5:継がる名 26 空の檻【1】

 

 数世代前の皇帝が定め、始めた理。
 その地位を担う者のほとんどが、今や本来の役割の意味を知る術を持たない。
 ただ、わずか。その意味を知る者たちだけが、与えられた義務を不可欠なものとして崩壊せぬよう計らい、あるいは連綿と続けられてきた歪さを断ち切ろうとしていた。

***

 自らが何者であるかを明かした上で、回廊の中央に立ちふさがった少年。睨みつけてくる藍色の双眸には、力ばかりがこもる。
 テトは混乱しそうな頭を必死に動かしながら、ジャニムを見返した。「えっと」と口を開いてはみたまではよかったが、どう反応すればよいのか言葉に迷う。
 第六皇子ということは、つまりフィシュアの弟で間違いないだろう。どうしてここまで敵視されているのかはよく分からないが、さっき彼が怒ったのは姉を心配したからに違いない。
 ジャニムと名乗った眼前の少年とフィシュアの顔立ちはあまり似ているようには思えなかった。しかし、目と髪の色味だけならば、とてもよく似通っている。恐らくジャニムの言っていることは真実だろう。彼の身分を考えれば、門番の二人が態度を変えたのも納得できた。
「……ジャニムは、フィシュ」
「何の権限でお前に呼び捨てにされなければならない!」
 肩を怒らせたジャニムを前に、テトは咄嗟に謝りかける。だが、謝罪は息と共に呑み込まれた。
 そろりと、ジャニムの背後に現れた人影。驚いたテトが声を上げるよりも早く、彼女は『しっ』と人差し指を自身の唇にあてがい、テトに沈黙を促した。
 透き通る白指の両端で、ふぅわりと口角が持ち上げられる。遅れて零れた、うふふという笑声に、青ざめたのはジャニムだった。
「本当にジャニムったら。外に出るようになってから荒い言葉ばかり覚えてくるのだから」
 困ったものね、と少女は左頬に手を当てて柔らかに眉根を寄せる。「だから、外の学校にはやりたくなかったのよ」と少女は溜息を漏らす。
 振り返りざま、自分の背後にいた人物を目にしたジャニムは後ずさった。少女は、慄くジャニムの様子には目もくれず、改めて向かい合うテトを見据える。
「はじめまして、テトラン」
 年上の少女は、一歳ほどの小さな女の子の肩を抱いて、挨拶の言葉を口にした。
「私は、ナシア。こちらは妹のタルラ。どうぞよろしくね」
 おっとりとした少女の声が回廊に響く。
 次の瞬間には、全てが終わっていた。いつの間にか、縄で縛りあげられていたジャニムが、回廊の床で「んー! んー!」と抗議を上げながら、蠢いていたのである。その後ろで、ナシアに連れてこられたのであろう武官が申し訳なさそうに立っていた。
 部屋に運んでちょうだいな、とナシアが悪びれもなく武官に命じる。目を白黒させているテトの目の前で、武官は軽々とジャニムの身体を肩に担ぎあげた。ジャニムがいくらじたばたと身体をくねらせても、それが無駄な抵抗であると、テトでも容易に見てとれる。
「さぁ、テトラン。いらっしゃいな。お茶でもしながら、ゆっくりお話ししましょう」
 ね? と首を傾げるナシアの姿は、きっと誰が見ても愛らしい。
 ナシアに手をとられたテトは、彼女の提案を断る術など当然持ち合わせておらず、されるがままに彼女の部屋へと連行された。

