5:継がる名 23 絡まりのないもつれ目【4】

 

『初めに言っておきましょうか。もしも、中でジン(魔人)が動いたなら、即座に潰しなさい』
 
 簡素な扉の前に立ち止まり、イオルは告げた。
『けれどもし』と彼女は彼に戒めを課す。
 
『皇族の誰が動いても、手出しをしないこと』
 
 ――この扉の向こう側では、皇族への介入は決して許されない。
それが、掟。
だから、彼女はあえてジン(魔人)に戒めを課した。
 
 
***
 
 
 何が起こっているのか、シェラートに状況が把握できるはずもなかった。
 だが、ザハルの言葉に血相を変えて立ち上がったフィシュアの喉元には、剣が突き付けられた。動く間もない、まさに一瞬の出来事であった。
 水を打ったように静まり返った場。漂う空気に穏やかさは微塵も感じられはしない。
 男が持つ濃い藍の底冷えする目が、フィシュアのみに向けられた。まるで、昨夜と変わらぬ状況。
 先日庭で出くわした時に、彼が纏っていた享楽さは見てとることは不可能であった。
 ただ、兄だと言う彼の双眸に言いようのない痛嘆がありありと浮かんでいたのを見てとって、彼は動かせぬ体に耐えたのだ。
 
 
 
