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「あなたも抜け出してきたのか?」

 きっとあなたは覚えてはいないのでしょうけど、この言葉がすべてのはじまりでした。


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 硝子越しには、煌びやかな世界が広がっていた。
 天井から吊るされたシャンデリアにはいくつもの灯りが点されていて、大広間を明々と照らし出す。光の中で、数多の紳士淑女が互いに手をとり優雅に踊っていた。
 磨きあげられた純白の石床には、くるくると軽やかに舞うドレスの色彩が鮮やかに映り込む。それは、まるでいつか見た万華鏡のようで。
 窓の外から見る世界は、夢見た景色にひどくよく似ていた。


 光の届かない庭の片隅で、私は一人佇んで、硝子の向こうの世界をぼんやりと眺めていた。ついさっきまで確かに私自身もいた場所。硝子窓一枚隔てただけなのに、室内の景色が、ここからはとても遠くに感じる。
 隅々まで手入れの行き届いた庭も、この日ばかりは目を向ける者などいない。薄桃の花が闇の中、室内から漏れる明かりを受けて、ぼんやりと浮かびあがっていた。
 楽しげな広間の様子を眺めていると、悲しさが胸に迫ってきた。それでも、色鮮やかに輝くひどく美しい世界から、目が離せない。
 心踊らせてやって来たはずなのに、隠れるように庭に逃げてしまった自分がとても惨めで、けれど、もうあの場所に戻る勇気はなかった。


 十三歳を迎えた日、私は初めて他国の舞踏会へ参加することを許された。
 ケーアンリーブ王国とは、自国《ルメンディア》を挟んで反対側に位置する隣国シトロナーデ。この国で開催される舞踏会は国王の生誕を祝うもので、各国から多くの要人貴人が招待され大々的に執り行われる。
 年に一度開かれるシトロナーデ王国の繁栄を祝うその祝祭は、各国との友好を確かめあう場所としても、政治的な駆け引きを行う場所としても、そして、王族、貴族の子女たちの出会いと顔合わせの場としても、近隣諸国では重要な位置を占めているという。
 私は物心ついた時から、歳近い姉たちにシトロナーデの舞踏会がどれほど楽しく豪華であるか、ことあるごとに聞かされてきた。
 ルメンディアで開かれる貴族内だけの舞踏会など比ではないとか、あの調度品は誰だれの由緒ある作品できめ細かな装飾が美しいとか、出される料理はルメンディアでは絶対に見られないシトロナーデ特有の風土料理も多いが、これはこれでとてもおいしいのだとか、どこそこの子息は容姿性格ともに麗しく素敵だとか、頬を紅潮させながら興奮気味に語る姉たちの話に、私はいつも胸をときめかせ、憧れは募る一方だった。
 早く私も行ってみたいと、それだけを願い、嬉々として隣国へと出かけて行く兄姉たちを毎年羨望の眼差しで見送っていたのだ。
 だから、十三を迎えた今年、父王からシトロナーデの舞踏会へと参加するよう言われた時は、飛びあがるほど嬉しかった。舞踏会はまだ何カ月も先だというのに、姉達と舞踏会のドレスや装飾品をどれにするかで盛りあがり、こんな時はどう対応すればいいのだ、など他愛もない話を何度も繰り返しながら私はまだ見ぬ舞踏会に胸を高鳴らせていた。
 今思えば、隣国の舞踏会に行くことになったと、母に報告にいった際、母が浮かべた憂いの表情がすべてを物語っていのだとわかる。
 はじめこそ私の側に寄り添って、いろいろと説明してくれていた姉たちは、上品な夜会服をきっちり纏った男性たちに次々と声をかけられ、あっという間にいなくなってしまった。
 対して、私はまともに声をかけられるでもない。一人ぽつんと残された私は、それでも壁に寄りかかって、楽しそうに踊り談笑する姉たちの様子を眺めていた。
 だが間もなく、見ていることすら辛くなった。あまりに居心地が悪く、結局、外の空気を求めて、窓越しに見えた誰もいない夜の庭に逃げてきてしまった。
 少し考えれば、わかることだった。
 ルメンディアの王女といっても、私は末の姫。姉たちと比べたら政治的な価値の小さい、しかも、まだ歳端のいかない小娘だ。誰も気に留めるはずがなかった。
 まったく声をかけられなかったと言えば嘘になる。けれど、それらはすべて吟味するかのような不快な視線だった。彼らはただ、平民よりも下の身分であった女の血を引く王女へ嘲りと興味を抱いていただけだ。毛ほども隠そうとしない皮肉と嘲笑を向けられ、王を籠絡した踊り子の娘とはどんなものか、と興味本位から踊りの相手を申し込まれる始末。その明け透けな眼差しに、どうしても身体が強張ってしかたがなかった。
 これまで、私は実母の出自を理由に卑屈になったことなどなかった。幸いなことにルメンディアにいる姉やその母たちは、私たち親子にも他の皆とわけへだてなく親しく接してくれている。だから、気にする機会が少なかったという方が正しい。
 父に請われ、六番目の妃として奥入りした母は、他の妃たちよりもずいぶんと歳が離れており疎まれるというよりもむしろかわいがれている節すらあった。
 それは、今年二歳になる弟が生まれるまで長く間があいたのも理由の一つだったろう。弟が生まれるもう随分と前に、聡明な長兄が父王の後継者となることは決まっていた。連なる兄たちも、既に担うべき役割についていて、所領を治めるため既に城を出ている者もいる。争いなど、今さら起きるはずもない。
 だから、世間に出た自分がどんな風に見られてしまうのか、まざまざと実感したのは、今回がはじめてだった。穏やかな王城で、いかに私たち親子が守られていたのかを思い知る。
 私は自分に向けられる謗りの視線に耐え切れなかった。あとで気のよい姉たちに話せば、きっと誰もそんなことなど思っていない、気にしすぎよ、と、笑われるかもしれない。だけど、その場にいる皆、すべての視線が私一人に向けられているような気がして、息を吸うことさえままならず、苦しかった。


