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 託された宝玉に彼自身は、これといって特別な思い出などなかった。
 ただ屋敷の中に、さもうやうやしくあがめられているかのように陳列されていただけの玉。
 美しくはあるが、言ってしまえば、それ以上でも以下でもない。
 代々、母の家系が受け継いできたという里長を示す玉。父は、その玉を誇らしげに眺め、大切に扱っていた。それは、玉の主である母が苦笑する程の執心ぶりであった。
 けれども、母が夭折し、名目上は彼女の代長であった父が消沈している間に、長の玉は母従弟に騙し取られた。
 だからと、命を賭して、あるいは命を奪ってまでも取り返すようなものでもなかったのだ。少なくとも、彼はあの時、あの場で、今まさに斬首される父に駆け寄った瞬間、全てをやり終えたかの如き笑みを向けられながら玉を受け取りたくなどなかった。ひっそりと託された玉。だけれど、父らの命と引き換えにするにはあまりにも無意味すぎる。
 何故、このようなことになったのか。父に向けられた刃は、次に自分に向けられるのだろうと彼が悟った時、けれど、それはなされなかった。
 中途で入った、制止の太い声。かわり、乱暴に引きたてられることとなった彼は、もはや意味を失くしたものと知りつつ、押し隠された玉を捨てることもできなかった。

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 あれほどいらないと拒んだ宝玉を、結局、たゆは受け取った。いや、騙し諭して、承諾させたと言った方が、恐らくは正しいのだろう。
 妙は、忘れ去られ、岩のくぼみに転がっていた透明の玉に手を伸ばす。けれども、寸でのところで指先は玉には達せず、弛祁たるぎの指に絡みとられた。
 ぼんやりと呆けた眼差しでこちらを見上げてくる妙に、彼は苦笑しながら、手に取った玉を彼女の掌上に置き、包みこませる。
 たゆ、と口にのせた名は、あまりにも己が身には似つかわしくなく、大気に溶け込み、消え響く。にもかかわらず、目の前の女子おなごは、見上げたまま、瞬きもせずにするりと涙を流し、両の口端をほんの僅かにあげた。
 ふくらと翳の落ちる程丸かった頬は、幾年も経た今、ほのかにいろづくのみですべらかに顎へと集束する。弛祁は、その頬に片手と口を寄せ、雫の道筋を辿った。
 池にさざ波をたたせた風は、水の香をいやがうえにも増す。真昼の池は、太陽を受け、まさしく鏡のように銀に輝いていた。
 ここには一斉に、白花が咲く時期がある。今は見えぬ水の中。ゆらりとたゆたう水草が、茎葉の分け目に付ける花は、数がある分、小さくとも壮観だ。
 間に合うだろうか、と弛祁は思った。
 開くと同時に水花の合間から、ぽこりとあぶくが沸き起こる、あの瞬間まで間に合うだろうか、と。
「ねぇ、弛祁。咲いているかしら」
 ふいに手を引かれて、弛祁は顔を上げた。妙の顔は、迷いなく鏡池へ向く。そして、彼女が指すこの時期に咲く花と言えば、やはり水中の花しかなかったのだ。
「ひとつくらい。……咲いているかもしれないわ」
 池を取り囲む木々もこの時間帯は水面に映らない。その下で水間に揺れているだろう色濃い緑が目に映らぬのは、なおのこと。
 それでも茎間に咲く花が、ぽこりと泡を吐き出す様が、まざまざと瞼の裏に浮かんだ。
 きれい、と水の景観を眺める妙は、掌に収まる小さな玉を、腹の上に手で添え載せながら、呟く。
 わずかにも、さざ波がたったからだろうか。横を向いた妙の濡れ羽の黒髪が心なしか風にそよぐ。
 生まれ落ちた時から傍にあった玉が、彼女の手中に収まった。弛祁は目を細めて、その姿を焼き付ける。
 誰かにこの玉を託すなど、あの時分の弛祁には、思いもよらなかったこと。
 ――ああ、あれは。彼らが古から繋いできた証を、大切な人から繋いできた証を、この世でいっとういとおしい者への繋がりを、どうしても残したかったからなのだ。
 恐らく今後、外に出ることができるのは、あと一度きり。
 弛祁は請うように、妙の頭の頂へ額を凭せかけた。

「うん。すごく綺麗だ」