5:継がる名 20 絡まりのないもつれ目【1】

 

「ああ、いいよ。それで」
 報告を上げた男は、予想外の答えに「は?」と思わず問い返した。
「よろしいのですか?」
「うん。そんな伺いをいちいちたてなくったって、もっとみんな自由に動けばいい。そう伝えておいて」
 どっちにしろ全部上手くいくから、と付け加えた主を見ながら、男は訝しげに目をすがめる。
 晴れ渡る空を映した窓は明るく、背後にそれらを従えた彼の主の微笑は、逆光のせいで翳りが大半を占める。しかし、深みのある笑みには憂いや疑念といったものが欠片も見当たらず、濃い色の瞳は来るべき未来を当然のものとして享受する時を待っていた。
 彼らのすぐ傍らでは、薄い紫の長い髪を背に流した一人のジン(魔人)が、人数分の茶をカップに注ぐ。人間にはない力を持っているにもかかわらず、かいがいしく侍従のように働くジン(魔神)の様を、男はまだ慣れきることができずに奇妙そうに眺める。対して彼の主は、そんな臣下の表情を見て噴き出した。
 恨みがましそうな視線を男から向けられた主は必死に笑いを引っ込めてから、言う。
「お前はいつも通り、何もしてはいけないよ」
 かねてからある決まりごとの確認を目で問うてくる主に、男は今回も「はい」と頷く。
「よろしい」
 主は満足気に深く頷きを返した。ジン(魔人)が淹れてくれたばかりのカップを二つ手に取り、一方を男へと差し出す。
「それじゃあ、お茶でも飲んで行かない?」
 
 
***
 
 
突如、部屋に現れた存在に、ジン(魔人)は瞠目した。
まみえることはないはずだった大いなる力を持つ者。夢かと思い、目をしばたかせる。しかし、黄の双眸に映る目の前にいる者の姿は変わらない。
有り得ない、と思った。そもそも何故彼がここにいるのか、その理由さえジン(魔人)には理解不能だった。
ただ強大すぎる力の前に、彼はおののき、早口で魔法を組み立てようとする。
けれども、立ち上がりかけた魔は、そよと吹いた風によって起こる前へと戻された。閉じられた窓が外気を遮断する部屋の中、風を起こせる者はただ一人である。
「無駄だ。その程度に言葉を必要とする時点で意味がない」
 冷ややかな声音には隠しきれてはいない侮蔑が交じる。
 敗北を悟った黄眸のジン(魔人)は、きつく奥歯を噛み締めた。だが、それも、これから来るだろう衝撃に備えるには、小さすぎるあがきでしかないことを、彼も知っていたのだ。
 
 
 
 ナイデルは自室への道を向かっていた。彼が窓の外の景色に目をやることはない。ただ、ひたすら黙考し、廊下を歩き続ける。
 皇都で相次いでいた火点け。その全てが、ナイデルが指示した彼ら、“人間”の手によるものだと言うことは、為した彼らしか知りえないことだ。ただ、宵の宴での一手だけがジン(魔人)の力に依る。全ては、この一手をごまかす為でもあり、皇宮の意識を火事に引き寄せる為にナイデル個人が画策したことであった。
 彼の望みは至って単純。フィストリア(五番目の姫)を終わらせることである。たった、それだけのこと。到底理解を得られるようなものではないだろう。
 だが、彼にとってはフィストリアの存在こそが最も大きな対象であり、最早それ以外に目的など見出すことは不可能となってしまっていたのである。
 この世の何よりも憎らしくて、愛おしい。殺したくて、生かしたい。
 相反する望みは決して叶えられるはずがない。
 彼の小さな子どもを引き入れる可能性さえ、あの日に潰えた。
 ディーオ・トリア(小さな姫君)――あの子を手元に置いておくのは、最も効率のよい方法だと、ナイデルは考えていた。なぜなら、あの子がフィストリアにならなければ、フィストリアも自ずと消える。彼が持つべきもの、待つべきものは、他にはいなくなる。
 しかし、彼の考えていたものとは裏腹に、事はあっさりと失敗に終わった。
 だが、それはそれでよい。結果的には上手くいったようだ。
 失望よりも愉悦が勝ったところで、ナイデルは独り、くっくっと喉を震わせる。彼以外には人影のない廊下には、虚ろにしかこだましない。
 矛盾する逡巡に気が付かぬままここまで来てしまった男は、自室の部屋の前に立ったところで、扉の取っ手を引き――眉を寄せた。
 開かれた扉の向こう、留守を任せていたはずのジン(魔人)の存在は綺麗にかき消えていた。
 
