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「ロウリィ! 仕事ほっぽらかして何やってるんですか!」
「何って水やりですよ、カザリアさん」

 それは見ればわかる。つばのとても大きな帽子をかぶって、にこやかにこちらを向いた彼が手にしているのは見紛うはずもなく‟じょうろ”であり、その‟じょうろ”から植物に向かって水が綺麗な流線を描いているのだから。
 けれど私は、名目上は一応領主であるはずの我が夫が、なぜ庭師の仕事を奪っているのかと問いたいのだ。
 そんな疑問を察してくれるはずもなく、今日もぽやぽやとこの夫は首を傾げた。
「大丈夫ですか、カザリアさん? 少し息が切れているようですが」
「一体誰のせいだとお思いですか! あなたを探していたんですよ、ロウリィ!!」
 ぜはあ、ぜはあ、と肩を上下させたまま私は叫んだ。
 役人の一人に「また領主がいない」と泣きつかれたのは一時間も前のこと。それから、私は無駄に広い屋敷中を走りまわることとなった。
 なぜなら、私以外の屋敷の者は積極的に彼を探そうとはしないのだ。「いつものことですよ」「どうせすぐに戻ってきますから」と皆が皆、口を揃えて言う。
 それは決して、この地を治めている領主に対しての皮肉ではなく、当然ながらみんなの懐が深いわけでもなく、よくも悪くも彼らは、よく似ているらしいのだ。この目の前にいる能天気な楽観主義者に。
「でも、今日の僕の仕事はもうないはずですよ」
「で・き・た・か・らっ! 呼びに来たんです!」
 じゃなかったら誰がわざわざ屋敷を一周しますか!……と叫びたくなる気持ちを抑えつつ、「戻りますよ」と笑顔を浮かべてみる。
 だが、明らかに落胆した様子の彼は『フィラディアル宮廷の花』と褒めそやされていたはずの私の笑みを見向きもせずに、手にしていたじょうろを傍に立っていた庭師の老人へと手渡した。
 ちょっと、本当にひねりたくなりましたよ。彼のふわふわとしてどこか気持ちよさそうな両の頬をぎゅうっと。思いっきり。持てる限りの握力をもって。
「ほら、せっかく奥様が迎えに来てくださったのですから、今日のところは大人しくお戻りなさい」
「そうだね、ルーベン」
 まるで孫を諭すかのような庭師の言葉に、ロウリィは微笑み、服についた土を払いはじめた。それから、彼は手を洗いに、一度、水場へと向かう。
 どうやら本格的に戻る気になったらしいと安堵する私に、ルーベンが片目を瞑ってみせた。
「ありがとう、ルーベン」
「いえいえ、奥様も大変ですな」
「ほんっとうよ」
 うんざりと溜息をつくと、ルーベンは穏やかな表情のまま、おかしそうにクスクスと笑いを漏らした。
 私はこの庭師の老人が嫌いではない。むしろ、とても好意的な印象を抱いている。
 宮廷に出入りする者と変わらぬほど紳士的な優雅さを持つルーベンは、一緒にいると日向ぼっこをしている時のような心地がして、安心するのだ。
 ここへ来て早くも一週間たったけど、今の時点で、私が心を許せているのは夫よりも、むしろ、この庭師の方なのではないのかと思わずにはいられない。
 そもそもロウリィの訳のわからぬ説明を、きちんと順を追って説明してくれたのもルーベンだった。

