5:継がる名 25 絡まりのないもつれ目【6】

 

『いーい? テト。約束をしましょう。もしも何かあった時は、絶対に母さんに相談すること。どんなにくだらないことだって構わないわ。母さんは全く困らないから。ね、だからテト。他の誰よりも先に母さんに相談してちょうだい。約束』

 息子の片頬を指でつまみ、母はつねった彼の頬を二三前後に振った。テトが、今よりもずっと幼かった頃。父が亡くなって間もなく、確か三歳にも満たなかったように思う。
 テトが生まれ育った村には、上も下も歳が離れた子ばかりで、同世代の子がいなかった。そのせいか、一番身近にあったのは、いつの時も母である。彼女との約束を抜きにしたとしても、テトは母に相談することをためらわなかっただろう。彼ら親子の間に横たわる相談事は、日々の会話の延長にすぎなかった。
 自分を取り囲む級友の数だけ飛んできた“相談”という言葉が示すものの説明に、テトはようやく“相談”が持つ本来の意味を理解する。同時に、母があのような約束を取り付けた理由が、時には人に頼る術を早いうちからテトに身に付けさせたかったからではないかと感じた。
 だが、今回の件に関しては、事情を知らぬ他者に相談してよいのかすら悩むところだ。もし相談をするのならば、これまでに起こった出来事を級友たちに一から説明しなければならない。それには膨大な時間を要するだろうし、うまく言葉にできる自信もなかった。
 母ならば、テトの拙い説明にも辛抱強く耳を傾けてくれたのかもしれない。しかし、同様の事を皆に求めてはいけないことなど理解している。
 友人たちは話を熱心に聞いてくれないだろう、と考えている訳ではない。けれども、身の回りで起こった出来事を逐一相談するにはどうしてもまだ気兼ねしてしまうのが事実だった。
 相手がフィシュアやシェラートだったら、また違っただろうかという疑問がテトの頭をよぎった。二人は、テトに対峙する時、必ずと言ってよいほど、わざわざ腰を下ろし、目線の高さを同じにする。こちらが安心するほど笑みを浮かべては、テトの頭を撫でてくる。
 だけど、今回は相談できるはずもない。これは、恐らく彼ら二人についてのことなのだ。
「で? どうしたんだよ」と尋ねてくるナルマに、テトは「うん」と頷き、うやむやに言葉を濁した。
「僕も何がそんなに分からないのかはよく分からないんだ」
 テトが言うと級友たちは揃って変な顔つきになる。
「胸のあたりが気持ち悪くって、もやもやする。きっと何かがあったとは思うんだ、あの時。何があったのか、教えてくれないけど」
 いや。正確には、シェラートはきちんとテトに教えてくれた。ただシェラートの説明に納得できないと勝手にテトが思い込んでいるだけなのかもしれない。
 今朝、テトは通学前にシェラートと伴って怪我を負ったというロシュを見舞った。
 シェラートは部屋に入るなり、既に寝台で身を起こしていたロシュに、皇太子妃と契約を結んだ旨を告げた。昨夜テトも知らされていたことではあったが、前置きのなさにテトはいささか驚く。
 しかし、報告を受けたロシュが動じることはなかった。常と変らぬ様子で「そうですか」と静かに息を吐く。
「そういうことだ」とシェラートは肩を竦めた。
 話はそれであっさりと終わった。
 ロシュは、昨夜の自分のようにシェラートが皇太子妃と契約した理由について尋ねはしなかった。シェラートもまたロシュに対して、昨夜自分に答えたように「情報が欲しかったから」などという安易な理由は述べなかった。
 テトにしてみれば上澄みを掬いとっただけで、本質に触れてすらいない応酬。
 しかし、そう感じるのは自分だけで、二人は違うのかもしれない。現に、シェラートがロシュの体調について二三確認した後は、他愛も会話が往復しているだけだ。
 きっとそうなんだ、とテトはどうしようもなく疎外感を覚えた。
 悲鳴のように叩かれた扉。
 現れたフィシュアはぼろぼろで、半狂乱となった彼女をシェラートが諭す。ものものしい雰囲気の中、「大丈夫だ」と部屋に残された。慌ただしく部屋を出た彼らに遅れて閉じた扉。戻ってきたと安心したら、一変していた状況。あの長くも短かった時間に一体何があったのか。
 自分一人だけが事情が呑み込めず、現状についていけない。昨夜と同じ。置いていきぼりにされた気がした。
 大して役に立てないことは、テト自身、身に沁みるほど重々承知している
 だけど、それよりも。心配なのだ、単純に。
「僕だけ知らないんだ。ほとんど何も。だから分からないんだ。分からないことだって、ちゃんとは分かってないと思う」
 テト、拳を握りしめた。
 苦虫を噛みしめているかのようなテトの顔つきに、級友たちは唖然とした。テトは、ハッとして拳を開く。空気を重くするつもりはなかったのだ。「ご、ごめん」と慌てて取り繕う。
 そうじゃなくって、とイーラは、いらいらとテトの机に手をついた。
「いいのよ、そんなこと。ねぇ、だってテト、分かんないなら聞いたらいいじゃない」
「聞いても教えてもらえなかったんだろ、どーせ。それか、教えてもらったけど、嘘っぽかった」
 横やりを入れてきたナルマをイーラは一睨する。けれど、情けなさそうに眉を下げたテトを見て、どうやらナルマの言ったことが図星らしいと悟ったイーラはテトに向かって二本、指を立てた。
「いい? なら方法は二つあるわ。もしも相手が私たちと同じくらいの子どもなら腕を掴むの。両手で掴んで離さないの。話してくれるまで離さないからって、粘って粘って粘るのよ」
 あと一つは、と彼女は指一本のみを残して、他を折る。
「駄々をこねる。大人なら、駄々をこねるのが手っ取り早いわ」
「えっ?」と、テトは聞き返す。
「だって、大人だったら掴んだってすぐ手を離されるもの。だから駄々をこねるのが一番。あんまりうるさいと、あっちは怒りだすのよ。それでもうるさくしてたら、観念して教えてくれることが多いもの。少なくとも、うちの親はそう。たまに、扉閉めて出て行っちゃうけどね。私、それでも追っかけるもの」
 自信ありげに、少女は胸を張る。
 テトは虚をつかれた心地がした。目を丸くしたまま、まじまじとイーラを見つめる。
 テトただ一人が感心している中、周りの級友たちは彼女の執念深さを心底恐ろしいと思ったのだが、口に出せるような気骨のある者はいなかった。
「分かった? テトが疑うくらいだもの。その人絶対嘘をついてるわ! きっとそうに決まってる」
「イーラは随分と自信があるんだね?」
 ジィールが尋ねれば、イーラは「ええ」と妙に鷹揚に頷く。
「だって、母さんが父さんを疑う時って、大抵父さんが店の売り上げ、ごまかしてるもの。子どもも大人も嘘はつくわ。だって、私たちが嘘を言えるようになったのは、きっと大人が嘘をつくのを真似たからだもの」
「うん、イーラが言うのも一理はあるかもしれないな。その人にもう一度聞いてみたらどうかな?」
 引き継いだジィールに、テトは心底自信がなさそうに首肯する。
「まぁさっ。聞くなりなんなり何でもいいから、ぱぱっと解決して、早く元気になれよ? 大丈夫。だってな、テトには俺たちがついてる」
 ナルマは一回り身丈の大きな級友の頭に両手を伸ばすと、そのまま机へ押し下げ、髪を掻き混ぜた。
 机に顔面が衝突しそうになったテトは「わっ」と声を上げ、木版にぶつかる寸でで首に力を入れ、踏ん張る。
 次にテトが顔を上げると取り囲む級友たちが皆、得意げに笑っていた。



