5:継がる名 21 絡まりのないもつれ目【2】

 

 会議室の扉の前に立ったフィシュアは、すっと息を吸った。
 眼前に佇む灰褐色の石扉には、一筋の線さえない。真鍮の取っ手を持つ他には、一切の装飾のなされていないこの扉は、皇宮で最も簡素なものであった。
 元来、会議室に入室する権限を有する者は、皇帝、皇妃並びに、各第五位までのトゥス(皇子)とトリア(姫)に加え、彼らの先代でもあり国の重鎮についている皇帝の兄弟たち、こちらも各第五位までのオーナ・トゥス(大きな皇子)とオーナ・トリア(大きな姫)、そして、皇太子妃の計二十二人である。中に整えられた椅子はちょうど彼らの席分である二十二脚しか用意されてはいない。
 皇帝と共に国政を指揮する数いる大臣たちも、招かれない限りはこの部屋に入ることは許されてはいない。
 皇族のみで構成されるこの隔たれた空間は、誰の干渉も受けない場所でもあり、ここでの決定は時として議会よりも強い。
 権限を持つ皇族の全員が一堂に会することは指で数えるほどしかなくとも、この会議室は、長い歴史に渡り、多くの民族を束ね、西の大陸の北東部のほぼ全域を支配してきたダランズール帝国皇族の絶対的権限を示す象徴でもあった。
フィシュアは取っ手に手をかける。
 その瞬間、室内から聞こえていた喧騒が、潮が引くように、消えた。
 取っ手を手の内に握る時は、いつも冷え冷えとしたものが臓腑の底に落ちるような感覚を受ける。それは、緊張を孕みつつも心地の良い感覚だった。だが、同時にこの内で決される物事が直接的に左右する場所を知っているが故に抱く畏怖の念でもあった。
恐らく、決定が正に働こうと負に働こうと、影響を受けたこの国の変化を初めに目にするのは、宵の歌姫として国を周り続けている自分なのだろうということに、フィシュアはいつのころからか気付いていた。
 だから、取っ手を回す手は必要以上に力んでしまう。今日は、これから話し合われるだろうことのいくつかが予想できる分、肩にのしかかる重々しさと気鬱が加わった。
 それに、だ。確かに彼が為す判断に口出しをすること自体が筋違いなのだろう。それでも、胸中を占めるもやもやとした不快は消えず、考えずとも同じような事態が起きればまたすがってしまうのだろう自分にも腹が立った。
全ては自分が引き起こしてしまったこと――義姉が言ったことは、どこまでも正しかった。
 ともすれば踏みとどまってしまいそうな足を、踏み出し、フィシュアは、取っ手を回して、石扉を押し開く。
 ――と、飛びついてきた存在から、フィシュアは横によけることで逃れた。しかし、飛びかかってきた正体が上から二番目の姉であることに気付いたところで、フィシュアは慌てて手を差し伸べる。
「わっとぉ……!」
「ウィルナちゃん?」
「うん、危ない危ない。ありがとうね」
 よろけて転びそうになったところを、フィシュアの腕にひかかっり、なんとか難を逃れたウィルナは妹を見上げて「えへへ」と笑う。それから、ウィルナは表情を改め、体勢を立て直すと、フィシュアと向き直り、今度は、至近距離から妹に飛びかかった。
結果、相手の勢いを削ぐことに失敗したフィシュアは硬質な床にしたたか尻もちをつくこととなった。
「――いっ……!?」
 顔を上げることもできずに、押しつぶされた視界を、さらにぎゅうと頭を抱き抱えられる。息苦しさまで感じ始めたところで、フィシュアはようやく姉の腕から解放された。
「もう! 心配したのよ、フィシュアちゃん。私が屋敷でのんびり寝てる間に大変な目にあってたなんて」
 フィシュアが唖然と見上げる目の前で、妹の上に馬乗りになったままのウィルナは両腰に手を当てて怒る。
「だから、宴の時は気をつけなさいと言ったでしょう!」
「ひとまず逃げなさいともいいましたよね?」
 付け加えたヒビカも眼鏡の奥で剣呑に目を細めて、ウィルナの隣に立った。
「まぁ、ホークはこっちに届いたけどな」と、オギハは、席に座したまま、コツリとインクペンの先で机上を叩く。
 フィシュアは、無表情のまま動くようすのない一番上の兄をじっと見据えた後、素直に頭を下げた。
「……はい、勝手に動いたのは軽率でした」
「いや、別にそれはいい。ああは言ったが、お前に捕縛の権限まで与えたのはこちらだ。動いたことに対しては何も言わない」
 だがフィシュア、と皇太子は続ける。
「自身が守られる存在であることもいい加減認めろ。ロシュはお前にとっての剣でもあるが、盾でしかないのも事実だろう。替えのきく部下の一人だ。引きずられるくらいなら、捨てろ。ロシュじゃなくお前が残るのは当然の結果で、それ以外はない」
「…………」
「いいな?」
「……兄様、だけど」
「聞かない」
 反駁しようと口を開いたフィシュアの言葉の先を、皇太子は一言で絶つと、手元にある書類へと視線を落とした。
 フィシュアは目を伏せ、唇の端を噛む。
「それからなぁ、フィシュア。ランティアの泉に行くのは禁止だと前にも言った気がするんだけどな?」
「それは、確かめたいこと……いえ、思い出したいことがあったのです」
「思い出したいこと?」
「はい、ナイデル候の言っていた言葉で気になったことが。皆がそろってからお話しします」
 言葉を切ったフィシュアを、オギハは軽く一瞥すると、「分かった」と了承の意を述べ、ひらりと片手を振った。
 
