12



 遠くで声が聞こえる。
 トゥーアナ、トゥーアナ、と。
「母様?」
 声がした方に呼びかけると、母様がこちらを見て微笑んでいた。その腕にはしっかりと弟が抱かれ、小さな手が何度も手招きをしてくる。
「ああ、やっぱり。あれは悪い夢だったのね」
 ほっとして胸をなでおろす。
 安堵から流れた涙を見せたくなくて、手で顔を覆う。
 けれど、再び開いた目に映ったのは赤黒く塗りつぶされた不気味な世界だった。

「よかった、トゥーアナ様。ご無事だったのですね」

 ぼんやりとした世界が徐々に開かれ、涙ぐんだメレディが目に入った。
 私が生まれてからずっと、私の世話をしてくれている老侍女は「神様」と、かすれた声でささやく。
 そ、と彼女の手が肩に触れる。やわい冷ややかな感触に、私の身体がびくりと跳ねた。はっ、と息をはいた瞬間、恐怖が押し寄せてくる。
 同時に襲ってきた鈍痛と身体に纏わりつくべっとりとした粘りに、肌が粟立った。
 起きあがろうとしたが、うまく身体に力が入らなくて、首だけを巡らせる。
「かあさま、ダアヤン、ミリアナ」
「なりません、トゥーアナ様」
 メレディが私の視界を遮るよりも早く、目に飛び込んできた景色に、思考が止まった。
 ああ、さっきの色はこれだったのだ。
 鮮やかな色の泉は今やどこか黒みをおび、打ち伏した肉塊は昨夜よりも異様さを増していた。
 もう、そこには人間らしさの欠片もない。
 恐怖に見開かれた自分と同じ色の瞳が朝日に照らされてきらりと光った。
 思わず見とれてしまいそうなほど美しいその輝きは透明な硝子玉そのものだ。
 周囲を覆い尽くす赤黒い色の中、メレディが私の身体に掛けてくれたらしい布の白さが却って目に痛い。
「トゥーアナ様、お怪我の手当てを……」
「これ、は、私の血……じゃ、ない」
 かすれ震える自分の声と辺りの惨状に昨夜の出来事がすべて蘇った。
 ――気持ち悪い。
「――っ!」
「トゥーアナ様!!」
 喉をせりあがるゴボッという不快な音とともにすべてが逆流する。
 まるで自分の中の汚れた部分を吐き出すかのように。
 それなのに、いくら吐き出しても吐き気は治まらず、吐き出せば吐きだすほどに穢れは私の中に落ちて定着していくようだった。
「――うぐっ、はあっ、あっ……ぅうっ……」
 何度も何度も同じ優しい手つきで背を擦ってくれるメレディが気遣わしげに私を見ているのがわかる。
 不快感に苛まれる胸を真白い掛布ごとかきしめる。
 けれど、滲む私の視界に映るのは赤黒く染まった不気味な色だけだった。

