お菓子をくださいな【前編】



「ねぇねぇ、お菓子をくださいなっ!」

 黒のワンピースに、これまた黒のとんがり帽子。大きなつばの下からは、くるりとした黒の瞳が見上げてくる。
 どこからどう見ても魔女にしか見えないその姿。
 有馬は思わず扉を閉めた。
「ちょ、ちょっとー! どうしてドアを閉めるのよ! さっさとお菓子を渡しなさいよぉ」
 ガンガンガンガン、と家の外から扉がけたたましく打ち鳴らされる。なまじ玄関の扉が薄いだけに、魔女の高い怒鳴り声が、部屋の内によく通った。
「お菓子をくれなきゃいたずらするわよ!」
 なんだか、とっても既視感を覚えるその台詞。ちょうど去年の今頃に同じことが同じ場所で起こっていなかっただろうか。
 思い出すまでもない記憶を探り整理しながら、有馬は取っ手に手を置いたまま、叫び続ける扉を黙視していた。
「いい加減にしないと、ハエに変えちゃうんだから!」
 ここぞとばかりに、ガンッと扉を打ち鳴らして、魔女は脅しをかけてきた。
 それは、カエルよりもご遠慮させていただきたい。ハエなんかになってしまったら、ベシッとひと思いにハエ叩きで叩かれるか、もれなくカエルの腹の中にぺろりとおさまって、一巻の終わりである。
 薄い扉は絶え間なく叩かれ続けた。そろそろご近所迷惑もいいところ。
 そこまで考えた有馬は、とうとう観念すると、やはり今年も魔女に対して門戸を開いてしまったのだった。

 扉から顔をあらわにした有馬に、ふふん、ととんがり帽子の魔女は威張る。両手を腰に当ててふんぞり返っている彼女の様は、どこからどう見ても『勝ったわ』と高らかに宣言していた。
「さぁ、お菓子を寄こしなさい」と、鷹揚に突きだされた魔女のふにっとした紅葉手を、有馬は大分上から見下ろした。
 眼前に立つ人物に戸惑いがないと言えば、さすがの彼でも嘘になる。魔女をまじまじと見つめ、彼は現実を直視すべく魔女に尋ねた。
「えーっと……、魔女子さん?」
「何よ、そのだっさい名前」
「じゃないよね、やっぱり」
 有馬は、二つ結びのちびっこ魔女を見て、仕方なしに頷いた。
 考えるまでもなく、本当に魔法でも使わない限り、高校生が小学生サイズになるはずがないだろう。多く見積もっても、七、八歳にしか見えない魔女は、彼女と顔立ちが似ているかと問われれば、否。本人であることはあり得ない。けれども、彼女とこの少女。仕草と言うか、行動が酷く似かよりすぎではないだろうか。
「あ、もしかして、妹さん?」
「誰のよ」
「あれ、違うの? こんなことするのは魔女子さん関係だけだと思ってたんだけど」
 ならば、子ども会の企画行事の類だろうか。しかし、見知らぬ小学生たちが、近所のお宅を突然訪問する可能性があるという予告じみた回覧板が回って来た覚えは、有馬には一切なかった。
「ねぇねぇ、お菓子くれないの?」
 じれているのか、ちびっこ魔女はむすりと問うた。
 とんがり帽子を含めても、自分の胸の高さまですらこない小さな魔女を見下ろして、有馬は困ったように口を開く。
「あげたいのは、やまやまなんだけどね。うちにはお菓子がないんだよ。普段からあまり食べはしないから」
「ひとっつもないの!? 何かひとつくらいあるでしょう!?」
「と言ってもねぇ……唯一あるのが梅昆布なんだけどいい?」
「いや!」
「でしょう?」
 有馬が肩をすくめて見せれば、魔女の少女は『そうか、ないのか』と見るからに、がっくりとうなだれた。魔女の見た目が小学生なだけに、去年の数十倍は可哀相に見える。どこも後ろめたいことはないのに、期待を裏切ってしまったことに対する何とも言えぬこの罪悪感。
 しょうがない。
「まぁ、どうせ商店街には行こうと思ってたし」
 有馬は、ジーンズのポケットに財布が入っていることを確認すると、靴をつっかけて、外に出た。玄関の鍵を閉めながら、トントンとつま先をアパートの廊下に打ち付け、靴を履く。
 有馬の様子を眺めていたちび魔女は、どんぐりまなこをきょとりとさせて、首を傾げた。
「どこかに、行くの?」
「だから、お菓子」
「え?」
「ないから買いに行こうと思って」
「いいの!?」
 ちび魔女にしてみれば、思ってもみなかった提案だったのだろう。少女は、ぱっと顔を輝かせた。嬉しそうに首を竦めて、ふふふと笑った途端に、浮かび上がってまるさを増した頬は、りんごのようにほんのりと染まっている。
 普段、このくらいの子と関わりがない有馬は、全身で上機嫌を振りまくちびっこ魔女に思わず呆気にとられそうになりながらも「先に言っとくけど、ケーキは買わないからね」と、釘をさしておくことにした。