 だけど、ルーベンが話してくれた‟訳の分からぬ説明”の内容は、順を追っているにもかかわらず本当に訳のわからないものだったのだ。

 先日、ロウリィから聞いたチュエイルという名の一族。
 代々、この地で長く領主の座についていたチュエイル家は、一年半前、王によって領主の地位を剥奪された。
 あまりの横暴さと横領の多大さに、訴えでた領民の嘆願が王の耳に届いたのだ。
 ここまでは、いい。しかし、ここからが問題だった。
 領地であったはずのここ――エンピティロで、権力を奮い、融通をきかせることのできなくなったチュエイル家は、こともあろうか現フィラディアル国王アトラウス陛下によって新たに配属された領主たちの暗殺をもくろみはじめたらしい。
 幸いなことに、今まで死者だけは一人も出ていない。けれども、彼らは皆、毒を盛られ、刺客に襲われ、死ぬまではなくとも散々な目にあって王都へと逃げ帰ったのだという。
 そこで、次期領主として白羽の矢が当たってしまったらしいのがロウリエ・アジ・ハルバシン・ケルシュタイード――後に、というより、今現在私の夫となってしまったその人である。
 アトラウス陛下とは面識があるだけではなく、親しくさせていただいていた。何かと気にかけてもらってすらいたのだ。
 恐らく陛下も彼が私の夫になるなんて夢にも思っていなかったんだろう。
 もしも、事前にご存知だったらこの采配を考え直してくださったはずだし、私でさえこんな状況に置かれるとはまったく予想していなかったのだから。
 それよりも、何を思って私の両親がここへ嫁がせたのかが一週間たった今でもちっとも意味がわからない。
 ただ一つ、私にもわかることはロウリィがここ――エンピティロの領主となったのは彼の政治的手腕によるのではなく、彼の異常なまでの毒に関する知識によるのだろうということ。
 常人が気づかぬ無色無味無臭の毒でさえ、彼はいとも簡単に見抜いてしまう。
 口にするものから、身に着けるものまで、ありとあらゆるところに仕掛けられた毒を、ロウリィは「なんだかいつもと違います」という私からすると何とも根拠のない理由から毒を回避することに成功し続けているのだ。
 その数は、とうに両手の指の数も、さらにそれに足の指を加えた数も越え――まだ一週間しか経ってないのに、この多さ!
 私は数えるのを早々に諦めることにした。

「はあ」
 溜息を一つ吐き出して、近くに茂っている花樹の大きな葉に手を伸ばす。今はまだ花の季節ではないこの樹。これだけ、葉が生い茂っていると、このむしゃくしゃした気持ちと一緒に無性にちぎりたくなる。
 プチリとちぎったその瞬間、泥を落とし終えたらしいロウリィが戻って来た。
「あ、カザリアさん。その紫陽花も毒ありますからね。ついでにいうとそこら辺に植えられている、そこのスズランも、チューリップもユリにも毒が……」
「――っロウリィ!!! だからそんな説明はいらないって、言っているでしょう!?」
 これでは、おちおち花を愛でることさえもできないと、ぽやぽやした夫の毒談義を聞くと思う。
 とにかく、なんにつけても毒が関係していれば彼は毒の話題を持ち出してくる。
 ロウリィの毒に対する知識が並々ならぬものにまでなっているのは、ひとえにただ彼が毒に関連することが好きだからなのだ。必要に駆られたわけではなく、愛しているからなのだ。
 そもそも、ここの領主にさえならなければ、こんなぽやぽやした人物が狙われる理由もなかっただろう。むしろ、放っておけば勝手に自滅してくれるに違いない。
「ルーベン、じょうろ」
「はい、奥様」
 ルーベンはにっこりと穏やかな笑みを浮かべる。
 彼から差し出された水が入ったままのじょうろを受け取り、ロウリィがいる方角へと腕を大きく振りかぶって思いっきり投げる。
「あぎゃっ!」
 ぼこっという景気のよい音に続いて、見事にじょうろが目標の人物に命中したことを示す間抜けな悲鳴が庭の片隅に響き渡った。
「お見事! さすがカザリアさん、今日も鮮やかですねぇ」
 ぽややんと笑いながらパチパチと称賛の拍手を送ってくるロウリィをキッと睨みつけたまま、私は彼に大股で歩み寄る。
「ロウリィ! 感心している場合ではないでしょう!?」
「ああああ、苦しいです、カザリアさん。やめてくださいーーー」
 言葉の割にはまったく苦しそうな顔をしていない夫の襟元を掴んでガクガクと揺さぶる。彼の後方、見事な高さまでのびている沈丁花じんちょうげの葉の茂みには気を失った男が倒れていた。
「でも、カザリアさんが武術に秀でていて助かりましたぁ」
「武術を学んだのは私の大切なリシェルを悪いムシ共から守るためであって、あなたを守るためじゃないのですよ!? どうしてあなたは微量な毒にも気づくのに、もろに殺気を出している刺客には気がつかないのですか?」
「そんな無茶なー……。殺気なんて普通わかりませんよ」
「言いわけ無用! 大体それもこれも、あなたがくだらない賭けなどするから!!!!」
 そう、ほんとーうにくだらない、というよりも「何を考えているんだ!」と思わず叫びたくなるような賭け。これこそが訳のわからない、私には到底理解できないものなのだ。
 領主として任に就いたロウリエ・アジ・ハルバシン・ケルシュタイードは、この地に着て早々、単身チュエイル家の屋敷に乗り込んだらしい。
 ここまでは聞いただけだと、どうも格好よく聞こえるのだけど、実際はただ、耳を疑うような話だった。
 彼は言い放った。
「賭けをしましょう。ずっと命を狙われるのも面倒ですから、期限を一年にしませんか? そちらが一年以内に僕を殺せたら、領主に戻れるよう陛下に言付けてお許しを貰っておきますので。でも、僕が生き残ったら諦めてくださいね。ほら、そうしたほうがどちらにとってもいろんなことの効率が良いでしょう?」と。
 多分、いや、絶対、この夫はぽやぽやと言い放ったのだ。
 結果、首謀者が完全に判明してはいたものの、徹底的な証拠を残さない程度の小規模だった暗殺の刺客は、この賭けによって領主公認となり、大々的にかつ大胆に領主の屋敷に出入りするようになったのだ。
 ロウリィが領主になってから、まだ半年。
 つまり、期限まであと半年も残っている。
「まったく、あなたのしようもない賭けの巻き添えになって私が死んでしまったらどうするのですか?」
 ロウリィを心ゆくまで揺さぶったおかげで大分気がすんだ私は彼を解放すると、パンパンと両手を叩いて手についてしまった汚れを払った。
「ロウリィ……服がまだ汚れています。後で着替えて、洗濯に出しておきなさい」
 よろよろ、ふらふらとしながらも、かろうじて踏みとどまっているロウリィは「わかりました」と首肯し、ぽややんと笑う。
「そうですねぇ、カザリアさんが死んでしまったら、きちんとお墓の前で手をあわせて謝罪はしておきますね」
「…………」
 縁起でもないことをいつもの口調で言った夫に、一瞬言葉を失ってしまった。
「ちょっとは“僕が守りますから”とか言えないんですか!? 仮にも私の夫でしょう!?」
「でも、嘘は言えませんし、僕は毒に関すること以外は無理です!」
「そんな自信満々に断言するな!」
 まあまあ、と庭師の老人は苦笑しながら、私たちの間に割って入った。
「のびている輩は私が屋敷の外にほっぽり出しておきますから、お二人はもうそろそろお戻りなさい」
「あ、よろしくお願いします」
 気絶していた刺客の男を軽々と肩に担ぎ上げたルーベンに、ロウリィはひらひらと手を振る。
「では、カザリアさん戻りますよ。友だちのヴェロウテから焼き菓子が届いていたのでお礼に一緒に食べましょうか」
「……毒は入っていないのでしょうね?」
「えっと、さっきは入っていませんでしたが、今はどうでしょうね?」
 首を傾げて思案する夫の姿に、私はただ口をつぐむしかない。
「まあ、入っていたらわかるでしょう」
 嫁いでからもう百回はついただろう溜息を今日もまた落としながら、ロウリィに促されて屋敷へと戻る。
 今度こそはロウリィが抜け出さないようにと、執務室で我が夫を監視する。
 幸いなことに、出された焼き菓子には毒は仕込まれてはいなかった。その代わり、一緒に出されたお茶の横に置かれた砂糖壺の中には入っていたのだけれど。
「領主め、覚悟!」
 威勢のいい掛け声と共に入って来た新たな刺客を足で引っ掛けて払いつつ、この屋敷はまさか刺客を雇っているのではないかと、菓子を食べながら私は真剣に悩む羽目となった。