 
***
 
 
「なーんか、辛気臭い」
 トゥイリカは頬杖をつきながら、ぶつくさとぼやいた。早々に会議室の自座につき、やってくる弟妹たちを出迎えていた彼女はつまらなそうに口を尖らせる。今しがた扉を開けて会議室に入って来たオギハは、不平を洩らす長姉に軽く目をすがめてみせたが、いつものこととして黙殺することとした。
 すでに座していたヒビカと二、三、実務について言葉を交わし、オギハもまた席につく。彼は会議が始まるまでの間に済ましてしまおうと持ってきていた仕事を、机に広げるとヒビカと共に片しだした。
 トゥイリカは、すぐ下の弟の態度に片眉を上げ、半眼する。
「おやまぁ、久々に帰ってきた長姉様に会えて嬉しくないわけ?」
「勝手に遊びに行ったのは、お前だろうトゥイリカ」
「だから、お土産だって買ってきてあげたじゃない」
「誰が、お前からの土産を受け取るか」
 オギハは書類から顔を上げずに、しかし、答えだけは当然すべきこととして返す。でないと、姉が余計うるさくなることを、彼は頭が痛くなるほど知っていた。
 ヒビカだけは、わずかに視線を上げて、長姉と目がかち合った瞬時、苦笑を洩らした。
オギハがトゥイリカを毛嫌いしているのは、彼ら兄弟の間では昔から変わらぬ日常の風景の一つである。幼い頃はハラハラして眺めていたものだが、慣れてしまった今では彼らの応酬は娯楽すら見出せるというもの。口争い程度で、互いに手が出ることはない。長姉に関しては完全にからかっているだけらしいのが見て取れるので、口を挟まず傍観に徹した方が巻き込まれなくて楽というのが、ヒビカの見解だった。
 トゥイリカは、頬杖を突いたまま、首を傾げて言った。
「へーえ。でもほら、イオルは喜んで受け取ってたじゃない」
「――嫌味か」
「ええ、嫌味」
 弟の苦虫を噛み潰したような表情に、トゥイリカは心底満足そうに笑う。耳についた雫型のラピスラズリの飾りを指で触って揺らしながら、「だって、妃として落ち着いちゃうとは思わなかった」と言うトゥイリカに、オギハは鼻で軽く笑って「残念だったな」と返した。
「ねぇ、トゥイリカちゃん。これ、まずい」
 お土産だという得体のしれない木の実が詰められた箱を手に、長姉の横にやってきたウィルナは、ううぇえと舌を出して見せた。やわらかく煮詰められてから、平らにつぶされているらしい木の実は見た目だけなら、食べてみようかと思えるものではある。
「えぇ? おいしかったはずだけど」と、トゥイリカは、箱から一つ木の実をとって、口に含む。味を確かめるように、しばらく木の実をゆっくりと噛み味わった後、「やっぱりおいしいけど」と首を捻る。
 それを見て、ウィルナは口の端をひくつかせた。
「トゥイリカちゃん、もしかして、これトゥイリカちゃんが一人で選んじゃった?」
「そうだけど?」
「あれだけやめてって言ったのに! ちょっとヒビカ食べてみてよ。まずいとしか表現しようがないほどまずいんだから。これじゃ、私の味覚が疑われてるようで嫌だ」
 ウィルナはヒビカに木の実の箱を差し出した。けれども、箱を一瞥したヒビカは「嫌ですよ」とすげなく言い放った。
「安心してください。ウィルナの味覚が正しいことは分かっていますから。トゥイリカが選んだ時点で、独創的な味がするだろうことは大方見当がつきます。トゥイリカの味覚音痴は今に始まったことではありません」
「そのまずさを分かってもらいたいのよ。どれだけのまずさを私が味わわざるを得なかったのかを」
「嫌ですよ」
「ええー、今回はお薦めされていたのを買ってきたつもりなんだけど」
 不服そうに呟く長姉の前で、ヒビカとウィルナは「ああー……」と何とも言えない表情で顔を合わせた。
「間違いなく、その方も味覚音痴だったのでしょうね」
「これをお薦めできるなんて神経がしれないわ」