 テトはいつものように迎えに来た馬車に乗り込み、一路皇宮へ急いだ。
 と言っても、心が急くばかりで、馬車の速度は昨日と変わりがない。石で舗装された道の真ん中を、馬車は一定の速さで、周りの景色を追い抜いていく。
 この馬車での通学は、もう数カ月になるというのに、ふわふわとした乗り心地が未だに心もとない。村から叔母の住む街リムーバへ行く時に使った乗合馬車は、座席もない上、床が堅く、尻も腰も痛かった。シェラートの前に乗せてもらって、馬で移動していた時には、地を蹴る蹄の振動も、熱も汗も匂いさえ直に伝わってきた。
 とにかく、と流れる街をやり過ごなしがらテトは心に決めた。イーラが言ったように直接聞いてみよう。今度は、フィシュアにも話を聞かなくてはならない。
 ゆるやかに速度を落としていく馬車。テトは待ち切れずに、扉を開けた。
「ウルムさん! イージガさん!」
 馬車から飛び降りてきた少年に、門番の二人は「おう」と揃って目を向ける。
「よ、テト。お勤め御苦労さん。寄り道してたのか? 今日はちょっと遅かったな?」
「あんなぁー、テト。あんまり急いでるからって、止まってないのに馬車から飛び降りるなよ。あっちでフゥイのじいさんが睨んでるぞ」
「あ、あのね、でも、あぁ……! ごめん、フゥイさん」
 もどかしく思いながらも、テトは馬車の御者を振り返り、呼びかける。「今度やったら、轢いてしまうかもしれないからな」と言い残し、去ったフゥイの背を、テトは手を振り見送った。
「で? そんなに急いでどうした?」
 手に持つ長槍に凭れかかり、のんびりと問いかけてきたウルムに、テトは「うん」と気を取り直し、二人の門番を見上げた。
「フィシュ……じゃなかった、フィストリア(五番目の姫)様って、どこにいるか知らない?」
 フィシュアと言いかけてテトは慌て言葉を変えた。ここは皇宮だ。安易に、フィシュアの名前を呼ぼうものなら、気のいいこの二人でも怒るかもしれない。
 だが、テトの予想に反して、二人は顔を見合わせると、揃って怪訝そうな顔になった。
「フィストリア、様?」
「う、うん」
 確認してくるイージガに対し、テトは頷く。けれど、「フィシュア様じゃなくってか?」と重ねられた問いに、今度はテトが「え?」と彼らに聞き返した。
「だってさ、テトをここに連れてきたのって、フィシュア様だったろう。どうしていきなりフィストリア様なんだ?」
「フィストリア様も、いるっちゃいるだろうけど。確かずっと寝込んでらっしゃったよな?」
「いや、どうも最近は起きてらっしゃるらしいぞ。今日も何かお偉い同士の会議に出席されるとか」
「へえー。なら、加減がよくなったんだろうな。身体が弱いって聞くし、あんま無理しないといいんだが」
「――ちょ、ちょっと待って! フィシュア、まだどこか悪いの!?」
 テトは慌てて二人の腕を掴む。対して、二人は何やら焦燥めいている少年を不思議そうに見下ろした。
「フィシュア様が病気なわけないだろう。今日も、廊下を走っていったのを見かけたしな」
「だ、だって今」
 訳が分からず、テトは二人の顔を交互に見ながら答えを求める。しかし、混乱するテトをよそに、彼らは首を捻っただけだった。