*****

 父王の御前に膝をつき、頭を垂れる。
 母と弟の葬儀の後、王に呼ばれた私は謁見の間で彼と相対した。人払いがされているのか、あるいは最後の妻と幼い息子を、母と弟を亡くした私たちをおもんばかってか、他に人の気配はない。
 母と弟の葬儀はしめやかに、しかし、内々に執り行われた。
 固く閉ざされた白い柩の中に眠る二人の顔は清められ、嘘のように美しかった。
 思わずまるい弟の頬に触れれば、触れた先から温度のなさが寒々しく掌に伝ってきて、あまい幻想は打ち砕かれる。弟の、母の白い肌に纏わりつく青い冷たさが悲しかった。
 こんなにあっさりと終わってしまうものかというほど、つつがなく行われた葬儀には彼らの命を奪ったリーアンの姿もあった。
 自然と彼に対する怒りは湧かなかった。ただ、葬儀の場で彼が浮かべ続けた哀悼の表情が、むしろ酷薄に笑まれるよりも空々しく、ずっと頭に張りついて離れない。
「顔を、トゥーアナ。もっと近くに」
「はい、陛下」
 王座に座る父を見上げる。黒灰の瞳には疲労と悲しみが滲んでいた。
 目元には多くの皺が刻まれている。ここ数年で一気に老けこんだように見えた。
 父王の元へと辿り着き、その足元へと跪くと、王は皺の多い手で私の手を優しく包み込んだまま、しっかりと私を見据えた。
「トゥーアナ……母と弟を失って辛い思いをしたな」
「父様も」
 父王が深く頷き、私の手の甲を擦った。皺がれた大きな手は優しく、張り詰めていた私の心に温かく沁み込んで思わず泣きそうになる。
「お前が生きていてよかった」
「はい」
 労わりを含んだその目が細まり、王が力なく微笑む。
 だが、次の瞬間、細かった黒灰の双眸は何かに目を止め、驚きに見開かれていった。
「トゥーアナ、この、痣は?」
「これは」
 私は用意していたはずの答えを口に出すのが、一拍遅れた。
 父王は繋いでいた私の手を引き寄せ、袖をまくる。手首に巻き付いているのは、くっきり指の線までわかる手形。現れたそれから私は思わず目を反らす。
 父王はすべて悟ってしまったらしい。
 結わずそのままにしてもらった私の髪を耳にかけ、父は私の頤《おとがい》を震える指で持ちあげる。
 首全体を覆う詰襟でも隠しきれなかった、恐らくわざと私に残された跡を見て、父は額に片手をあてると、苦しげに目を伏せ首を振った。


 目覚めた朝、私はメレディに連れられて湯殿へと向かった。
 まずは、血を洗い流しましょう、と。
 立ち上る湯気の中、たっぷりと溜められた清らかな湯に入る。
 桶ですくいあげた湯を、メレディはいつもと同じ仕草で丁寧に私の身体にかけていった。
 流れて行くのは赤く色づいた湯の筋ばかり。血で強張った髪の毛を、メレディは根気強く解きほぐしていく。
 洗い流すたびに、体に纏まりついて固まっていた血は次第に姿を消していった。
 同時に姿を現したのは隠しきれないほど鮮やかに刻まれた赤い跡だ。
 気を失うたびに何度も起こされ蹂躙され続けた、あの夜の記憶の確かな証拠。
 点々と白い肌に浮かびあがったそれが、私には床に飛び散った血の飛沫にしか見えなかった。

「リーアンを王太子から外す」

 強張った、だが、意志の籠った響きに私は顔を上げた。
「代わりに、トゥーアナ、お前を候補に添える。次代の王はお前に……」
「なりません!」
 父が王であることも忘れ、私は叫んでいた。ひどく礼節を欠く行為だ。けれど、そんなことに構ってなどいられなかった。
「私は王族としての誇りを捨てました。自分の身かわいさに自らこの身を委ねたのです。もう、私は王族ではありません」
「だが、リーアンは数多くの者を殺した。そんな輩が民を尊び、この国を治めることができるとは思えぬ。よくも悪くもだ、トゥーアナ、お前が一連の事件の首謀者を弾劾できる証明になる」
「いいえ。王位を手に入れるために手を染めるなど、よくあること。恐れながら、陛下にもご経験がおありのはず。少なからず、その手は汚れているのではありませんか。大差はあれど兄がしたのも同じこと。そうでしょう? それに兄の頭が切れることは陛下もご承知のはず。だからこそ、今回まで王族暗殺の首謀者と囁かれようとも確たる証拠が出せなかった」
「お前の言うことは最もだ。だが、あれは危うい」
「陛下。王太子から降ろしたとして、私たちがむしろ危うくなるのは必至。今や、軍の半数以上が兄についていること、誰よりも陛下がご存知でしょう? こちらの唯一の強みは議会と証の剣だけ。もし、兄が挙兵し負ければ、それすら意味をなさない」
「これ以上、リーアンの好きにさせてはこの国そのものが瓦解する」
「いいえ。兄は望んで王となる。王の立場となれば自ずから、その頭脳を民のために使うことになりましょう」
「しかし、トゥーアナ」
 なおも頑なに決意を変えようとはしない父に私は首を振った。最もらしいことを並び立て、その実、自分のことしか考えていない自身を恥じる。
「……違う。違うのです、父様。本当はただのわがままだとわかっています。ごめんなさい、困らせて。私が生きていることで、父様に負担をかけてしまうことも」
 私は握られていた父の手を、もう片方の手を添えて逆にぎゅっと握りしめる。
「お願いです、父様。私は王になどなりたくない。私が生に縋りついたのは王となるためではないのです」
 父のもとに跪いたまま、懇願する。
「もう一度……もう一度だけ、お会いしたい方がいます」