「よし。終わった?」
 にょっと、後ろから伸びてきた腕に、フィシュアは再び抱きつかれた。
「オギハは、ねちねちうるさいからな。嫌になるわよね、フィシュア」
「お前のがうるさい、トゥイリカ」
 ちょっとは黙っとけ、とオギハは心底憎々しげに、悪態をついた。長姉はそれをまた、そ知らぬものとし、妹の背に抱きついたまま、フィシュアに話しかける。
「せっかくフィシュアと旅行しようと思って追いかけたのに、帰るの早いんだもの」
「……ああ、そっか。トゥイリカ姉様もアエルナに行ってたんだったよね」
後方からはトゥイリカに、前方からはウィルナに抱きつかれ、ついでに、斜め前にはヒビカが立っているという状況に、フィシュアは今更ながら苦笑した。
「トゥイリカちゃんからのね、お土産もあるのよ」
 ウィルナは、微笑んで、何やら茶に色づいた木の実が詰められている箱を差し出す。ヒビカは「ですが、食べない方がいいですよ」と付け加えた。
「フィシュア、それ本当にやめた方がいいよ。すっごくまずいんだって。さっきドヨムも酷い目にあってたから」
 ルディが、目線を送った方へと、フィシュアも視線を滑らせる。白い石壁には、なるほど、ドヨムがげっそりとした面持ちで、凭れかかっていた。
 フィシュアは、もう一度、上から二番目の姉が持っている箱に目を向け、次いで、言いにくそうに長姉を見た。
「あのね、トゥイリカ姉様。たぶん、これまずいのが当たり前だと思う。だって、これ食べ物じゃないもの」
 フィシュアが告げた言葉に、会議室に集まっていた面々は絶句した。いち早く、立ち直ったオギハだけが、どこか悟ったように溜息を吐く。
 トゥイリカは、目を丸くさせた。
「だって、これお薦めされたのよ」
「確かに、お薦めされるものではあるけど。……これ、馬に取り付ける車とか鉄を錆びさせない為に塗る油なのよ。アエルナの……砂漠に近いところで買ったでしょう、姉様。あの辺は、しっかり蓋をしてても風で運ばれてきた砂が混じりやすいから、きちんとした保管場所を確保できない庶民の間では精製した油よりも、木の実のまま油だけ出やすくしたこの状態の方が好まれるのよ。持ち運ぶ点でも利便はいいし、砂漠の近くを往来する商人たちの間では割と重宝されてるものなの」
「へえええええ……そうなの。お、おいしかったんだけどねぇ?」
 トゥイリカは、視線をさまよわせ、弟妹に同意を求める。しかし、馬具用の磨き油を食べさせられたと知った被害者たちからの返答は、もちろんなかった。
 気を取り直すように、トゥイリカは頷き、「そういえば、フィシュア」と話をそらす。
「ドヨムに何かされたんでしょう。お仕置きしてあげるから、姉様に言いなさいな」
 長姉の笑みを受け、フィシュアは、未だ壁に体を預けるようにして床に座しているドヨムを見た。焦燥もあらわに、首を横に振って合図してくるドヨムに頷き、フィシュアは自身におぶさっている姉に対して口を開いた。
「……首絞められた」
 ぽつりと吐かれた呟きに、じとりとした軽蔑が、一斉にドヨムへと向けられる。
「――っだああああ! だから、なんで俺ばっかりなんだよ!」
 オギハは、こめかみに己の拳を押し当てると、頭が痛いとでも言うように、眉根を寄せた。
「だから、妹には、手出すなって言っただろう」
「いや、待て待て。語弊が生じるだろうが、語弊が」
「そのままで、どこも間違ってはいないではないですか」
「ヒビカの言う通りね。とりあえず、トゥイリカちゃん特製お土産の刑は決定かしら」
「うん。僕も許す。やっちゃっていいよ、ウィルナちゃん」
 普段温厚なルディの冷やかな支援を受けて、ウィルナはフィシュアの上から立ち上がった。
「こういうことさせると、ウィルナは、容赦ないわよねぇ」という長姉の呟きを耳元で聞いたフィシュアは、さすがにほんの少しだけドヨムに申し訳なく思ったのだ。
 
