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「歌わないのか?」

 問いかけに顔を上げるとガーレリデス様がこちらを向いていた。空を落とした湖水の双眸には穏やかさが宿る。
「歌わないとあなたと約束しました」
「そういえば、そうだったな」
 どこか懐かしむように彼が笑う。
「歌いますか?」
「ああ、歌ってやるといいラルーのために」
 そう言うと、彼は生まれたばかりの息子、ラルシュベルグを私から受け取った。とても小さくまだ儚い存在を腕に抱き、王は目を細める。
 赤子はキョトンとした顔で自分と同じ湖水の瞳を見上げていた。
「ラルーはなかなか眠らないからな。それに、久しぶりにトゥーアナの歌を聞くのも悪くない」
「あれほど歌うのをやめろと仰っていたのに」
 くすくすと笑うと、ガーレリデス様は少しだけ眉を寄せた。
「別に嫌いだから言ったわけではない。綺麗だとは思っていた」
「では、お好きでしたか?」
「好きだったかと問われるとそれはよく分からないな。ただ、少し哀しかった。だから、やめて欲しかったんだ。不思議とよく響く、耳に残る歌だった」
「けれど、私はあの時、歌っていてよかったと心から思います。そうでなければ、私は今ここにいませんから」
「それもそうだな」
 当たり前のように頬へと落ちた口付けを、与えられる幸福を、昔の私が知ったらどう思うだろう。それは、考えもしなかったこと。だけど、私は今、確かにこのあたたかさの中に生きている。
「歌いましょう。今度は優しく響く子守歌を。ラルーのために。そして、ガーレリデス様、あなたの為にも」
 大好きだった歌を口ずさむ。
 それは、かつて母に歌ってもらった歌。小さな弟に歌い聞かせた子守歌。
 優しい記憶を紡ぐ歌に、新たな記憶を重ねましょう。
 そして、いつか、あなたと共に懐かしむことができたなら、それはどんなにか幸福なことでしょう。
 温かな腕に揺られ、やがて、うとうととしはじめた息子に目を細める。
 ほんのりと色の付いた頬はふっくらとしていて、滑らかで、そして柔らかい。
「ラルーはきっとガーレリデス様似ですね」
 空を映した湖水の瞳も、形のよい眉も、少し丸みを帯びた鼻も、全てが皆、愛おしい。
「髪と口はトゥーアナに似ているだろう」
「そうでしょうか? 髪は確かに私と同じ金ですが……口は似ていますか?」
 首を傾げて、ラルーを覗き込んだ私を引き寄せながら彼は笑った。
 肌に馴染んだ今でも、彼の温かさは胸が震えるほどに心地がいい。
「ほら、見てみろ。ラルーの口もトゥーアナと同じようにいつも笑みを浮かべているだろう?」
「それならきっとラルーも私のように幸せなのでしょうね」
 ガーレリデス様のくつくつという笑い声が上から落ちる。
「そうなのか?」
「私と似ていると仰るならきっとそうです。けれど……」
「けれど?」
 私を見下ろす湖水の双眸へと笑みを向ける。
「けれど、ラルーにはガーレリデス様、あなたのような方に成長してほしいものです」
 彼の胸へと頭を預ける。
「ラルーがどう成長するのか楽しみだな」
「ええ」
 すやすやと気持ちよさそうに眠る我が子の額へと願いを込めてそっと口付けを落とす。
 ラルーを小さな寝台へとそっと寝かしつけたガーレリデス様は私の髪をゆっくりと撫でた。
「どうした?」
「いいえ。何でもありません」
 笑んだ私に、ガーレリデス様は少し逡巡した後、一つ頷くと口を開いた。
「なあ、トゥーアナ」
「はい」
「正式な妃として披露目の儀を行おうと思っている」
 唐突に告げられた内容に言葉を失う。
「他に妃も居ないのに、末席の妃というのもおかしな話だろう。妃といっても名ばかりだしな。このままだとトゥーアナを公の場に出すこともできない」
「 ……よろしいのですか?」
「よいも何もそれが誰にとっても一番良いことだろう?」
「誰にとっても?」
「ラルーにとっても、トゥーアナにとっても、そして俺にとってもだ」
 戸惑う私に、ガーレリデス様は笑みを浮かべた。
「さすがに重臣どもがうるさくてな。近頃は、顔を合わす度に早く正妃を迎えろと言ってくる」
 心底嫌そうに口を曲げてみせた王の姿に、私は苦笑する。
「しかし、私を正妃に迎えるとなると余計に彼らを煽ってしまうのでは? 私は亡国の王女だったのですよ? 彼らは私のことを認めてくださるでしょうか」
「バロフが何とかするだろう。それに、このまま王位継承者がラルーしかいないとなると、遅かれ早かれ諦めるだろう。だから、大して問題はない」
 どうだ? と尋ねてくる湖水の双眸が、眩しすぎて目を細める。
「本当にあなたは昔から優しすぎますね」
「昔から?」
「初めてお会いした時からです」
 眉をひそめて、押し黙ったガーレリデス様にくすくすと笑い声を洩らす。
「やはり覚えてはいませんね?」
「悪い」
 眉を寄せたまま、肩を竦めたガーレリデス様に向かって首を振る。
「いえ、よいのです。私にとってかけがえのない思い出であることには変わりないのですから」
 つま先で立って背伸びをしながら、少し高い位置にある彼の頬へと口付ける。
「喜んでお受けいたしましょう。あなたが許して下さるのなら」
 正面から王を見据える。私に向けられた優しい光を。
「ただ、一つだけ。……一つだけ私の我儘を聞いてください」
「我儘?」
「はい。正式な披露目の前に、ルメンディアでも披露目を行ってほしいのです」
「ルメンディアで?」
 私は深く頷く。
 今はもう地図にない、亡き王国。ケーアンリーブの属領となった土地。
「かつてのルメンディア城には聖堂が隣設されています。そこは代々王族の眠る場所。できることなら父や母たちに報告したいのです。私はとても幸せに暮らしているのだと」
「そうか」
「はい」
 王は頷く。
「いいだろう。その我儘、聞き入れた」
「ありがとうございます」
 礼をした私に、ふっと目を細めながら彼は口を開いた。
「しかし、それは我儘に入るのか?」
「ええ、私にとっては充分すぎるほどの我儘です」
 微笑むと柔らかな笑みが返ってくる。ガーレリデス様は、また「そうか」と呟いた。
「そのくらいなら叶えるのは容易い。もっと他にないのか?」
「よろしいのですか? それなら、もう一つだけ。私の我儘を叶えてくださるという誓いの口付けを」
 私の我儘に彼は苦笑する。
 それでも、抱きしめられて落とされた口付けに、今はただ、静かに瞳を閉じた。