 王都に住む親友のリシェルから手紙が届いた。
 今思うと嫁ぎ先がケルシュタイード家で、しかも夫の任地であるエンピティロに行くことになったとリシェルに報告した時、彼女が大層驚いて、心配していた理由がよくわかる。
 恐らくリシェルは陛下から聞いて知っていたのだろう。私が置かれるであろう状況を。
 それでも、口に出せなかったのは、いくら宮廷内で一、二位を争う大貴族の姫である彼女とはいえ、他の家同士の婚姻に口を挟む権利を持ち得なかったからに違いない。
 やはり手紙の内容も心配を色濃く含んだもので「そちらの様子や旦那様はいかがですか?」とリシェルは聞いてきた。
 こちらの様子や旦那様……。
 報告したいこと――と言うより、聞いて欲しいことは山のようにあるのだけど、どれもリシェルの不安を煽るようなものになりそうなので、やめておこうと思う。
 だから、とりあえず、呼び方がロウリエ様からロウリィに変わりました、とだけ伝えておくことにした。
 なぜなら、リシェルには心配をかけられませんからね。
 たとえ、夫の呼び名が変わった理由が、彼を怒鳴る時に「ロウリエ様!」よりも「ロウリエ!」よりも「ロウリィ!」のほうが言いやすかったからだとか、そんなことはさすがに書けなかったけなかったけど。