 シン、と場が静まり返る。
 間もあかず、扉は開かれた。
 今まさに、口の中に木の実を押し込まれる寸前だったドヨムは、ぱっとウィルナが立ち上がったことで、助かった、と深く安堵の息を漏らした。
 扉前に座していたフィシュアも、黙したまま立ち上がり脇に退く。
 トゥイリカだけが、すっくと立ったその場で、やって来た三人を迎え入れた。
「久しぶりね、イオル。ちょうど一カ月ぶりくらい?」
「はい。御息災のようで何よりです、アーネトリア(一番目の姫)様」
 皇太子妃は、隙なく微笑を浮かべて、膝を折った。両拳を額にあて、帝国内での皇族における最高敬礼を義姉に対してとる。
「別にそんなに気にしなくてもいいのに」と、トゥイリカは首を傾げた。皇太子妃に立つように促し、彼女の後方へと目を向ける。
 豊かな白い髭を蓄えた老人に目をとめ、トゥイリカは「あれ、シュザネ殿?」と意外そうな声を上げる。この部屋は、いわばダランズール帝国の中枢のような場所である。言うなれば、国同士の政治に極力関わることを嫌ってきた北西の賢者には似つかわしくない場所でもあった。
 長姉の疑問を読み取ったのだろう。オギハは「俺が招いた」と言った。
「今回は、ジン(魔人)が関係してるからな。教えを請うた方がいいだろう」
「ああ、ジン(魔人)ね」
 トゥイリカは、表情に理解をのせると、残る一人、シュザネの後に立っていた、黒髪に翡翠の双眸を持つジン(魔人)を見上げた。
「へぇ、これが……。ジン(魔人)と言うよりは、東の大陸の人間のようね」
 感心したように、ジン(魔人)を眺めていたトゥイリカは、すぐ下の妹を呼び寄せた。
「ウィルナもジン(魔人)に会うのは初めてなのでしょう?」
「そうそう。フィシュアちゃんが連れて来たってことは前から知ってたんだけどね。会うのは、初めて」
 イオルちゃんと契約したんでしょう? というウィルナの問いに、皇太子妃は微笑を以って答える。
「名はシェラートと申します」
 そう、とトゥイリカはイオルに向かって頷き、改めて、シェラートと相対した。
「まさか本物のジン(魔人)を目にする日がくるとはね。私の名は、トゥイリカで、こちらは、ウィルナ。初めましてね?」
「――嘘つけ」
 ぼやきに似た言葉に、トゥイリカは「あら?」と優美に微笑んでみせた。シェラートはうさんくさげ眉をひそめる。
「どこかでお会いしたことがあるかしら?」
「しらばっくれたいのなら、それでいい」
 シェラートは面倒くさそうにそっけなく返す。
 トゥイリカは、「そう?」と言って、笑った。

 

 

(c)aruhi 2009