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 今でも手に残る。
 王の首を切断した時の感触が。
 首はもっと容易く切れるものだと思っていた。
 けれど、そうではなかったらしい。少なくとも女の身である私にとっては酷く難しいものだった。
 王に継承されるはずの由緒ある剣は王の血によって洗われた。
 鮮やかで生温い血の臭気が甦る。
 刃を滑らせ肉と筋を断ち切った。骨が不快な音を轟かせて軋み砕けていく。惨たらしいその様が、目を閉じるたび、ありありと蘇る。
 刃を入れた瞬間、私は何ということをしているのだろう、と思った。
 途中で引っかかった刃を持つ手に力を込め、体重をかけてまで動かそうとする自分の残忍さに恐怖した。
 人はただ己の望みのためだけにここまで残酷になれるのかと、狂ってしまえるのかと。
 目の前に広がる悲惨な有様から、自分の為してしまった結果から、恐ろしくて目をそらすことすら許されない。

 私は見てしまった。自分の奥底にある冷酷さを。
 だから、求めるのかもしれない。
 窓の外にある暖かな光を。


 外では夕方から雨が降っていた。街に面する大きな窓は雫に濡れる。
 しとしとと大して音も立てずに降り続ける雨は、家々の灯りをぼんやりと浮かび上がらせていた。
 淡く滲む幻想的な橙の光はより一層、闇夜に映える。

「トゥーアナ」

 彼が呼ぶ。酷く冷たい女の名を。
 酷く暖かな温もりのある声で。
「あなたは知ってしまったのですね」
 青い瞳が湖水のように戸惑いに揺れていた。
 知られたくなかった。
 あなたはとても優しいから、知ってしまえばきっと私を拒むことはできない。
 だけど、知ってほしかった。
 あなたはとても優しいから、知ってしまえばきっと私に手を差し伸べる。
 新たな光をくれるでしょう。
 だから、私は目を伏せる。
 いつまでも浅ましい己の考えに。
「また家々を見ていたのか?」
「はい」
 ガーレリデス様の手が頬に触れる。
「冷たいな」
「けれど、今は温かいですよ?」
 温かく大きな手に自分の冷たい手を添えて、瞳を閉じる。
 与えられる優しさにまた泣いてしまいそうだった。
「たった一人で民を守ったんだな」
「……いいえ」
 私は首を振る。とても優しく沁み入る言葉に。
「メレディからお聞きになったのでしょう? しかし、それは真実ではありません。メレディは幼い頃より私に仕えてくれています。だから、きっと彼女の視点では私への情が混じってしまっているのでしょう。実際の私は民を守ったのではなく裏切ったのです」
「だが結果、守られた命は確かにある」
「ですが、民を守る方法を私は他にも持っていました。本当はそちらの方が最善だった。私が王となればよかったのです。そして、ケーアンリーブへ謝罪すればよかっただけのこと。そうすれば、あなたは意味もない戦争など起こさないでしょう。失われる命も土地も元よりなかったはず。
 ですが私は兄をこの手にかけた上で、王となる道を選ぶことを拒みました。とても愚かな理由で、です。ただあなたの傍にいたかった。どうしても一目、あなたに会いたかった。たったそれだけの理由で国を、守るべき民を、私は捨ててしまいました。
 例え結果として私が民の命を救ったのだとしても、それは民が知るところではありません。彼らが知るのは故郷を永遠に失くしたのだということ。そして、ルメンディアという彼らの故郷を奪ったのは紛れもなく私。それは変えられない事実です」
「それが事実なら、守られた多くの命があることもまた変わらぬ事実だろう。あなたがいなければ救えなかった命だ。なにより彼らは知らなくとも俺はもう知ってしまった」
 私を見下ろすのは真摯な青い二つの瞳。彼はどこか苦笑をも口元に刻む。
 だから、私も苦笑を返して首を小さく傾げた。
「ガーレリデス様は私とメレディが嘘をついているとは思われないのですか? 私はケーアンリーブ国王の命を狙っているのかもしれないと」
 彼がくつくつと笑う。少し可笑しそうに。
 そこにはもう戸惑いなど含まれてはいないように見えた。それが私の願望のためではない、と言い切ることはできないけれど。
「そうだな。だが、殺す暇ならあなたにはいくらでもあっただろう。元よりそれも想定内の覚悟の上だ。なんなら試してみるがいい。返り討ちにしてやる」
「いいえ」
 私は一度首を振り、彼を見上げた。
「それはきっと有り得ません。あなたのために私が死ぬことがあっても、私のためにあなたが死ぬことなど有り得ませんから」
 愛しき王が首を傾げる。訝しげに眉を寄せて。
 透き通る湖水の瞳をいつまでも見ていることができたら、と思う。
 けれど、それはきっと叶わないから。
 私は代わりに笑みを浮かべた。
 せめて花のように笑えていたらいい。私の自嘲が見えないように。
「私がガーレリデス様を傷つけることは絶対にない、ということです。安心して下さい」
 だが、王は私の言葉にさらに眉根を深めただけだった。頭上から溜息が落ちる。
「なぜ貴女はそうやって哀しそうに微笑う?」
「哀しそうに?」
 それは、私にとってすごく奇怪な言葉だった。
 哀しくなどはない。それは、本当に。
 ただ、やはり笑むことに失敗してしまったらしいことだけがわかった。
「哀しくなど、ありません。もし、ガーレリデス様が私の笑みを見てそう感じると仰るのなら、きっとそれは私の過去を知ってしまったせいで、あなたがとても優しいからでしょう。むしろ、私は幸せだと何度も申し上げたはず」
「俺は優しくはない」
 彼が顔をそむける。
 苦しげに歪められた横顔。それさえも私には嬉しくて、愛おしい。
「そうでしょうか? それなら、なぜあなたはここにいるのです? 亡国の王女に価値がないことなど私自身よくわかっております。それなのに、あなたはここへ来てくれた。私が牢に居る時もそうでした。あなたはただ放っておくこともできたはず。そうすればきっと歌もいつか消えてなくなったでしょう」
 優しさに目を閉じる。
 絶対に忘れてしまわないようにと。
「ガーレリデス様、あなたはとても優しいのです。少なくとも私にとってはいつも本物でした。だから、最後に感謝の言葉を。ずっと、ずっと、私の支えでいてくださって、ありがとうございました」
 彼の掌に一度だけ口付けを落として、手を離す。
 離れてしまった優しさは酷く手放し難いものだった。けれど、やはり私に似合うものではない、と自分自身が一番理解している。
 これ以上、彼の手を煩わせるつもりは私にはない。

