夜伽話のその先に 9

 

 薄暗い路地の隅、布にくるまれた頼りない赤子を、抱きあげる女の姿があった。
「……またか」
 彼女は悲哀に満ちた表情で布の合間から覗く赤子の顔を見やる。指をしゃぶりながら、目を閉じている赤子の顔にはまだ赤みと皺が残っていた。産まれてすぐに捨て子となったのだ。
 綺麗に血を拭われ、古くぼろぼろではあるが大切に布で包まれている。だからこそ、顔を知らぬ母の身を切るような『せめて』という悲しみが伝わってくる。子を手放す者の多くは、自身が食べていくのも苦しいということを、女は知っていた。
ぎりぎりまで抱え込み、自分の分を削ってでも親は子に食料を与え育てようとする。けれども、とうとうその分を手に入れる当てさえなくなってしまい、子を手放さざるを得ないという状況がこの世界には存在することも充分に理解している。
それでも、と思ってしまうのは、自身が食に困っていないが故の性なのかもしれない。
女は、ぎゅうと赤子を抱き締める。消えそうなくらいほのかな温もりを肌に刻むと、家路へとついた。
 
 
「なんだ、どうした、ギール?」
 男は店主に声をかけた。奥から戻ってきたと思ったら、何とも言い難い微妙な顔つきをしていたのだ。
「――いや、店の裏にな……落ちてた」
 胸糞わりぃよな、と不機嫌を吐きながら、店主は運んで来たものをカウンターに置く。集っていた皆は、こぞって身を乗り出して覗き込み、次いで誰もが嘆息を洩らした。披露されたものは、まだ産み落とされて間もない赤子だったのだ。
しかし、場が沈痛な空気に包まれたのも、一瞬のことだった。
「俺らの仲間入りってわけだな」
「軽く祝杯でも挙げてやるか」
「はーい! 私、歌を歌いまーす!」
 一変して、赤子が来る前の状態へと戻った店内をギールは呆れた目で眺めた。
「まぁ、これがこいつらのいいところだから。だろう?」
 可笑しそうに苦笑しつつも同意を求めてくる男の横では、白髭を豊かに蓄えた老人が「ふぉっふぉっふぉっ」と肩を揺すらせる。
「そうかもしれんが、この子はどうするんだよ。こんなボロ店じゃ、置く場所もないぞ」
「ほんっとーうに、ぼっろいからねぇ、この店はー」
 横から入ってきたからかいに、店主は「うるせぇ!」と返す。「きゃあ」と叫んでみせた酔っぱらいは、けたけたと笑いながら、がなりに近い大合唱の中心へと入って行った。
「……全く」
 ごちて、ギールは赤子に視線を向けた。ぱちりと開いた目は、朝の海のように澄んでいて無邪気そのものだ。
「どうするかねぇ……」
「じゃあ、俺に貸しとけ」
そう言って男は、あっさりと赤子を取り上げた。目を丸くした店主の前で、客は早速慣れた手つきであやし始め、赤子からきょとんとした眼差しを受けている。
「おい、ちょっと待て! お前んところ、もう四人もいるだろうが! 大丈夫なのかよ」
「なんとかなるくらいには余裕はある。だから、わざわざここに来てやってるんだろう? ボロ過ぎて可哀相なくらいだからな、ここ」
「お前、文句があるなら、もっといい店に行けよ」
「そう、怒るなって」
 男はカラカラと笑う。
 カウンターに両手をついて「はぁ~」と脱力してしまった店主の真ん前で、赤子を抱いた男は「もういっそ孤児院でも開くかな」と呟いた。
「初めから預ける場所があれば、みんなそっちに行くだろ」
「お前、そんなことしてみろ。赤ん坊がひっきりなしにやって来ることになるぞ!?」
「でも、野犬に襲われる心配も減るだろう?」
「そういう問題じゃないだろうが! アズーの時も大変だったじゃないか。スイもいる。俺たちみたいな奴のことを思うなら、お前はもう充分引き受けてるだろう、ガジェン。みんな口には出さないが感謝してる」
「別に“引き受けてる”と思ったことはない。あれだな、海賊稼業は胸を張れるようなことじゃなかったんだろうが、こいつらと仲間になれたから今でも楽しいんだしな。アズーに会えたから今がある。スイだってなぁ、みんなっから猫っ可愛がられてるぞ。大体いざとなったら、アズーの時みたいに手だって貸してくれるんだろう?」