 暗闇の中、光った一つの記憶。
 三年前の、今よりも幼い、あの夜の短い邂逅。

 これから先、生きのびてしまった私の存在が、父にとって人質に成りうることなどわかっていたのに。
 それでも、言い募らずにはいられなかった。
 王である父の黒灰の瞳を正面から見据える。
「私は次期女王としてではなく、ただの娘としてもう一度、あの方にお目にかかりたいのです」
「その方と、お前は……?」
 あまりにも予想外だったのだろう。
 目を見張りながら、問う父の言葉の先の意図するところに私は首を振った。
「いいえ。私が勝手に想っているだけのこと。彼の方は私のことなど気に留めてすらいないでしょう。ですが、私はそんな自分勝手な願いのためだけに誇りを捨ててしまいました。誇りを捨ててでも、もう一度お会いしたかったのです。彼の目に例え私の姿が留まることはなかったとしても。ささやかで、そして、愚かな願いです」
「その方は?」
「ケーアンリーブ王国のガーレリデス王太子殿下です」
 私の告白に王は深く長い溜息をついた。
 王座へと背を預け、下に控える私を見据える。
「トゥーアナ、自分が選んだ道がどれほど辛いものか、わかっているのか? お前が私にとっての人質のように、お前にとっても私が人質になる。その道を行けば、リーアンは捕らえられない。お前はリーアンから逃れられない」
「それでも私はただの一人の娘としてガーレリデス様と同じ場所に立つことができます」
「相手は世継ぎの第一王子、名高い妃候補が大勢いるだろう。それに加え、お前の身。今となっては絶対に手が届くはずのない方だ」
「存じております」
 手の届くはずのない方。
 元より王族とはいえど踊り子の娘。
 辱めを受けた身となった今では、なおさら。
 それは充分にわかっているつもりだ。
 あの時のように、また一緒に踊りたいなどと、そんな大それたことは望みません。
 私の願いはただ一つ。
 例え、一時だけでも彼の傍に。同じ空間に。
 例え、景色の一部でも、彼の目に私が映れば。
 私は、ただ遠くから眺めることができるのなら、それだけでいいのです。
「だから父様。素知らぬ振りをしてください。きっと兄はそのことすら気付くでしょうけど、今までと何も変わらず扱うこと、何も公にはしないこと、その態度を兄に示し続けてください」
 父王は再び深く息を吐き出すと、身体を起し、私を見据えた。
「ならば私はお前に誓おう。すべては私の失態だ。軍を私の元に取り戻す。そして、どれほど時が経とうとも、どんな手段を使ってでもお前をケーアンリーブ国王の妃とする。絶対にだ。それを成すまで私は死なない。何としてでも王位を譲り渡しはしない。お前を逃がし、幸せになったことを見届けるまでは。
 ――だから、トゥーアナ、お前も死ぬな。必ず生きよ」
「はい。必ず」
 途方もない祈りに、私は頭を垂れた。
「ありがとうございます」
 それは私と父だけの秘かな誓い。
 この誓いが私にとって新たなる二つ目の光となり、これから進むいばらの道を照らしたのだ。