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「あなたも抜け出してきたのか?」
 ガーレリデス様は、おもしろがるような口調で問いかけてくる。
 私はその声を、どこか夢とのあわいにいるような心地で聞いていた。
 姉たちの話の中で聞くばかりであった方。どこか昔語りの登場人物のように思っていた方だ。広間から離れたこんな暗がりの庭にいることも、こんなに間近にいることも信じられない。
 本当に本物だろうか、とついまじまじと見つめてしまい、すぐに我にかえって戦慄した。あまりにも不躾で、不敬な行為だった。私は恥じ入って、慌てて正式な礼をとった。
「失礼いたしました。ルメンディア王国第七王女トゥーアナと申します」
 深々と頭をさげた私に、彼は「顔をあげてください」と告げた。
 くつくつと軽やかな笑声が聞こえてくる。
 きっとあまりに不自然だったのだろう。またも仕出かしてしまったらしい失態に急いで顔をあげる。みるみるうちに頬に朱が散って行くのが自分でもわかった。ここが薄暗くて本当によかったとほっとする。
「ケーアンリーブ王国のガーレリデスだ」
「は、はい」
「疲れたので夜風にあたりに来た。悪いが、俺もここにいさせてもらっていいか?」
「は、はい」
 それしか返事が出来ず恐縮している私に向かって彼は苦笑する。
「そう緊張するな。少し場所を借りるだけだから。あなたも好きにしておくといい」
 はい、とまた上擦った声が出る。
 私がこのような場に不馴れな子どもであることは、とっくに見透かされていたのだろう。
 ガーレリデス様はおかしそうに私に頷いて、あとは何も仰らなかった。
 相変わらず動けないでいる私の前を通りすぎ、彼は少し奥まった場所にある長椅子に腰をおろした。
 邪魔をするのは悪い気がして、広間の様子に意識をうつす。静かに、静かに、と唱えながら、できる限り息を詰めた。
 硝子の表面にかすかに、ゆったりと長椅子に背を預けて座っているガーレリデス様の後ろ姿が映り込んでいる。
 いまなお緊張して鳴り続ける鼓動が聞こえてしまいはしないかと、手を握りしめる。
 どこかに泉があったのか、せせらぎの音が聞こえた。庭のあちこちで虫が鳴いていたことに今さら気づく。
 光り輝く硝子越しには、軽やかな音楽が流れていた。
 長く吐かれた息がかすかに聞こえてきて、どうしてもちらと目を向けてしまった。
 ゆったりと長椅子に腰かけているガーレリデス様は、完全に椅子の背に身を預けている。
 疲れていらっしゃるのだろう。
 それもそのはず。王太子といえば舞踏会も仕事の場。ケーアンリーブには、彼の他、現王の子息はいないと聞く。担う責務も多いのだろう。
 遊び気分でやって来た私とは根本的に違う。
 それに、姉たちが騒いでいたほどだ。彼とお近づきになりたい令嬢たちも、その親族も数えきれぬほどいるに違いない。
 そんな状況に絶えず身をおかないといけないなら、気疲れもする。少しくらい休憩したくもなるだろう。
 たった一日――そのうちの、ほんのわずかな時間でさえ、私は耐えられず、ここに逃げてきてしまった。
 彼の気苦労は、私が考えるよりもずっと重く大きいはず。
 そう考え、私は再び視線を硝子窓に戻した。
 疲れている彼に気遣いをかけさせたくはない。
 本当は、すぐにでもこの場所を離れ室内に戻ったほうが、一人気兼ねなく休めて彼のためには、ずっとよいはず。
 わかっていたけれど、戻るにも時機をのがしてしまった今では、もうどのように動けばよいのかもわからない。
 寒さも、いつの間にか忘れていた。むしろ、火照り続ける顔にはひんやりとした夜風が心地よい。
 どれもこれもが、言い訳であることは頭の隅では気づいている。
 それでも、今では戻ろうと思っていた気持ちも、とっくに消え去ってしまっていた。
 できることはなく、なんとはなしに立ち尽くしたまま、中の様子を眺め続ける。
 気を遣わせることだけはあってはならない。邪魔をしてはならない。それだけは変わらずはっきりとわかっていたから、口だけは一切開かないようにしていた。