 ケーアンリーブの王は瞳を細めた。
「どこへ行く?」
「私は牢に戻ります。これで、もう充分気が済みました」
 顔を上げ、前を見据えて一歩踏み出す。
 歩き出そうとした私を留めたのは、ガーレリデス様だった。
 いつの間にか引き寄せられ、戻って来た温かさに息を呑む。
「やはり冷たい」
「ガーレリデス様……?」
 見上げてみたが、見えるのは王の肩だけ。ただ、彼が溜息をついたのが耳元で聞こえた。
「もういいから、独りで立つのはやめろ」
 声には固さが滲む。
 怒っているような、祈っているような、私に落ちた小さな呟き。
「けれど、私は穢れています。この手が血に染まっているだけではなく……この私の体そのものが穢れてしまっているのです。それは、あなたも御存知のはず」
「だから何だ?」
「だから……」
「別に気にすることはないだろう。約束通りなら、次にあなたを穢すのは俺になる。どうせ穢れるのならどちらでも同じだろう?」
 手が少し緩められ、静かさを湛えた青が覗く。
「そうではないか? トゥーアナ」
「ですが」
「まあ、それも当分先の話になるだろうが」
「え?」
 首を傾げる私に彼は小さく苦笑を洩らした。
 けれど、私にはそれが酷く己に都合の良い陽だまりにしか見えなかった。
 約束が延期される。
 そのことが示す、その意味は。
「あと少し……あと少し、私はあなたの傍にいてもよろしいのですか?」
「ああ、まだ傍にいるといい」
 私は目を伏せる。与えられた甘美さに酔って目眩がしそうだった。
「あなたは私を泣かせるのがお上手ですね」
「あなたが勝手に泣いているだけだろう」
 溢れ出した涙を、固く、だけど、同様に柔らかな手が拭う。
 頬を伝う涙は信じられぬほど温かくて、心地良くて。
 差し伸べられた手は予想以上に優しくて、強かったから。
 失いたくはない、と愚かにも願ってしまう。
「捕らえられたら……もう逃げられないかもしれませんよ?」
「もう逃げる必要も無くなってしまったからいい」
 彼が笑う。捕らえたいのなら、いっそ捕らえてみろ、と。

 雨が閉じてくれたのは私には暖かすぎる籠。この籠から二度と出たくはない、と心からそう思った。