「こらー! 那胖なゆたっ!」
 母の怒鳴り声を無視して、ててて、と駆けて行った男子おのこは、道の先に、黄昏の中を帰ってきた父を見つけ、膝に抱きついた。
「とっと!」
「ああー、分かったから、うちに戻ろうな。かかが怒ってる」
 足によじ登ろうとしている息子の首根っこをつまみあげて、庫侘は那胖を肩車した。落ちぬように、小さな手にしっかりと己の頭を握らせる。
 父の髪を引っ張って、肩にのる那胖は急に広がった高い視界に、きゃらきゃらと笑った。
 庫侘は眉を上げて、頭の上にいる息子に問いかける。
「那胖、お前また何かしたんだろう」
「してないよぉ」
「まーた、茄子を食べなかったんじゃないのか」
「ちがうよ。なすは、かのにあげたの。そうしたら、かかがおこった」
「ああ、隣の?」
「そう。だってかのはなす、すきだって。かわってるよね」
「そりゃあ、怒られるはずだ」
 庫侘は困ったものだ、と苦笑を洩らした。
 次第に、色が薄ろいでゆく空を軽く振り仰ぎ、彼は目を細める。突如、傾いだ視界に、那胖は慌てて、父の頭にしがみついた。
 茅葺きの屋根は、金色の光を受けて、眩しく輝く。雨にさらされて色落ちた木壁も、それなりのものに見えた。庭ではトツラの巨木がゆうゆうと深緑の枝葉を腕いっぱいに広げている。
 戸の前には、腰の辺りまで伸びた髪を一つに結え、しかめつらしい顔をした浅香が腕を組んで立っていた。
 母の姿が近づく度に、那胖は首を引っ込め、父の頭の後ろに隠れる。戸口に立つ頃には、完全に隠れてしまった息子を、庫侘は容赦なく浅香の前に引き出した。
「はいよ」
 着物の首根っこを父につらされて、那胖はしゅんとうなだれる。浅香は、息子に手を伸ばして、庫侘から抱きうけると、ゴツンと頭突きをくらわした。
「い、いたいー」
「かかだって痛いです」
 涙目になって額を抑える息子に、浅香はぴしゃりと言い放った。自分は怒っているのだ、と伝える為に、表情をほどかぬまま浅香はじっと那胖を見据える。
「那胖のせいで、かかまで痛いのよ」
「うぅ……」
 那胖は、己の額をさする。それから、小さな掌を伸ばして、浅香の額に触れさせた。温度の高い子どもの手が、浅香の額をいたわるようにさする。
「かかも、いたいのはごめんなさい」
「うん。勝手に出て行ったらびっくりするでしょう」
「うん?」
 那胖は、首を捻る。その様に、ふっと浅香は顔をほころばせた。
「茄子のこともきちんと食べてもらいますけどね」
 付け加えると、那胖は口を曲げる。
 幼い息子を抱えたまま、浅香は戸口に立つ夫を見上げた。
「お帰りなさい」
「うん」
 頷いて、庫侘は可笑しそうに笑う。
「二人とも額が真赤だ。随分と手加減なく打ったなぁ、浅香」
 庫侘は、右手で浅香の額を撫ぜ、次いで、那胖の額を撫ぜた。那胖がくすぐったそうに、首をすくめる。
「ねぇねぇ、とと。それおみやげ?」
 額にある手とは、別の方の父の手に握られている麻袋に、那胖はきらりと目を輝かせた。
「ああ。帰ってくる途中に、端科はしなのおばあちゃんがくれたんだ。今年は採れすぎなくらい、たんと採れたんだとさ」
 庫侘が袋の口を開けるのを、浅香に抱えられている那胖はそわそわと見下ろした。
 ――と、出てきた艶のある濃い紫の野菜に、彼は言葉を失う。
「まぁ、綺麗な茄子だこと」
「よかったなぁ、那胖」
 二人は、揃ってくすくすと笑う。
 ぐぅと、固まってしまった那胖は、艶と照り光る茄子を見て、毎日ちょっとずつ、かのの所へこっそり持っていくことを決めたのだった。