだけで良かったのに。貴方の姿を目に入れるだけで良かったのに。
 どんどん貪欲になっていく気持ちは、どうしても止まらなくて。
 
 だけど、願いは声にならなかった。
 
頬をまた拭われて、涙の通り道が消されてゆく。
 トゥーアナ、と彼は私の名を呼ぶ。
 そうして、与えてくれたのだ。新たな約束を。
 明日もまた来る、と。
 たったそれだけ。
 それだけでも、私はそれが欲しかった。
 何よりも。ずっと。
 だって私は願ってはいけないから。
 ルメンディアを消したのは私。ルメンディアの未来を消したのは私。
 ふつりと途切れた梯子の先は、いくら手を伸ばしたって繋がってなどいない。空に届くことなんてない。後はただ、地に戻るばかり。後はただ、地に落つばかり。
 それでも、陽だまりは地にもあって、貴方はそれを与えてくれた。
 本当は受け取る資格すらなかったのに。
 
「来るから、笑え」
 涙を吸われて、湿った熱が首筋へと落とされる。くすぐったくて、ふっと笑ってしまえば、何度もくすぐられて、
 ――――熱の中にうずまるように瞳を閉じる。
 本当は分かっていた。きっと貴方は私がここに居ることを許してくれるだろうと。
 だけど、それはいつ消え果ててもおかしくはない願いだから。
 貴方には容易に私を離す術が与えられているから。
 だから、ずっと欲しかった。
 その術を少しでも退ける方法が。
 
「来る。明日も、その次も」
 
 だから、泣くなら、笑いながら泣け、と彼は言った。
 
 
*****
 
 
 白き花びらが舞いゆく。
 落ちることのないようにふわりと宙を飛ぶ花びらも、やがては落ちてしまうことが多いのを私は知っていたから。
 ネイドラフージュが降る風景の中で、ガーレリデス様がくれた言葉もそうだった。
 あなたはいつも私に未来を伝えてくれる。
 だから、私は、代わりに口付けることしかできなかったのです。
 
 神殿の両の扉が開いてしまった時、せめて笑みが微笑みであることを願いました。
 
本当はずっと思っていたことがあったのです。
私は貴方に未来を返せなかった、と。
 
だから、私は伝えたかったのです。
 せめて、私の中に確かにあった、これから過去へとなりゆくものは、
 
 
――――幸せすぎるものだったのだと。
 
 
 
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(c)aruhi 2009