「そりゃ、当り前だろう。……ってそうじゃなくてだなぁ!」
「それにな、俺はサーシャとの子どもが、この先持てなくなるとしても、目の前にいるこの子をとるぞ。クィーナとシタンもいるし。なぁ、リズ?」
「―――って名前まで! まだ、男か女かも分かってないだろう」
「だから、リズなんじゃろう」
 白く長い髭をなでつけながら、老人は目を細めた。
「まぁ、どちらにしてもサーシャ殿が怒ることはないでしょうがな」
「あんたもよく分からない奴だよなぁ」
 失礼極まりないガジェンの感嘆を無視して、老人は赤子のすべすべとした掌に指を伸ばす。赤子は警戒を示すこともなく、節くれだった老人の指を握り返した。「おうおう」と破顔しながら、彼はまるで握手でもしているかの様に指を上下に軽く揺らした。
「ガジェン殿たちに本気で孤児院を開く気がおありなら、儂も賢者として援助いたしましょう。皇宮に打診することも……今の皇帝のうちなら可能じゃ。きっと聞き入れてくださるじゃろう。彼の皇帝の膝元の話でもあるからのう」
「いいのか!? シュザネ」
 思わぬ方面からの援助の可能性に、驚愕しているガジェンとギールに向かって、老人は深々と頷いた。
「こういう時こそ、北西の賢者の権威を利用せんでどうする。わざわざ一つの帝国と繋がっている意味もなかろう。これまでも、随分と法を曲げてあちらの要求を呑んできた歴史があるからのう。あっちもそう無下にはできんはずじゃ。応じてもらうくらいの力量なら儂にもある」
 任せておけ、とシュザネはにやりと口の端をあげた。最も、蓄えられた髭に阻まれてほとんど見えはしなかったのだが。
「やっぱり持つべき者は賢者殿だな!」
「じゃから、資金工面の方に関しては気にせんでええ」
 ガジェンは赤子を膝に乗せ、老人の背をバシバシと叩く。店主は自身もどかりと木椅子に腰掛けると「これで良かったのか?」と、溜息をついた。
「けど、あれだな。お前の周りはすごいよな、魔女に賢者って世界に八人しかいないんだろう。その内の二人がついてるんだからな」
「なら、お前の周りもすごいんだろうよ、ギール」
「――ああ、そうなんだろうが……どうもこの爺さんがあの賢者様とは思えないんだよなぁ、未だに」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
「ちょっとは、反論しとけよ、シュザネ」
 ガジェンは、赤子の薄い髪を撫でた。
「まぁ、俺も賢者って感じたことはあんまりないけどなぁ。どっちにしろ助けてくれるのはやっぱりシュザネだからなんだろうしな」
 シュザネは何も言わずに、杯の中の果実酒を揺らした。
 ガジェンは、騒がしい店内に集う者たちを見渡す。
「本当は、リズみたいにやってくる子が増えない方がいいとは思うんだけどな。ギールが言うようにあんまりにも増えすぎたら暇してる奴らを雇えばいいから問題ない」
 店主は今度こそ本気で呆れた顔をガジェンに向けた。
元が元であったせいか、この場にいる者は職を得るのが難しい。ようやくまともな職につけたかに見えた者も、雇い主と反りが合わなかったのか解雇されることも多いのが実情なのだ。故に、半数の者が、日雇い仕事を稼ぎの糧としたその日暮らしであった。
「お前はホントお人よしだなぁ、ガジェン」
「お人よしの見本が近くにいたからなぁ」
「どっちもどっちじゃろう」
 皇都の片隅、賑やかな夜は今日も更けていく。
 随分と前に始まった物語は、新たな物語を育み、終には離れ行く様を眺めることとなる。
 だが、それは、まだ先の話。いくつかの時間を乗り越えた先で、初めて見えてくる話である。
 
 
 
 
 
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(c)aruhi 2009