 ひょこりひょこりと、黒のワンピースをはためかせながら、ちび魔女は年季のかかったアパートの階段を降りてゆく。
 前を行く背に向かって、ちび魔女は「ねぇねぇ」と声をかけた。
「そういえば、お兄さんの名前って何?」
「有馬」
「へぇ、有馬くん」
 ぴょんと一段飛び越えて、ちび魔女は、二段下の階段に難なく着地する。
 降りればすぐに道路に面するこの階段。ただでさえ、ぎしぎしときしむのに、いつもに増して、古びた階段がギシリ! と派手に悲鳴を上げたのを耳にし、有馬はぎょっと度肝を抜きそうになった。背後を振り返った彼は、その原因が階段を一段飛びで、降りているちび魔女にあると知って、さらに肝を冷やす。
「こら。落ちたら危ないから、飛ぶのは止めなさい」
「平気ー! だっていっつもこうやって降りてるもん。有馬くんもやってみたら? 面白いよ」
「そう。じゃあもうお菓子は買いに行かないから。ちゃんと降りないなら、戻るよ。戻ってもいいならいいけど」
「うそうそ、ごめんごめん!」
 ちび魔女は、慌てて謝ると、一段一段きちんと階段を降りて、そそくさと有馬を追い抜かした。
 有馬は『これでいいんでしょ』と、口をとがらせて、一足先に階下で待っているちび魔女を見て、浅く溜息をつく。
「あのねぇ、階段でふざけたら、怪我するんだよ。骨折してもしらないからね」
「でも、したことないもん」
「僕はあるの」
 有馬は、きぱりと少女に向かって言い据える。
 まさか、子どもが階段で遊びながら飛び降りていくのを見るのが、こんなに冷や冷やするものだとは、今日まで知らなかったが。親に怒られていた意味がよく分かった。
「骨折すると痛いんだよ。すっごくすごっくね。ずーとずきずきするから夜も眠れないし、赤紫のまだら模様になるし、元の数倍パンパンに腫れあがるし」
 うぇ、とちび魔女は顔をしかめる。
「あとはね……」
「わかった、もういいよ!」
 ちび魔女は、手で耳を塞いだ。
 階段を降り終え、少女の傍まできた有馬は「じゃあ、次からも階段はちゃんと降りた方がいいよ」と、経験者故の忠告をしておく。
 ちび魔女は、「有馬くん、ママみたい」と嫌そうに呟いてから、耳元に押しつけていた手をそろそろと外した。
「じゃあ、まぁ、行くよ、魔女美さん」
「うん?」
 スタスタと一人道路を歩きだした有馬を見ながら、ちび魔女は一人、首を傾げる。
 数秒後、“魔女美”が指し示しているのが自分自身だと気付いたちび魔女は、「何その、だっさいあだ名!」と抗議を上げた。
 その叫びで、少女がついてきていないことに気付いた有馬は、立ち止まって、ちび魔女を振り返り彼女を待つ。
「だって、僕、魔女美さんの名前知らないし」
「りおな! りーおーなー!」
「そう。早く来ないと置いてくよ、魔女美さん」
「りおなだってばっ!」
 頬を真赤にして、抗議するも、軽く流されたちび魔女は、くぅうううと奥歯を噛みしめた。「早く」と呼ばれた彼女は、キッと有馬を睨みつける。
「ちょっと待ちなさいよ、梅昆布!」
 有馬につけられたへんてこなあだ名に、納得のいかないものを抱えながらも、ちび魔女もとい魔女美は有馬の後を追いかけたのだ。