「そこな少年」

 呼び声と同時に、今の今までだらけていたウルムとイージガがきりりと身を正す。
 テトが、一体何なのかと振り返ると、ちょうど自分と同じ年の頃の身なりのよい少年が立っていた。色濃い藍の瞳が小柄な顔に際立つが、ぶっきらぼうに口を引き結んでいるため、いかにも威張っているように見える。
「お前だ、お前。ちょっとこっちに来い、少年」
 ぼんやりと突っ立ったまま、小奇麗な少年を眺めていたテトは、後ろから背を門番たちに小突かれ、ようやく自分が呼ばれていたらしいことに気が付いた。
 門番の二人を振り返ると、彼らは、いいからいけ、と素早く口を動かし、しっしとテトを追い払う。
 テトはどうしようもないので、今出会ったばかりの眼前の少年に従うことにした。
 一歩、踏み出したテトを認めて、見知らぬ少年は歩き出す。おかげで、テトは小走りをする羽目になった。
「ねぇ」と、テトは前を歩く少年に向かって問いかける。
 しかし、予想通り、彼が歩みを止めることはなかった。
 門の先の道を越え、皇宮の建物内部へと繋がる回廊の入り口に辿りつく。皇宮に来た初日、フィシュアが馬車を付けた場所だ。あの日ここまで迎えに来てくれた初老の侍従は、あれ以来この辺りでは見かけない。
 屋根のある回廊へ入り、ふっと日が翳る。冬の到来と共に昼間は肌に心地よい温度となった空気も、影に入ると少し肌寒い。
 無言で前を歩き続けていた少年が口を開いたのは、建物内部に入り、数十歩行ったところだった。
 彼は急に立ち止まると、驚くテトを燃やす勢いで睨みつける。
「あまり外でフィシュアとフィストリア(五番目の姫)を繋げるようなことを口にするな。いいか。皇宮と言っても内と外は随分と違う。ましてや、フィシュアがフィストリアであると知っているのは内でもごく一部。皇族に、上級武官と皇都警備隊の上部、それから直接皇族に仕える侍従くらいだ」
 テトは、少年の威勢に息を呑む。
 言葉の出て来ぬテトから、彼は軽蔑するように目を逸らすと、再びテトに構わず歩き出す。
 置いていかれそうになったテトは、慌てて少年を追いかけた。早足で歩き続ける少年に、なんとか追いついたテトは足並みを揃えるべく半ば走りながら、彼の横について歩く。
「待って。ちょっと待ってよ。君はフィシュアを知っているんでしょう!? フィシュアに会いに行きたいんだ。今どこにいるか場所を知らない?」
「だから、たやすくフィシュアの名を呼ぶなと言っているだろう?」
「それは、後で謝るから。君もフィシュアのこと知っているんだよね? 君の話が本当なら、君はフィシュアと仲もいいんじゃない? だけど、君は武官でも警備隊でも侍従でもなさそうだし……ええっと、誰なの?」
 テトはぴたりとついて歩きながら早口で少年にまくしたて続けた。
 とうとう少年はダンッと床を踏み鳴らすと「しつこい!」と肩を怒らせ立ち止まった。
「いいか、そんなに聞きたいなら、その汚ない耳の穴をかっぽじった上で、よおく耳を澄ませておけ。俺は、ダランズール帝国第六皇子ジャニム。これだけ言えば、お前でも充分理解できただろう」

 

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(c)aruhi 2010