「何をそんなに眺めているんだ?」
 黙り込んで身動きもしなかったことが、却って彼の気を遣わせてしまったのかもしれない。振り向けば、いつの間にやってきたのか、再びガーレリデス様が傍に立っていた。
「え? えっと……あの……」
 しどろもどろになりながら何と答えればよいのかと彼を見あげる。整った横顔はついさっきまで私が眺めていた部屋の中へと向けられていた。
「踊りたいのか?」
「え?」
 思わず聞き返した瞬間、私の中で何かがかちりと収まった。
 ――そうなのかもしれない。
 なんとはなしに、けれど、ずっと見つめてしまっていたのは、光の下で踊る人々が羨ましかったからなのかもしれない。私もあんなふうに踊れたら、と無意識に願っていたのだろう。  
 だからこそ諦めきれずあんなにも見つめ続けていたのだ。
 認めてしまうと、それは、私の中にすとんと落ちてきた。
「あなたほどに美しい姫なら、放っておく者などいなかっただろうに、トゥーアナ姫」
 それとも中にいる者らの目は節穴ばかりだったか、彼は苦笑を洩らす。
 思わず頬が熱くなった。今度ばかりは彼にもそれが知れてしまっただろう。ここは硝子窓の明かりに近く、私はあまりにも動揺してしまったから。
 それが世辞であることは彼の目を見れば明らかだった。
 なぜなら、私を見る澄み渡った空のような瞳はどこか子どもを慰めるような穏やかで優しいものだったから。姉達の情報によると彼は十八歳のはず。私とは五つも歳が離れている。彼にとって私が子どもにしか見えないのも仕方がない。私にまとわりつく周りの評価だって、彼の立場であれば知らないはずがなかった。
 だけど、嬉しかった。彼の言葉にも、彼の瞳にも、私が忌んでいた要素は何一つ含まれてはいなかったから。
 ふいに差し出された手に驚き、その大きな手と彼を交互に見あげる。戸惑う私に彼は少しおかしそうに言った。
「一緒に踊るか?」
 めいいっぱい目を見開いてしまった私に彼は「嫌ならいいが」と付け加える。
 嫌なはずがない。ぶんぶんと勢いよく首を振った私に小さく笑い声を洩らしながら彼が私の手を掴んだ。
 腰に手がまわされ、引き寄せられる。さっきよりも間近に迫った端正な顔にどぎまぎしながら見あげると彼が少し眉根を寄せていた。
 また何かやってしまったのだろうか。高鳴っていた鼓動が、違う意味で緊張しはじめる。
「手」
「は、はい」
「冷たい。ずっとここに居たのか?」
「え、あ、はい……」
 ガーレリデス様が大きなためいきをつく。
「もう少し早く気付いてやればよかったな」と申し訳なさそうな顔をする彼に向かって、私は小さく首を振った。
「でも……、でも、今はあたたかいです」
 ガーレリデス様は一瞬呆気にとられたような顔をして、私の腰にまわしていた手を離し、宙を彷徨っていたもう片方の私の手を掴むと「こっち」と自分の肩にそわせた。
 彼からすれば子どもで、背の低い私には、まだ少し高すぎる位置。けれど、決して苦痛ではなかった。
 再び腰にまわされた手に確かな温度を感じる。
「踊るか」
「はい」
 頷けば、すぐにゆっくりと足が踏み出される。
 光とともに部屋から漏れる楽曲の音にあわせながら舞う。
 中にいる皆と同じようにくるくると。
 気付けば、笑みが零れていた。
 さっきまで確かに緊張していたはずなのに、いつの間にかそれは消え去り、今はもう楽しさだけが次々と込みあげてくる。姉達の言っていた意味がようやくわかった気がする。
 足を踏み出すごとに、胸が高鳴った。
 楽しさと嬉しさに身をまかせて、促されるがままに、舞い踊り続ける。
 ふわりと抱えあげられ、また地に足を付く。そして、またふわりと。
 一切無駄のない、その動きと浮遊感は、まるで背に羽が生えて本当に飛んでいるかのようで、私は声を立てて笑ったのだ。


*****


 それから私がケーアンリーブの城に来るまで、ガーレリデス様と話を交えることができたのは数えるほどしかない。
 それでも私は今でも鮮明に思い出すことができる。
 硝子の向こうに見えた輝かしい世界を。
 漏れ入る光だけの薄暗い庭の様子を。
 その片隅でぼんやりと光を受けながら揺れていた薄桃の花を。
 微かに聞こえていた音楽さえも、一音一音鮮やかに。