「なぁ、オギハ、別にわざわざフィシュアに聞かなくていいじゃねぇか。当事者はそこにいるだろうが」
 ドヨムは、不満も露わに長兄に意見すると、顎でシェラートを示した。何の動揺もなく、その場に立っているように見える緑眼のジン(魔人)に、彼は不可解さを覚える。しかし、結局ドヨムは、彼に対して何かを言うことはしなかった。ただ、長兄に対し、「奴に聞いた方が手っ取り早いだろ」と、ぶっきら棒に進言した。
 どうも先程からの苛立ちを引きづっているらしい弟を一瞥したオギハは軽く息をつくと、トンと指で机を叩いた。
「まぁ、それでもこっちは構わないんだけどな。どうする、フィシュア?」
「――いえ、私が」
 息を吸う音が、静謐さの中、こだまする。
 胡坐をかいて宙に浮かんだまま、黄の双眸をきょろりきょろりと右へ左へと巡らせ続けているザハルだけが妙にこの場にそぐわなかった。
「私が、説明いたします」
 堅い表情で宣言したフィシュアは、一度礼をとる為、目を伏せた。そのまま先に取った行動への謝辞を淡々と述べ出した彼女を、オギハは嘆息を以って止める。
「そこら辺は、省略していい。要点だけ話せ。お前に考えるだけの間を与えるつもりはない」
 ひたり、とフィシュアは、口をつぐんだ。真っ直ぐに、皇太子を見据え、「では」と一言、彼の言葉に応じる。
「率直に申し上げしょう。彼の言う『王』とは、私たちの言う“異種の王”と恐らく同一。第七代トゥッシトリア(三番目の姫)、アジカの婿となり、皇家にラピスラズリをもたらしたジーニー(魔神)――正史と系譜を紐解いて確認しなおしましたが、正史・系譜共に彼の名の記述は見当たりません。ただ、そこには“ラピスラズリのジーニー(魔神)”と。市井に出回っている御伽話から引用するならば、“トゥッシトリア(三番目の姫)のジーニー(魔神)”または、“ジーニー(魔神)の王”。残された記述だけを参照するならば、正史よりも御伽話の方が、彼の詳細を多く語っているでしょう。それが、真であれ偽りであれ。
シェラートは――」
 フィシュアは、顔をわずかに動かし、“それ”が誰であるのかを皆に示すと、説明を続けた。
「そこにいるジン(魔人)の容姿が、ある地域の民族の特徴と一致することは、既知のはず。東の大陸、その中でも西海岸側一帯に多数を占める黒髪緑眼の特徴。彼は東の魔女であるサーシャ様と同じくカーマイル王国で生をうけた人間だったそうです。私たちと同じく人間であったはずの彼が今現在、ジン(魔人)としてこの場にあるのは、異種の王が彼をジン(魔人)としたから。ここまでが、彼の口から直接聞いた話。
 したがって、ザハルが言った“王の息子”を、そのままの意味でとらえることにはいささか語弊があるでしょう。事実、アジカと異種の王の間には、子がなされていません。もしも、子があったとするならば、系譜に彼の者の名が記されないはずがありませんから。このことからも、シェラートがアジカと異種の王とは血の繋がりを持った息子ではないことは明白です。
 ここからは、私の推測ですが、ザハルが彼を“王の息子”と呼んだのは、人間シェラートが、ジーニー(魔神)の中でも頂点に立つ異種の王の手によって、ジン(魔人)へと変化したからではないでしょうか」
 違う? と最後は、宙に浮いたまま成り行きを傍観していたザハルに向かって、フィシュアは話を振った。
「なーんかややこしいことになってるみたいだけど、ディーオ・トリア(小さな姫君)の言う通りは言う通り。人間は理屈がいるから大変だね?」
 くるりと逆さに回転して、黄眸のジン(魔人)は腕を組む。
「俺らの間でも異例っちゃ、異例だからね。ただの人間がジン(魔人)になるなんて。誰でも知ってるよ。王と息子の関係は、」
「――異種の王が存在しない今、王の名が持つ影響力は疑わしい点は多々ありますが。エルーカ村の奇病の原因、ペルソワーム河の水量が激変した原因をつくりだした水神の話はすでにお伝えした通り。水神は躊躇なく彼に対して攻撃をしてきましたし、そもそもジン(魔人)やジーニー(魔神)の間に、私たち人間と同じく頂点に立ち統率する存在があったようにはとても、」
「だってさ、本来“王”ってのは、そういうものでしょ。人間のがおかしいだけで。元来はその者自身につけられる、」
「ジン(魔人)やジーニー(魔神)の間に統率性があるようには、とても思えません」
「……おーい。無視かい、ディーオ・トリア」
 ザハルは半眼した。逆さに胡坐をした格好のまま、すいーっと宙を滑り行く。そのままフィシュアの目の前に辿りついた彼は、注意を引くべく彼女の前髪を引っぱろうとして――結局は石机にしたたか頭を打つことになったのだ。
 ガツリ、と派手な音を立てて、空中から転落したジン(魔人)。だが、今回はその滑稽な姿を見ても、誰もが失笑さえ漏らさなかった。
「いったい! だから痛いってば、息子!」
「だから息子じゃないって言ってるだろうが。というか、お前もう黙っとけ。ただでさえ面倒なのが、お前が喋ると余計ややこしくなるから。こっち来い」
 反射的に口を開きかけた黄眸のジン(魔人)は、だが、すぐに口をつぐむ。
「…………まぁ、別にいいんだけどさ……」
 のそりと、ザハルは机の上に立ち上がる。気がのらなそうにしながらも、机上から消えたかと思えば、次の瞬間には同胞の右隣へと現れていた。