 通されたのは、フィシュアの部屋とよく似たつくりの部屋だった。しかし、至る所に明るい色の花やら小物の置かれているその部屋は、部屋の主であるナシアの雰囲気をよく反映して華やいでいた。どちらも小奇麗なのには変わりはないが、二部屋が随分と異なる場所に見えるのはそのせいだろう。
 今までにない女の子らしさが前面に出ている部屋で少なくない居心地の悪さを感じながら、テトは出された茶をおずおずとすすった。
 正面では、タルラが器に盛られた木の実の中に小さな手を突っ込んでは、ぼろぼろと零しながら、一心に実を口元に運ぶ。
 幼子のすぐ横で、姉のナシアは顔を綻ばせ茶を口にした。茶を飲むという同一の行動であるはずなのに、向かいに座す彼女の仕草は、テトの目から見てもいかにも品がよく、とても真似できそうにない。外見だけならテトとは多くとも二三歳しか変わらないだろうに、ナシアは随分と大人びて見えた。
 ナシアが茶杯から口を離す数瞬。伏せられていた縁取りの多い睫毛から、徐々に藍色が覗く。少女のつぶらな瞳と目があって、テトの鼓動は意思に関係なく奇妙に鳴り動いた。
「あ、あの。ナシアさん」
「何かしら?」
 ナシアは、茶杯を受け皿に戻して、そっと小首を傾げる。テトは緊張を押し殺して、口を動かした。
「……ジャニムって、あのままでいいの?」
 テトの目線の先。壁際では猿轡を噛まされ、手足を縛られたままのジャニムがうごうごと身体をよじっている。
 ナシアはちら、とそちらへ注意を向けると「いいのよ、いいの」と笑って、摘みとった木の実を口に含んだ。
「それよりも、テトラン。弟が、ごめんなさいね? あの子、フィシュアがせっかく帰って来たと思ったら、外に出ずっぱりでなかなか構ってもらえないから拗ねているのよ。ほら、都に歌いに行っているでしょう? 兄様も姉様も大体みんな忙しいし、それでも暇を見つけては私たちと遊んでくださっていたのが、ドヨム兄様と、フィシュアとルディだったんだけど、……そこにあなたたちがやってきちゃったから余計にね。フィシュアはあなたたちの様子を気にかけているみたいだし、ルディもこの頃、忙しいみたいだし。さっきのは、ほとんどジャニムの八つ当たりみたいなものだから、テトランは何も気にすることないわ」
「……う、うん、分かった。けどね、僕もいろいろだめなところがあったと思うし、ジャニムの縄、解いてあげてもいいかな?」
 ナシアは寸の間、思案する。しかし、真剣な面持ちで答えを待っているテトに、彼女は吐息した。
「テトランがそうしたいのなら」
「――ありがとうっ!」
 ナシアが肩を竦めたのを目の端に入れながら、テトはそそくさと椅子から飛び降りた。すぐさまジャニムの元へと駆け寄り、まずは彼の口を塞いでいる布を外しにかかる。
 いかにも窮屈そうにジャニムを拘束している布の結び目は硬い。手伝ってもらおうにも、武官はナシアが部屋から出してしまった為、既にこの場にはいなかった。
 けれども、この結び方は知っている。強度のあるこの結び方は、重い荷物を運ぶときに重宝していたのだ。外しにくいが、外し方さえ知っていれば外せないことはない。テトは薄茶の髪を巻き込んでしまっている結び目を確認すると、ジャニムに話しかけた。
「ごめん、ジャニムちょっと痛いかもしれない。我慢して」
 後方を振り返り、ジャニムが恐る恐る頷く。それを見てとったテトは、少しだけ緩めた結び目の隙間に無理やり指をねじ込んだ。引っ張ってしまった分、布がジャニムの頭に食い込む。結び目を広げてしまった後は、あまり引っ張りすぎないようにと注意しながら、テトは布を解くことに専念した。
 ようやく解けた結び目にテトが安堵したのと、ジャニムが息を吐き出したのは同時だった。
「よかった!」
 テトは縛めをなくした布をジャニムの口から取り去ると、続いて手足に付けられている縄を解きにかかった。ジャニムは黙り込んだまま、徐々に楽になっていく身体を起こして壁に凭せかける。
「よし、終わり」
 満足げな声につられて、ジャニムは手足を動かしてみた。縛られていた箇所がすれて若干痛くもあるが、どこも不自由なく動く。
 ジャニムが自分を助けてくれた少年に目を向けると、彼は床に投げ出していた布と縄を集め、律儀にも個々に纏めていた。
「ねぇ、何かテトランに言わなきゃならないことがあるでしょう? ジャニム」
 可笑しさを堪え切れていない声が、ジャニムのすぐ横からかかる。いつの間にやって来たのか、近くにしゃがみ込んで頬杖をついているナシアの姿に、ジャニムは呻いた。
「うるさいなぁ。今、言おうと思ってたんだよ」
「なら、早く言いなさいよ」
「――っ」
 ジャニムの顔が、かっと赤くなる。
「ねぇ?」とナシアに話を振られて、慌てている渦中の人物を、ジャニムは指差した。
「元はと言えばぜんっぶ、こいつが悪いんだろ!」
「何をどう間違ったらそうなるのよ!」
 ナシアは、弟の頭を手で叩く。自然、テトに向かって辞儀をする形となったジャニムの姿に、テトは苦く笑った。

 

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