 夜の庭で、やわらかな草を踏みしめる。靴の裏に触れる草の感触が、広間から離れることができたのを実感させた。
 ようやく息のしかたを思い出して、安堵に胸をなでおろす。
 ほっと、息をついたのもつかの間。暗い地面の上、舞い踊り続けるいくつもの影を見つめていると、すぐに寂しさが込みあげてきた。
 やはり私などいなくとも何ら問題はなかった。嘲りと興味の対象もいなくなれば忘れられてしまう程度のものなのだ、と。自分から逃げ出してきたのにもかかわらず、どこか自嘲めいたことを思う。
 ついさっきまでいた光の方へと視線をあげ、相変わらずくるくると舞い続ける人々を見ているとなんだか目頭が熱くなってきて、慌てて溢れだしそうな涙を拭った。なんとか抑えようと何度も深呼吸し我慢したら、涙が止まったかわりに、今度は鼻の奥がツンとしてくる。
 現実の世界は幼すぎた私には厳しかった。あまく考えすぎていた。
 けれど、ずっと楽しみにしてきたのだ。姉たちの話を聞いてずっと夢に思い描いてきた。
 だからなのだろう。なぜだか、無性に悲しくて、それでも光り輝く世界から目を離すことはできなかった。


 もう、どのくらいの間そうしていたのだろう。
 知らず、ぶるりと震えた身体に、長い間そこに留まっていたことに気付いた。腕をさすれば、身体は冷えきっている。昼は夏の名残りが顔を出すとはいえ、もう秋。夜風はそれなりに冷たかった。
 かちゃり、という軽い音と共に庭へと続く硝子扉が開いたのは、私がすっかり冷えてしまった身体に、そろそろ部屋の中へ戻ろうとしていた時だった。
 高く、黒い人影。それでもわかる、鍛え抜かれたがっしりとした体躯。
 影になっていて顔はよく見えなかったが、向けられた澄んだ青色の双眸に私は息を呑んだ。

「ああ、先客がいたのか」

 ゆっくりと近づいてくるその人影が、部屋から漏れ出る光に照らされる。
 光に照らされ黄金に輝く金茶の髪。すっきりとした鼻梁。先程よりも透明な光を増した青の瞳は湖水に映された空を思わせた。
 ――ケーアンリーブ王太子、ガーレリデス殿下。
 姉達の話にもよく出てきていて、ここへ着いた途端あの方だと秘かに教えてもらった殿方達の中に含まれていた人物の一人。予想だにしていなかった事態に、私は声を出すこともできなかった。