 告げられた事実。当事者であるジン(魔人)と北西の賢者を除く、詳細を知らされていなかった者たちは、それぞれ考えるところがあるのだろう。思案気な顔つきとなっている面々を見渡して、フィシュアは独り息をつくと、「あと一つ」と再び口を開いた。
「申し上げなくてはならないことが」
「ちょっと待ってよ、フィシュア」
 彼女の口上を止めたのは、ルディだった。
「だって、人間がジン(魔人)にって、そんなこと……。そんなこと聞いたことがない。そもそも、ジン(魔人)が、いることさえ知識としては知っていても、確とした証拠はなかったのに」
居並ぶ者の中でも最年少の彼は、当惑を顕著に浮かべて、すぐ向かい側に座る姉に、時折しどろもどろとなりながらも、言い募る。
「“有り得ない”、と」
弟の戸惑いを引き継ぎ、ウィルナは言った。説明の間中、口に手を寄せて押し黙っていた彼女は、口元をほどいて、膝の上に手をおろす。
「断じるのが、普通ではあるわよね」
「けど、まぁ、実際に有り得てるわけだ。俺らの目の前で。しかも、初めてお目にかかれたジン(魔人)がそれとはな。大層奇特な体験をしているもんだ」
 ドヨムは、頭の後ろで両手を組むと、ハッと笑った。座している椅子を斜めに傾ける。ギシリギシリと唸り揺れる椅子を、彼は椅子の後ろ脚だけで器用に安定させ、保った。
 形のよい眉をひそめ、こめかみに手を当てていた皇太子妃は、咎めるように己の肩越しを振り返る。
「……私の思い違いでなければ、その情報は聞いていなかったと思うのだけれど」
「イオルには、聞かれてなかったからな」
「ちょっと! フィシュアに聞かれたことくらい自分で判断して先に言っときなさいよ」
「知るかよ、そんなの」
 声を落として文句を言うイオルに、シェラートは「別にそんな重要なことでもないだろう」と、しれっと言い返した。なじりたい気持ちを抑え、彼女は、恐る恐る隣に座るオギハの様子を伺う。探るような視線に気づいたのか、オギハは一度肩を竦めてみせた。
「ま。今回分は、フィシュアが報告を上げなかった方が問題ではあるしな」
 ほっと、イオルは胸を撫でおろす。安堵で頬を紅潮させて、彼女は強張った口元を緩めた。
「けれど」と、ヒビカは二つの鏡部を繋ぐ眼鏡の山を指で押し上げると、その奥にある藍の双眸に剣呑さを色濃く滲ませた。
「このことが知れたら、ジン(魔人)に成ることを望む輩も少なからず出てくるでしょうね。ジン(魔人)の力の大きさが、実際どこまでのものかは誰も知るものがいませんが、ただ“偉大”であるということだけなら、誰もが知っていますから。その力をものにしたいと思うものが出てきてもおかしくはない」
 兄の見解に、フィシュアは、重々しく頷く。
「そう。そして、そういう輩がこの場所からでないとは限らない。むしろ事を為そうとするならば、ここにいる者の方が可能。財力も人員も他と比べれば有り余るほどありますから。例え、自身がジン(魔人)になろうとはしなくても――ジン(魔人)の力を手に入れたいと願うのならば。
 できることなら、あなた方には知って欲しくはなかった。この国で最も権力を持つあなた方には」
「だから、思わず身体が動いたと? にしては、あまりにも軽率すぎたな」
 口の端だけを笑わせて、オギハは妹をすがめ見る。取り繕うだけ無駄なのだろう。だから、フィシュアは、兄にただ自嘲を返した。
「思考よりも手が出てしまうのは、いつの頃からかは知らぬ私の悪い癖。なおさなければと、つい先日も思ったばかりなのに、上手くは行かぬものですね」
「確かに? フィシュアの言うことももっともではあるだろう。だが、お前が懸念している権力を持つのは、お前も同じ。例え、お前のその権力を使っているのが、国内外を年中旅をしている宵の歌姫ではなく、常に皇宮のどこかに存在しているはずのフィストリア(五番目の姫)だとしても、だ。対外的には、フィストリアが使っているのに、何ら変わりはない」
「理解してはいるつもりです。今も。これからも。人間をジン(魔人)に変えるほどの力を持つ者を探しだすのに誰が最も適しているのかも」
「なるほど?」
 上滑りばかりする会話。
終止符を打ったのは、パチリと鳴った、両の手が出した乾いた音だった。
 彼らの長姉であるトゥイリカは、叩いた両手を合わせたまま面々を見まわして「黙りなさい」と弟妹に言い渡す。
「起ってもいないことをくどくど突きあっても仕方がないの。時間の無駄。そこにいるジン(魔人)は異種の王に変えられた元人間であった。今回は、それでいいじゃないの。次よ、次。まだ言わなきゃならないことがあるんでしょう? フィシュア」
 はい、と長姉に応じたフィシュアに対して、オギハはトゥイリカを咎めた。
「そういう問題じゃないだろう」
「じゃあ、どういう問題よ?」
 肩に落ちてきた髪をトゥイリカは、片手で梳いて掻きあげた。耳先を掠めた手が、彼女の耳を彩る藍色の石の耳飾りを揺らす。
 観察するかのような瞬きのない姉の視線に、彼は心底嫌そうな顔をして背もたれに気だるく重い身を預けた。
「今回に関しては、フィシュアの証言が信頼に値するものと考えるには無理があるだろう」
「ならば、私はフィシュアの肩を持つ。信頼に足らずとも、フィシュアが皇家に不利なことを為すはずがないということだけは確かだからね。できないよ、この子には。良くも悪くも情に厚い。この子は、皇家を裏切れない――決して」
 
 
 

(c)aruhi 2009