 一人、離れた場所で傍観していたルディが苦笑いをした。が、それができたのも、ウィルナと目が合う瞬間までだった。目ざとく長姉の土産の被害を受けていない弟を見つけたウィルナは、箱を手にしたままにっこりと笑って手招きをした。
「ちょっとルディ。こっちにいらっしゃいな」
「い、嫌だよ……!」
 その時、会議室の扉の取っ手が回された。
すでに集っていた者たちの目が一斉に入口へと向けれる中、「オギハー、任務完了したー」という間延びした声と共にドヨムが入室した。
「ああ」と、三番目の弟を目視したオギハは、また仕事に戻る為、視線を書類に落とした。
「ご苦労だったな」
「というよりさ、あれでよかったのか? フィシュア、始めっから割合まともだったぞ。わざわざ伝えて怒らせた意味はあったのか?」
「さぁ? だが、怒りの感情はいろいろと楽だろう。どちらにしろ遅かれ早かれ分かることだ」
「まぁ、楽しかったからいいんだけどさ」
 ドヨムは、肩をすくめた。それから、席に着こうかと歩き出したところで、その先を姉に阻まれた。
「何だ、ウィルナ」
「いやあ、この怪我どうしたのかなぁと思って」
 にこにことウィルナは、ドヨムの右腕にある傷を顎でしゃくってみせた。あからさまに背の後ろに手を回し、何かを隠しているらしい姉を、ドヨムは訝しみながらも、「ホークにやられた」と答えた。
 ウィルナは、ぱっと表情を作って言う。
「まぁ、それはかわいそうに!」
「いや、その顔、全然かわいそうとか思ってないだろう、ウィルナ」
「思ってる思ってる。かわいそうだから、これをあげるわ! さぁ、食べなさい。トゥイリカちゃんからのお土産。私の分も、いっぱい食べていいからね」
「いや、いい。いらん!」
「ほぉー、お姉さんがせっかくあげると言っているのに食べられないと言うの?」
「意味が分からんだろうが!」
 右腕に箱を抱え、左手に持った木の実をぐいぐいと口元に近付けてくるウィルナからドヨムは後ずさった。
 対象が三番目の兄に移ったこととで、自分への被害の心配はなくなったルディは「大変だなぁ」と他人事のように、兄姉の攻防を眺める。その横では、ヒビカが「どうせ、ドヨムが何かやったのでしょう」と溜息をついた。
 トゥイリカは、妹の行動を止めようともせず、逆に、にまにまと笑みを浮かべて面白そうに見やって言った。
「おや、何かやったの? ドヨム」
「んー……? 何もやってはいないぞ?」
「あー! あやしい! これはお仕置きものね。ささっ、食べなさい」
「だから、どうしてそうなる!」
 叫んだ途端大きく開かれたドヨムの口に、しめたとばかりに、とうとうウィルナの手によって、得体のしれない木の実がねじ込まれた。
 途端、口の中にぬちゃりとした食感とぬめぬめとした濃い汁が広がる。酸味が来たと思ったら、極端な苦味と甘味が入り混じったような、脳天に響く味が襲ってきた。すぐさま吐き出したのにもかかわらず、舌に残った味と感触は一向に消える気配がない。うずくまったドヨムは口を押さえて悶絶することとなった。
「――うえっ……まずっ……! 何だこれ!?」
「ね、まずいわよねっ」
「人の食いもんじゃないだろう、これ」
「ほっらー、言ったでしょう! トゥイリカちゃん」
 ウィルナは勝ち誇ったように胸を張る。
「そうかな? おいしいと思ったんだけど」
 トゥイリカはきょとんとした顔で、床に手をついている弟を眺め、「ドヨムは大袈裟だなぁ」と感想を漏らした。
「――まさかとは思うが、それ(まずさ)を実証する為だけに食わせたんじゃないよな、ウィルナ」
 労力を使い果たしたかのようなドヨムの問い掛けに、ウィルナは調子が外れた鼻歌をふふふんと歌った。
「お疲れ様です」とヒビカが、ドヨムの肩を叩く。珍しくヒビカが同情的な目を向けて、慰めてくれているのが、正体不明の木の実を食べたからだという事実に気付き、ドヨムは至極複雑な思いを抱いて、さらに肩を落とすこととなったのだ。
 
 
 

 

(c)aruhi 2009